第16話
正月も終わり、そろそろ奏臥のところへ顔を出すかと考え始めた頃、都の植物から噂話を聞いた。曰く、雪月花仙に帝への謀反の疑いあり、と。噂の出所は言わずもがなの嵯禰維尽だ。憂さ晴らしも実に小賢しい。奏臥のところへ顔を出すのはしばらくやめておいた方がいいだろう。
きゅぅいっ。
探し物をさせていた土鼠が戻って来たようだ。もさもさとした腹から玉を二つ、取り出して禄花の前へころんと落とす。翡翠の睡蓮と珊瑚の芍薬。あの日、奏臥の懸守りに入れた玉だ。
「ご苦労だったな。ほら、お前の好きなだけ木の実をあげよう」
橡、小楢、赤樫、馬刀葉椎。ころころと転がった木の実を集めてずんぐりと丸い体を揺らす。
「戻って来たばかりで悪いが、これを奏臥へ届けてくれるか」
玉を二つ、それから新しく縫い直した玄色の懸守りを絹の袋へ入れて差し出すと土鼠はきゅい、と鳴いた。しばらく会えぬが、玉を渡せばここへ来るような無謀はすまい。その間に或誼からか、あるいは帝からか声がかかれば良いが。
さて、圧政を行った夫を追いやって自ら即位した女天皇は一体どう出るか。江明帝は良くも悪くも「君主」であった。自分の意のままにはならぬが反抗もせぬと禄花を捨て置いた。現帝の玄聖帝はその江明帝の孫娘である。
「確か孫の中では一番優秀だと言っていたのではなかったか」
だからこそ、その結婚相手は厳選したはずだが人というのは権力を手にすると狂うのだろう。維嵩帝はその見本だ。即位した途端に遊びに明け暮れ国政をおろそかにし、腐敗と汚職に塗れた貴族は勝手に税をかけたり、作物を召し上げたりとやりたい放題。都から遠く離れた北の国、吾毘が民の半分を減らす大飢饉に見舞われた際も知らぬ顔で通例通りに税を徴収した。山に籠っていた禄花は、吾毘の飢饉に気づくのが遅れた。民は既に大半が倒れ、領主は処刑覚悟で都へ嘆願書を持って訴え出るところだった。当時の吾毘の領主を何とか落ち着くよう説得し、気休めにしかならぬ六花散を配って歩いた。善人などには程遠い。それでも戦になるよりましだったのだと、吾毘の領主と己へ言い聞かせた。苦々しく思い出しながら土鼠を見送ると、入れ替わりに蓮鶴が戻って来た。
「ご苦労。ふむ。吾毘の領主から返事があったか」
手紙へ目を通し、雑に文机の上へ放り投げる。
「花仙殿が当領地へお越しになるのであれば真に幸い……か。己れが派手に動けば戦の火種になることも承知の上でか」
人の人生は短い。二十年も吾毘で隠遁生活を送れば人々も禄花のことなど忘れるだろう。それが一番平穏に済む策だ。ただ、その間の以斉の家を誰が守るかが問題である。或誼の知略だけでは足らぬ。物理的に、他家も帝も易々と手出しができぬ抑止力が必要だ。
「……」
もう一度手のひらに乗せた小さな種を見つめる。握り締めた手のひらを開いて手を叩く。それから手持ちの衣装の中でなるべく派手な桔梗色の狩衣を着込み、一斤染の紐で高く髪を結った。
香鵬を呼んでその背に乗り、内裏の近くで色とりどりの花をまき散らしながらわざと目立つように降り立って練り歩く。より目立つには町娘のように小袖で来ればよかったか。一つ心配なのは内裏は以斉の屋敷が近いので、奏臥と顔を合わせる前に塒へ戻らねばならぬということだけだ。それも要らぬ心配だろう。
「何といってもあれの迷子は筋金入りだからな」
くく、と喉を鳴らして
「叔父上、
「明蓮。陰陽師は弓の鍛錬をする必要はない。弓は破魔の鳴弦の為に扱うのだ」
「しかし叔父上は弓も剣も都のどの武人よりも優れた腕前だと父上から聞いております」
咄嗟に塀を飛び越え、内裏にあった木の影に隠れる。
隠れた木と感覚を共有して木から見える景色を眺めた。大路を行く杉のように真っ直ぐ伸びた背と、それを追いかける五つか六つの子供。なるほどあれが或誼の息子か。或誼と奏臥が似ているのだから、当然といえば当然に明蓮丸と呼ばれた子供は親子と言われても不思議はないほど奏臥に似ている。そういえば夏氏弥家の屋敷は右京にあるのではなかったか。しばし涼やかな美貌と利発そうな幼子の姿を眺めた。奏臥の年ならばすでに子供があってもおかしくはない。四つ年上の或誼に五つか六つの子供があるのだ、本来ならばそれが妥当だろう。なのに妙に胸が塞いだ。
「ふふ……」
「叔父上が笑うなど、珍しいです」
「いや、先日友に剣や弓を持って鬼を調伏する以斉の家がおかしいのだと言われたばかりでな」
「おかしくありませぬ! 明蓮丸は叔父上を尊敬しております!」
「ありがとう。けれど明蓮。お前の父上も立派なお方だ」
「はい!」
「……しかし困ったな。また志嬰と紀之片は迷子か」
「迷子は明蓮と叔父上でありましょう」
「違うぞ、明蓮。志嬰と紀之片が迷子なのだ」
「……分かり申した」
甥にまで気を使われているのか奏臥よ。ということは夏氏弥家の屋敷を目指して逆方向へ進んでいるのではないだろうか。早く夏氏弥家の屋敷へ行ってもらうに限る。土鼠を使って志嬰と紀之片を探す。見つけた聞き慣れた足音に、土鼠を向かわせる。
「志嬰。志嬰。皇嘉門で奏臥が迷子になっている」
『花仙様? あい分かりました。ありがとうございます』
「己れが知らせたことは奏臥に黙っているように」
『……秘密にございますね。承知致しました』
志嬰が聡くて助かった。途中まで土鼠に案内させ、奏臥に見つかる前に術を解く。とにかくここを早く離れねば。皇嘉門は刑部省や治部省に近い。誰かに見つかると厄介だ。
「もう穴掘って帰ろうかな」
帝にわざわざ禄花の存在を知らしめに来たというのに、穴を掘って帰るとは本末転倒だ。迷っていると奏臥の少し弾んだ声がした。
「大路に花が落ちている……明蓮。私の友に会えるやも知れんぞ」
「叔父上のご友人ですか。どなたでしょう」
「とても美しい。大輪の芍薬のような人だよ」
「叔父上よりもですか」
「月雪よりも百の花より万の花よりも美しい」
子供にまでそんなことを言っているのか。飛び出して行って怒鳴りつけてやりたい気持ちを堪える。程なくして志嬰の声が聞こえて来た。
「奏臥様」
「師匠!」
「志嬰、紀之片」
「見つかってよかった……明蓮丸様もお心細かったことでしょう。さ、夏氏弥家の屋敷までお送りいたします」
「心細くはありません。叔父上が一緒ですから」
明蓮丸がきっぱりと言い切って尊敬の眼差しで奏臥を仰ぐ。その尊敬している叔父が迷子の元凶なのだとは志嬰も紀之片も言えずに苦笑いをしている。
「さ、師匠。明蓮丸さまをお屋敷まで送って行きましょう」
きょろきょろと辺りを見回して紀之片が奏臥の背を押す。一応、禄花と鉢合わせしないように気を使ってくれたのか。
「しかし、近くに禄花が居るはずなのだが」
「なんで分かるんです、そんなこと」
「分かる。冬に咲かない花が大路にたくさん落ちている」
「だとしても、明蓮丸さまを送って行くことが先です。花仙さまのことは後からいくらでも探せるでしょ」
「……」
明らかに萎れた六尺の大男に明蓮丸まで気づかわし気な視線を送る。
「お、叔父上。明蓮は志嬰と紀之片に屋敷まで送ってもらいますゆえ、どうぞそのご友人をお探しください」
「……いや。そのようなことをしてきたと知られれば烈火の如く叱られる。夢見るように美しいが、あれは怒ると大変に怖いのだ」
「ぶふっ。確かに。明蓮丸さまを置いて追いかけて来たなんて知ったら花仙さま、おっこるだろうなぁ。『なにぃっっ?! 子供を志嬰と紀之片へ押しつけて来ただとっ!』とかって」
「これっ、紀之片。……まぁ確かにそれはお怒りになられるでしょうけれど」
「……行こう、明蓮丸」
「しかし叔父上」
「よいのだ」
言う。絶対に言う。子供を置いて来るとは何事だ、と叱り飛ばされるに違いない。遠い目をしてから甥に声をかけた奏臥の肩が心なしか落ちている。くすくすと笑いながら志嬰と紀之片が先導し、奏臥と明蓮丸がそれに続く。塀をぽんと飛び越えて大路へ顔を出し、解せぬと眉を寄せて見せる。
「どうにも笑いものにされているな」
奏臥が禄花を探しに来る前に退散するに限る。仕上げとばかりに香鵬の上から派手に花を振り撒いて内裏の上を飛び去る。これで帝も居るのか居ないのか分からぬ雪月花仙がどうやら実在らしいと知るだろう。さて、どう出るか。
塒へ戻り杉の木の根元で振り返る。ふうわりと柔らかい癖に冷たい塊が目路を横切る。雪が降って来た。餌は撒いた。あとは相手が餌に食い付くのを待つだけだ。最悪の事態を想定しつつも、この時禄花はまだのん気なものだった。
否。何度となく言い聞かせて来た。こんなことはもう慣れっ子だと。またほんの二十年ほど人と関わらずに居れば相手も禄花を忘れてしまう。忘れられることに慣れた。置いて逝かれることに慣れた。無だ。
心が死んでも、体だけは生きて行くのだ或誼殿。そうして鈍くなる。痛みに。喪失に。
浅い眠りの中で夢を見た。覚えなどあるはずもない夢だ。夢の中で禄花は母に抱かれていた。掴もうとした温もりは隠し室のひいやりとした空気に阻まれた。聞き覚えのある足音に身を起こす。まさか。持ち主の香りも大分薄くなった衵を被って裸足のまま外へ出る。素足に緑藍の小さな手が当たった。
「――禄花」
白い息を吐く。凛乎とした美貌はかじかんで赤くなった、指先が痛々しい手を差し伸べる。
「行こう。説明すれば誤解は解ける。君が何も企んでなどいないと」
ああ。ああ、お前が来てしまったか。その善性はきっとこれから打ちのめされる。打ちのめすために、己れは行くのだから。
誤解など、あろうはずもない。嵯禰の当主は禄花を、禄花と付き合いのある以斉家を引き摺り下すために讒言を帝へ吹き込んだに違いないのだ。そしてそんなことは元より理解している帝は、その企みに乗ったのだろう。
「何の話だ」と尋ねないことを疑問に思わぬほど、必死に山を登って来たのだろう。二度とそんな風に己れのことを追いかけて来ないように。さよなら、奏臥。己れの清廉な白睡蓮。杉のように真っ直ぐなお前には分かるまい。己れがお前にくれてやれるのは永遠の別れだけだ。
「……着替えくらいさせてくれ。そうだな……髪を、結ってもらえるか」
「うん」
もうこの先、何度もお前に会うこともあるまい。口にはできず茵へ座る。隠し室には鏡などない。なくてよかった。お前に顔を見られずに済む。玄色の狩衣に着替え、奏臥の袍の腹を叩く。
「行こうか」
「うん」
心は痛まない。ただただ虚無がぽっかりと穴を開けている。それを覗き込んではいけない。よく分かっている。奏臥には奏臥の居場所がある。
「
藹鱗は長い毛のように白くふさふさしたススキで覆われた、四畳ほどの大きさの蛾だ。控えめにちょこんと縮まっている背に乗れと奏臥を見る。
「……目が」
「おう?」
「大きくてかわいい」
「……そうか。こいつは毛足が長くて温かいから冬はよく使う」
「そうか」
覚えず頬を緩める。そのままのお前でいてくれと願う。例え一時は禄花を恨んだとしても。
「直接内裏に行きたいところだが、お前が来るということは違うのだろう?」
「うん。まずは少納言殿が陰陽寮で禄花の話を聞きたいと」
「小物だな。花仙などと真偽のほどの分からぬ痴れ者かも知れんからまぁ、出てくるのはそんなもんか」
「禄花」
少納言殿の前では口を慎め。そう言いたいのだろう。奏臥の素直が心配が伝わって来る。奏臥が先に来たということは、或誼より先に本人を会わせて誤解を解こうという考えなのだろう。それならそれで好都合だ。おそらく或誼が見せたことのない、対外的な態度を奏臥に知らせることは禄花にとっても本意ではない。
そうやって、或誼は或誼なりに最愛の弟を守って来たのだ。だから奏臥は素直に育った。
その実直さが宮中の貴族に通用するわけがない。相手は探りに来るのだ。禄花が使えるか、使えぬか。権力側の考えることなどそれしかない。だが奏臥は素直に信じている。誤解を解けば、禄花と奏臥は今まで通りだ、と。
聡い或誼のことだ、禄花が大内裏に来たと知ればすぐに陰陽寮へ駆けつけて来るだろう。早めに手を打つ必要がある。
きらきらと鱗粉の代わりに花弁を散らしながら藹鱗はすぐに大内裏へ舞い降りる。陰陽寮の前に小さく身を縮めて大人しく止まった藹鱗に陰陽寮周辺の下級貴族たちが逃げ惑う。陰陽生が居るはずなのに護符の一つも飛んで来ないとは。藹鱗は妖ではないので、結界も護符も効かぬがそういう問題ではない。
「あなや」
「妖が大内裏に」
宙で手を振る。藹鱗はすぐに解けて地面へ消えた。後には僅かに花弁が残るのみ。禄花の腕を狩衣の上から掴んで、お構いなしに奏臥は陰陽寮の中へ入って行く。
「以斉奏臥、少納言殿にお目通り願いたく」
禄花に見惚れて答えぬ陰陽生を脇目に進んで行く。褥に座った浅緋の袍を着た神経質そうな小男がおそらく少納言だろう。奏臥を押しのけ、ずかずかと目の前へ歩み寄る。
「
「江座……まさか! 百年前に絶えた家系じゃぞ! 恐れ多くも帝の外戚ぞ!」
心底面倒だ。懐から千寿菊の紋が施されている古びた懸守りと金魚袋を取り出して押しつける。
「これは……確かに江座の家紋……」
「母は晴姫御前。幼名は晴天丸。騙りかどうかは好きに調べよ。己れは帝にも政にも興味はない。己れと以斉の者を捨て置かぬならば、己れにも考えがあるぞ」
「以斉殿、話が違うではないか!」
諸々面倒事が増えたことで、少納言は当面奏臥へ八つ当たりをすることにしたらしい。或誼から何一つ知らされていない奏臥は、当然困惑を隠しもせずに疑問を口にする。
「少納言殿、話とは? 禄花、君は一体……」
「己れは
美しさなど何の役にも立たぬ。母も禄花も、己の面の皮が他人にとってどうであるかというだけで人生を狂わされた。だから禄花は自分の顔が嫌いだ。だから禄花は己の真の名が嫌いだ。
だから禄花は、自分の顔を褒める人間が嫌いだ。禄花の顔を見る人間の、あの下卑た顔。名前すら呼ばれたことのない父親の、最期の顔。
「腐って爛れてほとんど骨になった明禪を内裏に運んだ。その時の帝は江明帝の祖父、玲璃内親王の弟である明璃帝であった。とある山から出ぬのであれば捨て置くと言って明禪の亡骸を受け取った。だから明璃帝が明禪をどこに埋葬したかは知らぬ」
「……そんな……まさか……本当に璃明様……」
江座明禪の詳しい死に様など、今さら知る者など多くあるはずもない。あるとすれば、当事者のみだ。少納言がよろよろと陰陽寮を出て行く。
「さて。用は済んだ。帰るぞ、奏臥」
「何……あれでよかったのか?」
「よい。少納言の話を聞いて帝がどう出るかを待つしかあるまい」
「では我が屋敷で休んで行けばよい」
「断る。色々やることができた。ではな」
きっぱりと切り捨てた。聞きたいことは色々あるだろうに、奏臥は僅かに思案する表情を見せただけで頷く。
「分かった。都の外れまで送ろう」
「送ったお前が迷子になるだろうが。ありがとうよ。だが一人で帰る。悪いな。お前は迷子になるから、或誼殿と帰れよ」
言うなり香鵬を呼び出し、飛び立つ。
「君の……本当の名は」
低く吐き出された言葉を、風にかき消されたふりをして聞き逃してもよかった。
「璃明と言うのか」
「……捨てた名だ。お前は今まで通りにろくでなしの禄花と呼ぶがいい」
生まれたことを喜ばれず、実の父に犯されかけ、その父を殺した凶児。忘れたい事実と共に、その名は捨てた。
そしてまた捨てるのだ。今度はお前を。
塒の山を目指して香鵬が羽ばたく。陰陽寮の前で立ち尽くす奏臥の姿が小さくなる。禄花は覚えず、胸を押さえた。
翌日は一日中隠し室の片付けをしていた。うっかり触っては困る毒草などを氷室へしまう。ただでさえ簡素な隠し室は片付けてしまえばすぐに主はもう、ここへ帰って来るつもりはないと無言で知らしめる。
それから二、三日は森の植物などを調べて過ごした。特に、間引きの必要な木や立ち枯れた木を調べて歩きまわった。四日目の朝、山に分け入る大勢の気配に隠し室を出て、岩屋の入口を閉じる。折よく奏臥に出会えればいいが。少し考えて杉の君に寄りかかる。目を閉じて待つ。その間に禄花の毒に耐えきれず、杉の君が枯れてしまうのならばそれもまた運命なのだろうと思った。
「禄花……!」
聞き慣れた声に目を開く。狩衣姿の奏臥へ微かに微笑んで見せた。
「遅かったじゃないか」
「どうして外に居るんだ? 早く中へ。衛士たちがじきにここにも来る」
「何故、衛士たちが己れを探しているんだ」
「……帝から、勅命が下った。江座璃明を名乗る不届き者を捕まえろ、と」
「それでどうしてすぐここを山狩りに?」
「分からない。でも岩屋の入口は目くらましが効く。さぁ、中に入って」
わざわざ禄花が少納言に手掛かりとなる言葉を伝えたからだと言うことは、禄花自身がよく分かっている。しかし奏臥は違う。困惑を隠せずに動揺する奏臥の肩を突き飛ばす。
「己れを売ったか、以斉或誼」
「違う、兄上はそんな……何かの間違いだ。禄花、誤解だ」
「奏臥」
静かに口を開く。或誼は全て察していて、今まで黙っていた。だから或誼が禄花を売ったのではないことは明らかだ。そんなことは理解している。だが奏臥を突き放すには都合がいい。禄花から別れを告げねば、この先苦しむのは禄花自身だ。
――置いて、逝くくせに。
「己れは人間が嫌いだ。煩わしい。望んだわけではない出自に振り回される。己れが百年も隠れていたのはそういうことだ」
「禄花、……」
「言っただろう。己れは実の父に犯されかけたんだ。皮肉にもその父に放置されてこの身が毒を生む体に変じていたから犯されずに済んだ。己れに興味などなかったのに。顔が母に似ていたから。それだけで。爛れて腐れ落ちた己の肉で窒息する父をいい気味だと思った。当然の報いだと。知らぬうちに笑っていた。大声で笑った。滑稽だったからだ。己れも、父も。あの時の己れの顔はこの世で一番醜い表情をしていたに違いない。だから己れは自分の顔が嫌いだ。自分の顔を褒める人間も嫌いだ。だが一番醜く汚らわしいのは己れ自身だ。……もう疲れた」
死んでしまいたい。お前にだけは知られたくなかった。だから告げるのだ。迷いを断ち切るために。
「禄花……それは君のせいではない」
伸ばされた手を冷徹に振り払う。怒りを込めねばならぬのに、ないものを込められるはずもなく。
「裏切り者め」
弱々しく零れ落ちた言葉に、けれど奏臥は酷く傷ついた表情をした。衛士が来たのか、たくさんの足音と鎧で動き回る音がする。木立の間に見え隠れする人影を確認してから、奏臥へ背を向け駆け出す。
「禄花!」
声より先に奏臥の式神が衛士に立ちはだかる。その式神ごと、衛士を手のひらから伸ばした蔓で横へ薙ぎ払う。
「退け! お前の助けなど要らぬ! 余計なことをするな! 次にやったらぶっ飛ばす!」
阿呆め。どこまでお人好しなのだ。奏臥はあくまでも、それとは知らずに禄花に騙され付き合わされただけという立場にしておかねばならぬ。でなければ守れぬ。
しかし奏臥は袍の懐から符術用の紙を出し、刀で指を切って呪符をしたためようとしている。
「土鼠、奴から符を取り上げろ!」
衛士には禄花と奏臥が敵対して見えるように。奏臥の邪魔をしながら東へ走る。
「禄花! 止まれ!」
「やなこった!」
這蛇を何体も放って衛士を足止めしながら、禄花自身も這蛇に乗って山頂近くの崖を目指す。狩衣の袖を縫い止めた物を見やり、背後へ視線を巡らせる。木の生い茂る中で弓を放つなど、奏臥に当たったらどうしてくれる。
ふわりと宙に現れたススキがくるくると回り大きな塊になり、翅を広げる。羽ばたき一つで花弁の鱗粉が弓を叩き落して行く。
「嘆かわしいな。衛士ですら紀之片より弓の上手い者が居らぬとは」
「禄花!」
驚いて振り向く。どうやって奏臥を崖まで誘導しようか悩んでいたというのに。あの迷子癖がまだついて来ているのか。衛士の向こうに奏臥の姿を探す。覚悟はとうに決まっていたはず。迷うな。江座の名は捨てた。己れは雪月花仙、苑離禄花。派手に木々を倒しながら崖を目指す。ここ数日で調べた元々立ち枯れた木だ。簡単に倒れる。これならば奏臥も迷わず付いて来られるだろう。
「這蛇。本気で行くぞ」
ふしゅるるる。
呼応した這蛇の首を軽く撫でてやる。それから一斉に追いかけて来る衛士と同じ数の這蛇を放った。
「うわぁ!」
「おお!」
悲鳴が上がる中、衛士の足止めは這蛇に任せて先を行く。
「禄花!」
呼び声に振り返ると奏臥は黒い野鼠の背に乗り、危なげなく追いかけて来る。あんな式神まであるのか。禄花の使い魔たちに促されて乗ることはしても、奏臥は自身の式神を道具のように扱ったことはない。そこに何某かの信念があるのだろうと思っていた。矜持を曲げても追いかけて来るか。これならば或誼や衛士が先に禄花へ追い付いてしまう心配もないだろう。
一気に速度を上げて山中を駆け上る。後ろを見やれば奏臥は遅れることなくついて来ている。這蛇は木を薙ぎ倒しながら進んでいるから、衛士や或誼が二人を見失うこともないだろう。そのまま斜面を駆け、禄花も滅多に近づかぬ崖へと近づく。ある程度の目撃者は必要だろう。衛士たちの相手をさせていた這蛇を数匹手加減させる。奏臥の後に、少し遅れて付いて来ているようだ。
切り立った崖の周辺は常に強い風に晒されるせいか、背の高い植物は生えていない。開けた場所で一旦止まり、奏臥へ向き直る。奏臥は沈痛な面持ちで近づき、搾り出すように懇願した。
「お願いだ禄花。誤解を解こう。兄上が君を裏切るわけがない」
無言で奏臥の式神へ蔓を放つ。硬い藤蔓だ。易々と黒い野鼠の腹を突き刺し、奏臥ごと草むらへ叩きつける。やり過ぎたか。叩きつける前に草むらの草を柔らかに生い茂らせたが打ち身くらいはしているかも知れぬ。
禄花の心配を他所に奏臥はすぐにすっくと立ち上がった。しかし、その貌は情けなく歪んで今にも涙が零れ落ちそうに眉根を寄せている。
「……禄花」
それでも手を伸ばし、一歩踏み出す。分かっている。分かっていたのだ。
お前が、己れを追いかけて来なくなるには己れがこの世に居なくなるしかないんだろう。分かっているんだ。
呼び声を無視して崖の際を進む。奏臥も衛士も付いて来ている。山肌を削りながら目的の場所を目指す。禄花の削った道を、下半身が蛇の服装やら装飾品が赤い式神が追って来ている。
「あんな式まで持っていたのか」
奏臥自身も分かっていたのだろう。力を見せ過ぎれば疎まれると。
奏臥の式神の後ろ、少し遅れて衛士たちが追いかけて来るのも見えた。この程度離れていれば邪魔はできぬが、証人にはなる。そろそろよい距離だ。
深く息を吸い込む。妙に心は凪いでいた。しんと冴えわたっている。
「禄花、その先は危ない。こちらへ」
式神の背を下りて近づく長身は、いつもと違い少し袍も髪も乱れている。禄花も這蛇を下りて崖の縁へ立つ。ここでいい。下は崖から削れ落ちた、大小様々な岩が転がる荒地だ。叩きつけられれば岩に砕かれ到底助かるまい。体はバラバラに砕け散るだろう。
「うるさい黙れ。お前なんかの言うことを誰が聞くか!」
泣き出しそうに柳眉を歪めて伸ばした手にわざと捕まる。痴な。己れのことなど捨て置けばいいものを。翡翠色の狩衣へ抱き寄せられた。もう最後だろう、仄かな白檀の香りを胸に吸い込む。意外に大人しく捕まったことに驚いて緩んだ腕の中、身を翻して眉間を突く。
「汝大地と理を契るもの。理より外れ、新たな理へこの者を導け!」
「!」
奏臥の額には小さな赤い種がぴたりと貼り付く。細い蔦が種を中心に広がり四肢を覆う。針より細い蔦の先は衣をくぐり肌の中へ消える。
奏臥の胸ぐらを掴み顔を寄せ、うっそりと微笑む。奏臥の向こうに駆けて来る或誼と衛士たちが見えた。
禄花が奏臥に与えられるものなど、不老不死という呪いだけ。他には何も、与えることなどできないから。
「呪われろ」
驚き怯んだ奏臥の胸を押す。その勢いで崖の下へ自重へ任せて落ちて行く。清然な美貌が悲痛に歪む。触れれば腐れて爛れると言ったのに、奏臥は迷いなく禄花の手を掴もうとした。その手を蔦で払い除け、微笑む。
阿呆め。もういい。それだけでいい。二度と会えずともそれでいい。
己れがお前にしてやれることなど何もないことは分かっていたのだから。だから己れが、お前に何を望めるというのだろう。
「禄花!」
うるさい。お前より百も年上だと何度言えば分かるんだ。ああしかしそういえば、お前に呼び捨てにしろと言ったのは己れだったか。風を切る音よりも鋭い悲鳴が響き渡る。
「禄花! 禄花ああああ――!」
「奏臥! やめなさい! お前まで落ちる気か!」
「離してください兄上! 離せ! 禄花!」
大事な兄上になんて口の利き方だ。奏。奏臥。恨んでない。恨むほどの執着もない。お前となら。
千年二人並んでただ佇む、大きな木になってもいいと。ほんの少しだけ思った。それだけだ。
お前にその覚悟があるか――。
否。お前に問う覚悟が己れにないだけだ。分かっている。だから逃げるのだ。
喪ってしまう前に。お前という存在の喪失を味わう前に。お前を喪うくらいなら、自分が死んでしまいたい。
永遠に瞼を閉じて、お前との想い出だけを繰り返せたらいいのに。
重力に身を任せ、大地が伸ばした
ごしゃり、ともみしり、ともとれる音が背後から聞こえた。思ったより痛みはない。それよりも衝撃の方が強い。見えているのに見えない。聞こえているのに聞こえない。激痛よりもしんと冷たさが全身を覆う。
ああ、これが死か。思考がまとまる前に、意識が暗転した。
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