第14話

 陽はとうに西へ落ちた。月が中天へ差し掛っている。禄花が休むと言ってからかなりの時間が過ぎたが誰も動こうとしない。時間がまんじりとも動かぬように感じる。全く本当にこの家の人間と来たら、どいつもこいつも己を大事にしない。一つ呼気を吐いて立ち上がる。土鼠に奏臥の世話を任せ、志嬰と紀之片も休むように声をかけた。

「しかし花仙様」

「己れは熱が分からぬからな。その時には必ず呼ぶ。だから今は休め。或誼殿もだ。奏臥が良くなっても貴殿らが倒れていてはどうしようもない」

「…分かりました。花仙様」

 志嬰が聞き分けよく廂へと歩き出す。いつもならそれに続くはずの紀之片が俯いたまま、唇を噛んでいる。

「紀之片。お前も休め」

「……花仙さま……」

「ん?」

 禄花の袖を掴み、顔を上げた紀之片の雄黄色の瞳からは今にもしょっぱい水滴が零れ落ちそうになっていた。鼻を啜り上げ、禄花を仰ぐ。

「オレ、オレ、小さい頃は嵯禰家の下働きだったんです。たまたま御用事があってお越しになっていた師匠が、いつも通りに殴られてるオレを『粗末にするなら私が連れて帰って陰陽師として育てる』って以斉の家に引き取ってくださって。嵯禰の御当主が師匠のことをよく思わないのもオレのせいなんです。どうしよう、師匠がこのまま目を覚ましてくれなかったらどうしよう、花仙さま、オレ、オレ、オレのせいだ……!」

 とうとう零れ落ちた大粒の涙を拭ってやることもできずに懐から手拭いを取り出し、紀之片の顔へ押しつける。

「阿呆め! 奏臥はお前の才能を見抜いただけのこと。堂々と胸を張れ。嵯禰の奴らに『さすがは以斉奏臥が連れ帰っただけはある』と目にもの見せてやれ」

 少し屈んで視線を合わせる。ぐいぐいと押しつけた手拭いを退け、明るく澄んだ雄黄色を覗き込む。

「何より奏にはこの己れ様がついているのだ。心配いらぬ。お前も休め」

「でも……」

「でもだと!? お前はこの己れ様の腕が信用できぬのか?」

 大仰に眉を顰めて顔を近づけ、鼻息荒く吐き出す。ようやく紀之片は微かに頬を緩めた。

「……ううん。できます。オレ、花仙さまも大好きです」

 奏臥と或誼と志嬰も大好きなのだろう。だから自分のせいで傷つけられたら悲しい。悔しい。腹立たしい。その気持ちは禄花にもよく分かる。しかし以斉の家でのびのびと育った紀之片は、さりとて相手を害そうなどとは思わないのだ。だから雄黄色から降る戯雨そばえはじきに止むだろう。だが他の者はそうではないことを禄花は知っている。手拭い越しに紀之片の頭を撫でた。

「……うん。己れもお前や志嬰がかわいい。泣いてくれるな。子供に泣かれるのは敵わん」

 子供、と言われて紀之片は目を丸くした。見た目だけなら禄花は紀之片とそう変わらぬ年に見えるだろう。禄花の言葉に或誼は微かに俯く。禄花の母の名を知っていた或誼は、正しく禄花の年齢をも理解している。或誼ですら、禄花にとっては洟垂れ小僧だということも、その意味も。思うところは色々あるのだろう。

「さ、皆部屋を出ろ。或誼殿もだ。休め、休め」

 渋る三人を追いやって御帳台の中へ入る。こんな時、触れることのできぬもどかしさを思い知った。

「……禄花?」

「気が付いたか。どれ……うん、薬は抜けているな。済まんが次はこの薬を飲んでもらう。熱が下がって楽になるはずだ」

「うん」

 砥草で薬を流し込もうと近づいて顔を寄せる。宙で手を振る仕草を目で追いかけ、奏臥は微かに掠れた声で禄花を呼ばう。

「禄花」

「なんだ」

「君から貰った懸守りの紐が切れてしまった。莉蝶も傷付いてしまった。中に入っていた玉もどこかに落としてしまった」

 心底、残念そうに零した奏臥に湧き上がった感情を何と名付けたらよいのだろう。かっと眦が熱を孕んだ。

「――っ! この阿呆め! 莉蝶も玉もいくらでも換えがあるのだ! お前の命に換えはないのだぞ! 次にこんなことをしてみろ、殴ってやる!」

「……禄花」

 すまない、と唇だけが動いた。

「懸守りも直しておく。だから、だから……っ」

 許さない。許さない。長生きしてくれ。例えもう二度と己れと会わなくても。孫子に囲まれて大往生だったと、お前の夜叉孫から聞くから。そんな当たり前の人生を生きてくれ。

 それ以上を望んだりはしないから。どうか。

「もういい。薬を飲め。飲んだら熱が下がる。この雪月花仙様が付いているのだから必ず良くなる」

「それは頼もしいな」

 微かに緩んだ頬に触れたい衝動を堪えた。薬を流し込み、喉仏が上下するのを確認して唇を拭ってやる。

「君と」

「ん?」

「千年寄り添う大樹になりたい」

 誰も足を踏み入れぬ静かな森の奥、ひっそりと。熱に浮かされて夢現の戯言か。それでもその言葉だけでもういい。奏臥。奏臥。禄花の晧の月。しかし湖面に映る月は誰にも手に入れられぬのが道理だ。

「寄り添うてくれるか」

「うん」

「では傷を治して生きねばな。人を植物にする方法を、己れはまだ知らん」

 嘘を吐いた。人に戻る方法を探す過程で、人を禄花と同じにする方法は確立している。そこから人に戻る術を探している最中だった。

 禄花の嘘に気づかず、奏臥は小さく頷いて見せる。

「そうか」

 それは戯言にしてもあまりに優しく残酷な願いを孕んでいることなど、とうに分かっているけれど。それを本気にしてはいけない。禄花の罪に奏臥を巻き込んではいけない。

 お前には、お前を愛してくれる人たちがいるのだから。

 汗を拭って、顔色を観察する。気づくといつかの晩に聞いた規則正しい寝息が聞こえて来た。しじまに聞こえるそれへ耳を傾ける。それは生きている音だ。生きて、やがて死んでいく儚いけれど強い音だ。

 聞こえ始めた吐息は穏やかで、熱は下がったのだろうと推測できた。東の空が白んで来た。志嬰を呼んで、或誼にも峠は越えたと伝えねば。薬を用意してそれから志嬰にしばらくの手当ての仕方を教えて一旦、塒へ帰ろう。立ち上がり、廂へ出て振り返る。

 できるわけがない。させられるわけもない。下級とはいえ貴族として生まれ、責任はあれど愛され甘やかされて育った奏臥が岩屋暮らしなど。ましてや樹木になるだなどと。

 引き際は、禄花が決めねばならぬだろう。どうせ禄花は根無し草なのだ。しばらく北へ行くのもいい。北の国、吾毘の現領主は狩猟のみならず耕作にも意欲的だと聞く。北の地で育てやすい作物を持って行けば歓迎されるだろう。

 考えながら胸を押さえた。今さら寂しいだなどと幼子のようなことを言うつもりはない。それでも圧し掛かる孤独を払う術を禄花は知らない。

「ふふ……お前は杉のように大きいからな。しるしの君か。己れに我が家など在りはしないのにな」

 そこにかつて、心を共にした者がいるというそれだけで生きて行こう。いつまでもここに居てはいけない。別れは、禄花から告げねば。

「志嬰。奏臥の熱を見てやってくれるか」

 廂に置かれた畳の上でうとうとしている志嬰へ声をかける。

「奏臥様の熱が下がったのですか」

「ああ」

「誠ですか」

 几帳の向こうに或誼も居たらしい。禄花を迎えに来た時のまま、袍があちこち汚れた姿に心が痛む。連れて行けるわけがない。奏臥の居場所はここだ。

「呼吸が楽になったようだ。おそらく熱も下がっているだろう。今回ばかりは『断れぬ』などと言わずにしっかり養生させるように」

「花仙殿、ここでお休みになられては?」

「……一旦、塒へ戻る。ここで薬を作るにも色々道具が足らぬしな。呼び出す時はこれに伝えてくれ」

 手のひらから莉蝶を出して息を吹きかける。莉蝶は静かに几帳の横木部分、几に止まって拍動するように羽根を上下させた。

「……ありがとうございました」

 深々と頭を下げる或誼へ首を横へ振って見せる。

「己れにも人並みの情はあったということさ。必要なものを揃えたらまた来る」

 階を下りて裸足のまま庭へ出る。慌てて草履を履くことすら忘れて来てしまった。うっすら積もった雪の上へ踏み出す。しんと冷たいが苦痛はない。何故なら禄花は、もう人ではないから。

「香鵬」

 花の鳥を呼んでその背に乗る。草木も岩も温もりを返さない。禄花が人の温もりを感じていたのはもう随分昔のことだ。そしてそれは、もう二度と感じることはないだろう。雪化粧の都を見降ろす。人の営みは禄花にとって遥か遠く。薄く積もった雪越しの景色のように冷たく遠のく。

 伏せた香鵬の背に咲く花に、苦い水滴が一粒落ちる。

 頬を濡らす涙滴は凍りはしないのに。禄花は誰とも、何とも交われない。ただ巡る季節の中、廻る理の外、独り佇む。酷く寒かった。

 それでも塒に着いて隠し室へ入った後は、ひたすら薬の材料をかき集める。乳鉢で砕いて煎じて、蜂蜜を巣ごと入れて練り合わせて丸薬を作る。薬を土鼠へ渡して伝え渡す。

「先に奏臥のところへ。薬の飲み方はここに書いておいた」

 きゅいっ。

 小さな返事を聞いて褥へうつ伏せに倒れ込む。志嬰の説明に紀之片は明らか不満げだった。維尽と何があったか詳しく聞き出さねば。維尽の機嫌を損ねた原因が禄花ならば、このまま捨て置けぬ。考えながら目を閉じたが一向に眠気が来ない。それどころかちりちりと項を炙られるような感覚に目が冴えていく。

「……着替えだけするか」

 いつだか奏臥に借りたままになっていた衵を見やり、直垂と小袴を替えて隠し室を出る。霜月の空気が肌を刺して身震いした。己の腕を己で掴んで、ふと浮かんだ考えに震える体が止まらない。

 悪化していたら。あのまま目を覚ましていなかったら。

「――っ、香鵬!」

 目立たぬようにとか、都の手前で下りてそこから徒歩で、などと考える暇もなかった。香鵬を急かし、以斉の庭へ降り立つ。裸足のまま薄く積もる雪を踏みしめ、濡れて泥だらけの足で階を駆け上がる。

「ああ、くそっ」

 簀子に手拭いを叩きつけ、乱雑に踏みつけ足の裏を拭って廂へ入る。紀之片が腰を浮かせて禄花を見た。手で立ち上がらなくていいと示して母屋へ入る。ちょうど御帳台から志嬰が出て来たところだった。

「花仙様」

「薬は届いたか」

「はい、奏臥様は今」

 志嬰の言葉を最後まで聞かずに御帳台へ入る。体を起こして土鼠と遊ぶ奏臥の顔を見るなり怒鳴った。

「朝方まで死にかけていた人間が何をしている!」

「禄花」

「禄花、じゃない! 阿呆め! 寝てろ!」

 元々色白で染み一つない肌だが、紙のように白かった顔色がよくなっている。頬に色が差しているのを見て体の力が抜けた。心の底から安堵が這い上がり、体の芯に温もりが点る。

「志嬰、奏臥の熱は下がっているか」

「はい。花仙様がお出かけになってからはずっと」

「……そうか。とにかく、熱で消耗した体力を補う薬と、それから化膿止め、炎症止め、解熱の薬をしばらくは飲んでもらう。傷口に目に見えぬ虫が湧くのだ。常ならば、体力があれば、問題にならぬが弱った体には祟る」

「疫神か?」

「まぁその類いだ。いいか、大人しくしてろ」

「うん」

 意外にも素直に頷き、横になった奏臥は禄花へ手を伸ばす。

「なんだ」

「……傍にいてくれ」

「……おう。居てやるから言うことを聞け。しばらくは薬を飲んで大人しくしていろ。長生きしてくれ。お前がどんなに嫌がろうがお前の子に己れが名をつけてやるし、真っ先に抱っこしてやるつもりだ。或誼殿より先にだ」

「お前の言うことは聞くが、子のことは約束できない」

「なんでだよ」

「私は誰も娶らない」

「……己れの少ない楽しみを奪うつもりか」

「心に決めたひとならもう、いる」

 それが誰なのか、聞いてはいけない。言わせてはいけない。白磁の吸い飲みを無理矢理、奏臥の唇へ当てる。

「うるさい! とにかく水を飲め! 熱で体の水分が奪われている。水分を補給して己れの薬を飲めば治る。話はそれからだ!」

 吸い飲みを禄花から受け取って志嬰が母屋を出て行く。畳の横へ胡坐をかいて、乳鉢でいくつかの薬草をすり潰す。火鉢の上ですり潰した薬を煎じ、禄花の手元を眺めていた奏臥の体を蔦で起こす。吸い飲みが戻って来ない。几帳の向こうを見やると志嬰は廂の畳に控えている。

「志嬰、吸い飲みをくれ」

「はい」

 受け取った吸い飲みはひんやりと冷たい。洗ってくれたのか。受け取って煎じた薬を入れる。

「煎じたばかりで熱いからな。少しずつ飲め」

「うん」

 背中を支えて吸い飲みを唇へ当てる。まだ多少の熱はあるのだろう。幼子のように素直な奏臥の若苗色の瞳は少し潤んでいる。

「寝ろ」

「うん」

「片付けてくる」

「……」

 立ち上がろうと膝を立てた途端、奏臥は禄花の袖を押さえ、唇を噛んで顔を逸らす。

「……志嬰」

「はい」

 静かに几帳の向こうへ膝をついた志嬰へ、乳鉢を差し出す。

「すまんな。乳鉢を洗って来てくれるか」

「はい」

 一つ頷いて来た時と同じく静かに立ち去る。その迅速さには言外に禄花を奏臥の傍へ居させようとしていることが感じられた。

「志嬰に世話をかけるなよ」

「君は……傍にいてくれると言った」

 困った奴だ。そう呟くと安堵したのか目を閉じる。動けぬ。さてどうしたものかと考えていると、てっきり眠っているとばかり思っていた奏臥の唇が微かに動いた。

 月雪花我が手に在りても飽かず惜しけり。

「……っ、あ、ほうめ。……お前は」

「うん」

「歌が下手だ!」

「うん」

 傍に在っても毒になるばかりで何の役にも立たぬ禄花を、傍に在るだけでは満ち足りないほどに想うとは。膝を抱え、それでも袖越しに奏臥の手を握りしめる。

「阿呆め」

「……うん」

 顔を伏せた小袴に丸く濃い染みができる。目を閉じたままの奏臥がふ、と頬を緩める。

「泣かないで、禄花」

「泣いてないっ」

 長生きしてくれ。ただ生きていてくれ。他に望まぬ。短い生をできるだけ穏やかに全うしてくれ。他は望まぬ。望めぬから。

 どれほど想っても、同じに時を歩めぬのならせめて。それを形に、言葉にさせないでくれ。

 置いて逝かないでくれだなどと、言わせないでほしい。

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