第15話

 窮屈に膝を抱えて丸くなったまま、少しうとうとしたらしい。遠くから珍しく声を荒げた或誼の制止が聞こえて顔を上げた。

「ですので見舞いは不要、お帰りくださいと申しておるのです!」

「しかし或誼殿、奏臥殿の怪我は私のせい。お加減だけでもお教えいただきたい」

 耳障りな甲高い声に紀之片が立ち上がって身構えた。志嬰は或誼と一緒に維尽を押しとどめようとしているのか、ひさしに居ない。立ち上がろうとして掴まれたままの袖に気づき、肩から袖を断つ。廂で身構える紀之片の肩を叩き、ずかずかと歩いて妻戸を大きく開いた。明らかに悪意に満ちた笑いを浮かべる下膨れを睨む。奏臥が生きているかどうか窺いに来たのだ。臓腑の底から昏く冷たく、しかし熱く荒れ狂う感情が湧き上がる。その感情をぶつけるが如く怒鳴った。

「やかましい! 叩き出される前に出ていけ!」

 一喝すると下膨れは声を失って目を白黒させる。しかし気を取り直したのか扇を口へ当て、何事か喋ろうとしたので大きく腕を振り、這蛇を出して庭へ抓み出す。

「ぅうわぁ~!」

「口を閉じろ、不愉快だ」

 這蛇の尻尾をねじ込み、黙らせる。まだ雪の積もる庭へ仰向けに放り出された維尽を見下ろし、冷たく放つ。

「非常識もいい加減にしろ。誰のせいで奏臥が生死を彷徨うような怪我をしたと思っている。これ以上無礼を働くならば容赦はせぬ。失せろ。ああ、いい。お前の足で出て行く必要はない。己れが叩き出す。二度とその不愉快な顔を見せるでない。さもなくばそのたびに同じ目に遭わせてやる。分かったか!」

 無言で首を激しく上下した維尽の下膨れの横面を、蔦を丸めたもので手加減なしに殴り飛ばす。

「這蛇、羅生門のさらに向こうの荒野にでも放り出して来い」

 しゅぅぅぅ。

 息を吐くような音で返事をした這蛇が尻尾を維尽の体へ巻きつけ空を飛ぶ。何事か騒いでいたが這蛇は遥か彼方空高く上って行ったので分からない。あれだけ暴れると途中で落ちるかも知れないがそれも仕方のないことだ。一度振り落とされてぎりぎりで拾えば静かになるだろう。ぱんぱんと両手を打って振り返る。

「あれに無礼を働いたのは己れだ、或誼殿。以斉の家の者は一切関わりない。よいな」

「いいえ、いいえ、花仙殿。わたくし何やらすっきり致しました」

「わたしもです、花仙様」

 普段は穏やかな或誼と志嬰にすらこう言われるとは。苦笑いして答える。

「ああ、己れも何一つ後悔などしておらぬ。さ、奏臥の具合を見に行こう。熱も大分落ち着いたことだろう。もう心配はない」

 安堵して顔を見合わせる或誼と志嬰の肩を押して妻戸をくぐる。

 何一つ後悔していない。けれど禄花は理解していた。もう、そう長くは彼らと一緒に居られないであろう。奏臥の想いも、維尽の思惑も、禄花に彼らと長く関わり過ぎたことの弊害を示していた。

 厳しい冬はこれからが本番なのだ、と。

 以斉の屋敷へ泊まり込みで奏臥の看病をし、塒へ戻ったのは一週間ほど経った頃だった。その後も通いで一日おきに様子を見て、完全に「もう安心だ」と断言できたのはさらにその一週間後。起き上がって御帳台で本を読んでいる奏臥が目路に飛び込んで来た時の安堵と怒りは筆舌に尽くせぬ。

「本当に以斉の人間は頑丈で解せぬ」

 得意げな顔で禄花を振り返った奏臥の袖を掴んで上下に振る。

「褒めてねぇよ! 二週間前は死にかけてたんだ、もう一週間は養生しろ。仕事をするな。じき正月だろ。どうにかこうにか口実をつけて年明けまで仕事を断れ。分かったか」

「うん」

「ふんっ」

 できるだけ乱雑に掴んだ袖を放り投げた。奏臥は気にした風もなくにこにこと微笑んで禄花を見ている。

「正月は来るか、禄花」

「来ない! 阿呆め! 養生しろと言っただろ!」

「来ないのか……」

「正月くらいは家族で過ごせ」

「君も一緒がいい」

 「ここは己れの家ではないぞ」口にしかけて奥歯を噛み締める。明らかに萎れた奏臥に念を押した。

「あと、もう嵯禰の当主にはどうしても断れぬ仕事の付き合い以外関わるな。己れがもうひと押し脅しはかけておくが、何を言われても相手にするなよ。分かったか」

「……」

 あからさまに唇を噤んで横を向く。嘘を吐くくらいなら黙っているということだろう。袖で包んだ手で頬を掴んで無理矢理視線を合わせた。

「か! か! わ! る! な! 分かったか! 己れについてどんなに何を言われても、だ。いいな」

「……いやだ」

「子供かお前は! 或誼殿、きちんと言って聞かせよ」

「うーん、困りましたねぇ」

 よく似た美貌の兄弟は、よく似た仕草で禄花から目を逸らす。そんなところばかりが似て大変憎らしい。

「困るな。切って捨てよ。おぬしは以斉の家を守ることだけを考えよ。己れは慣れている。分かったな」

 吐き捨てた途端、袖の上から強く手を握り締められた。

「それでは君のことは誰が守る?」

「……己れのことは己れで守れる」

 己れと一緒ではお前を守れぬ。口にはせずに瞳を伏せる。

「さ、今日は大人しくしていろ。あと一週間は屋敷から出るな」

 手を宙でひらりと一振りして、莉蝶を出す。何十匹と舞う花弁の蝶へ目をやる奏臥へ言い置いて立ち上がる。

「お前が屋敷から出たら消えるように指示してある。分かったか」

「……君は美しいのに本当に意地が悪い」

「美しくなどない」

 本当に美しいものとは、理に逆らわず全うすることの中に生じるのだ。理から外れた禄花など美しくあろうはずもない。

「或誼殿。少し話せるか」

 手招いて廂へ移動する。妻戸を閉じて簀子の端まで歩き、声を潜める。

「何事があっても決して己れを庇い立てするな。以斉の家を守ることだけを考えよ。悪いようにはならぬ。よいな」

「花仙殿、それは」

「己れは以斉の家の者ではない。己れは己の身は己で守れる。不老不死だ。そうやって生きて来た。何しろ雅では神だそうだからな。案ずるな」

 或誼は憂いに柳眉を顰め、それからぽつりと零した。

「花仙殿。我が家は他の陰陽名家と既に事情が異なっております」

「知っている。大体な、陰陽道というのは占術が主で鬼退治などせぬ。刀を帯びて都を駆ける奏臥が特殊なのよ」

 宮中の行事を行う日取りや方角、細やかな決め事を占う。占術で邪気の強い場所を選定し、結界を施し、祈祷を行う。穢れのある土地あらば清め、都の鎮護を固める。邪気を押さえることができず、結界を破り侵入した鬼あらば武士へ依頼し対処を行う。陰陽師とはそういう仕事だ。ところが奏臥はその均衡を崩してしまった。

「はい。母もそうでした。鬼を滅する力が強く、その使役鬼もまた大変に力を持っておりました。ゆえに我が家は没落の危機がありながらも他の家より帝の覚えめでたきこととなりました。奏臥もまた、母と同じ。いえ、それ以上の力を持っております。わたくしが構ってやれなかったことが悔やまれます。気づいたら、あの子は一人で鬼を退治していた。他家がそれを見過ごすわけもございません。妖が出たとの噂があれば奏臥を出せと言われてしまう。実力があるばかりに奏臥も一人で退治してしまう。武士の出番はなくなる。我が家の、奏臥の名声が上がれば上がるほどますます以斉家と武家の溝は深まるばかり」

 そもそも或誼と奏臥の両親が亡くなったことで家が傾きかけたこと自体が不自然なのだ。それは二人の母が優れた陰陽師だったことを元々、快しとしなかった他家からの妨害もあったのだろう。

「以斉の家を面白く思わぬ者は多いのだろう。そこへ己れのような厄介者まで抱え込んでは、奏臥と一緒に守って来たお家を守れぬ。だから言うのだ」

 或誼には或誼の苦労があっただろう。かわいい弟を後回しにしてまで家を守って来た。それを無にするな。真っ直ぐに或誼を見据える。麹塵色の瞳が揺れた。

「己れのことは捨て置け。己のことは己でなんとでもできる。切り捨てよ。だが己れには奏臥を守れぬ。その義理がない。大義名分がない。だからおぬしが奏臥を守れ。よいな」

 項垂れた或誼の垂纓冠を目路に入れる。下級貴族とはいえお役目の重要さから様々な特例を許されているのだろう。その一つが着衣にも現れている。それゆえに他家から要らぬ恨みも買う。思うよりこの家の立場は危ういのだ。

「なにゆえ屋敷に目くらましまでかけて奏臥を守って来たのだ。忘れるでないぞ」

「いえ、目くらましはその」

「何だ」

「奏臥を一目見ようと屋敷に忍び込む姫が多くて」

「……あれが色ごとに疎くなったの、お主のせいではないか」

「面目もござりませぬ」

 ほほ、と朗らかに笑う或誼へ、厳しい顔をして見せる。それから顔を見られぬように、庭を眺めるふりをして背を向けた。

「まぁよい。これからはあれを少し自由にしてやれ。そうすればおのずと想う人にも出会えよう」

「……それは花仙殿、それは弟の気持ちを知った上でのお言葉ですか」

「お主はかわいい弟を得体の知れぬ男にくれてやるつもりか。よい機会だ。己れとは二度と会わぬようにするのが奏臥のためと思わぬのか」

 会わねば忘れる。例え忘れなくとも、否応なく時間が傷を思い出に変えて行く。禄花はそうして生きて来た。

「……それでは奏臥の、心まで守れませぬ」

「心は癒えるが命は修復できぬ」

 きっぱりと答えて勾欄を飛び越え、庭へ下りる。裸足で雪の上に立ち、或誼へ一つ、莉蝶を飛ばした。

「己れを呼び出すように言われるようなことがあればそれへ。絶対に奏臥には知らせるな。ではな。しばらく来ぬ」

 香鵬を呼んで背中に乗る。雪の上へ色とりどりの花弁をまき散らしながら、香鵬が強く羽ばたく。風の音が耳元でひゅうひゅうと鳴る中、聞こえた声は幻聴かも知れない。

「心も死にます、花仙殿」

 それでも。それでも生きていて欲しいと願うことは愚かだろうか。見届けることが叶わなくとも天寿を全うしたと、子孫から聞くことだけが救いの生は愚かだろうか。

 何一つ叶わぬ人生で、それくらいしか叶えられぬ人生で、それを望むのは愚かだろうか。

「心というのはなかなかにしぶといのだ、或誼殿。心だけでも死んでしまえたらきっと楽だろうに」

 呟きは白く凍えて晩冬の闇へ消える。風ですら鳴くというのに。ぐ、と堪えて唇を噛んだ。

「さて、心やすらかに正月など過ごさせぬぞ嵯禰維尽」

 嵯禰の屋敷は確か、右京四条大路四坊辺りか。香鵬の首を軽く叩いて方向を転換する。四条大通りにある目ぼしい屋敷の庭木に確認すると、やはり四坊辺りにあるやたらとごちゃごちゃした庭の屋敷が嵯禰家らしい。香鵬の羽ばたきで庭に積もった雪を寝殿へ舞い上げる。途端に聞き覚えのある甲高い耳障りな声が大げさな悲鳴を上げた。

「ひぃ、ひぃいぃぃ!」

「よぉ、嵯禰殿」

 禄花の呼びかけに顔も出さぬ。二週間前、荒野に捨てて来たのが余程効いているのだろうか。意に介さず話を続けた。

「無事に帰り着かれたようで何よりだ。ところで、あれからしばらく大人しくしておったようだが」

 這蛇を出して蔀戸を突き破り、几帳を蹴散らして御帳台でうつ伏せになり、頭を抱えた維尽の眼前で威嚇させる。

「今度また何かしてみろ。次はこの程度では済まぬと思えよ」

 言うなり種を一つ、母屋へと投げる。屋根に当たって転がり落ち、簀子の下へ入り込む。小さな種は見る見る発芽し葉を広げ根を張り幹を太らせ寝殿の半分を吹き飛ばして花を咲かせると一気に枯れた。余りに一瞬のことで維尽は悲鳴を上げることすらできなかったようだ。大きく穴の開いた屋根から、月を背にした禄花を呆然と仰いだ時点でようやく小さな悲鳴を上げた。

「ひぃ!」

 うつ伏せになり、頭を抱えて床へ何やら叫ぶ。

「狡いのだ、狡いだろう! 母が実力者であったから、あの男も私へ横柄な態度を取るのだ! 我を妾の子だと見下しおって! 以斉奏臥め! 年が近いというだけでどいつもこいつも我とあやつを比較しおって! 死ねばいい!」

 床に跳ね返ったそれらは哀れにひび割れ雪に吸い込まれた。

「あの無口な男がわざわざお前を妾の子だなどと言うものか。それどころかお前の母が妾かどうかなど知りもしないだろう。……お前を妾の子と罵った相手と、奏は別だ。逆恨みも甚だしい」

 けれど、それは維尽にとって真実なのだろう。例え混同したものだとしても、維尽をそう揶揄する者は居たのだろう。ただ、奏臥は逆恨みを一身に受けただけにすぎぬ。

「這蛇」

 戻れと手を軽く差し出す。這蛇は一直線に禄花を目指し飛翔し、先ほど木が貫いたのとは別の部分へ穴を開けた。

「奏臥はな、お前に微塵も興味などない。興味がないのだから、お前を揶揄する必要もない。思い上がりもいい加減にするのだな」

 できるだけ冷淡に言い放つ。それから屋根に空いた穴から種を一つ落とす。維尽のすぐ傍に落ちた種から見る見るうちに立派な桜が枝を伸ばし、再度屋根へ穴を開けた。

「これで正月は桜を見ながら年越しだな。何、礼には及ばぬぞ維尽殿」

「あああああ!」

 間抜けな声を漏らして屋根を見上げる維尽に雪がはらりはらりと舞い落ちる。これで当分、奏臥の邪魔をするどころではないだろう。恨みなら、禄花へ向ければいい。

 香鵬で塒へ戻り、少し考えてからいくつか文を書く。一つは吾毘の領主へ。一つは雅の商人、奉天へ。もう一つを書きかけて止めた。書きかけて止めた紙へ睡蓮を一つ描く。宛名など書かずとも気づくだろうか。気づくだろう。だからこそ止めた。

 睡蓮の君とは良く言ったものだ。蓮とは違い、睡蓮は水面に咲く。長く長く水中で伸ばした茎のことなど、誰にも悟らせず。水の中から生まれ来たようにぷかりと浮いて咲く涅槃の花。泥の中伸ばした清い背中。杉のように真っ直ぐ伸びた長身を想う。

蓮鶴れんかく

 木蓮の花でできた鶴を呼び出し、絹の袋に入れた文を首へ掛ける。それから一月、奏臥と会う前のように隠し室へ籠って無駄な試行錯誤を試した。相も変わらず死ねぬし素手で長時間触れば植物とて禄花の毒で枯れる。

 治す術はない。このまま毒を生み続けるだけの生だ。分かったのはそれだけ。

 厳密には毒を取り込みその毒を元に増える何種類もの小さな植物が、禄花の体を維持している。そしてその何種類もの植物がさらに新たな毒を排出している。その植物たちは血液の代わりに禄花の体を巡り、宿主である禄花を、禄花の形を維持し、修復している。甲という植物が出す毒を丙という植物が栄養とし、丙という植物が出す毒を丁という植物が栄養にし、丁という植物の出す毒を甲という植物が栄養にし、というように一つの世界が禄花の体内で完結しているのだ。

 その植物たちを禄花の体内比率と同じに他の生物に植える。そうするとその生物は禄花と同じように宿主となる。そこまでは分かった。そうして生まれたのが木鹿や香鵬や這蛇というわけだ。宿主同士は並列して意思疎通ができるらしい。禄花の体験を木鹿や香鵬は同時に体験したと同じと処理されている。逆も然りだ。

 だが、これを人で試したことはまだない。例えば木鹿なら、完全に肉体が置き換わるまでに五年を要した。禄花の体の成長が十五程度で止まっていることを考えると人の場合は十年以上か。

「……」

 手のひらへ乗せた、小さな種を握り締める。これは呪いだ。呪いの種に他ならぬ。こんなことを望んではならない。しかし、一時ならば救いにもなろう。木鹿は五年。人ならそれ以上かかるだろう。完全に置き換わる前に種を除き、体内で繁殖した植物たちを排出させればいい。これは切り札だ。

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