第13話

 信濃小路に差し掛かると、角の向こうから覚えたくもないが聞き覚えのある嫌味ったらしいきんきん声が聞こえて来た。

「だから我らが結界を施してやると言っているのだ、奏臥殿」

 相も変わらずお供を五人程連れて維尽が甲高い声で捲し立てている。黙って主の後ろに控えている供は皆、先日見かけた時とは別の場所に殴られた跡があった。

「……」

 貴族の中にはこういう、庶民を軽く扱う者も多い。うんざりしながら維尽の後ろから二人へ近づく。きっぱりとした奏臥の音吐が耳を打った。

「いえ。結界は我が弟子が施しましたし、必要とあらば兄に頼みますので心配ご無用にございます。嵯禰の御当主殿」

「そんなに結界が施したいのならご自身の屋敷にいくらでも好きなだけ施せば良かろうよ、嵯禰殿」

 以斉の弟子にすら実力の劣る当主の結界など、おちおち見回りもしていられない。犠牲が増えるだけだ。衵を頭から被り顔を隠し、石像が如く無表情の奏臥へ歩み寄る。禄花を認めた途端、石像は解けて綻ぶ花を咲かせる。

「禄花。帰ったのではなかったのか」

「おう。用事が早く済んだので、お前に懸守りをくれてやろうと思ってな。ほれ」

 できるだけぶっきらぼうに放り投げた秘色の懸守りの中で、玉がぶつかって軽くこつん、と音がした。受け止めて懸守りを首から下げた奏臥は、袋を押さえて首を傾げた。

「? 中に何か入っている」

「何でもいいだろ。土鼠が縫ったんだ。紀之片と志嬰にも渡して来た。夜行除けの守りだ」

 完全に蚊帳の外になった維尽は何やら忌々し気に奏臥を睨み、それから禄花へ近づこうとした。当然、蔦を使ってそれ以上近づかぬよう距離を取らせる。

「近づくな、毒に中ると言っただろう」

「しかし、以斉殿は」

「奏は慣れているのだと前も言ったな?」

「……」

「どうやら嵯禰殿は都の結界がどうにも気になって仕方ないらしい。奏臥、或誼殿に変わって今日は己れが結界を張ってやろう。それで異論はあるまい? 嵯禰殿」

「……ございませぬ」

 苦虫を噛み潰したような顔、とはまさにこのことという表情で押し出した維尽とは逆に、嬉しさを隠しきれぬ様子で奏臥が禄花の上腕を掴んだ。

「では今夜も泊まって行くといい」

「……いい加減、お前の部屋で酔ってその辺に転がって寝るのも体が痛い」

「だからあれほど私の帳台で寝ればいいと」

「お前の隣でか? やなこった。紀之片と志嬰が待っている。行くぞ、奏。ではな、嵯禰殿」

 礼を欠かない程度に維尽へ挨拶をして奏臥の袖を掴む。禄花の意図を察してか、奏臥は深々と維尽へ頭を垂れた。

「では嵯禰殿、失礼致します」

 もう維尽に興味はない。疾う疾うに維尽へ背中を向け、奏臥の腕を掴んで歩き出す。

「いかん、お前の衵を羽織ったまま帰るところだった」

 衵を脱いで突き出すと、奏臥は受け取った衵をもう一度禄花の肩へかける。

「君は寒がりだからそのままでいい」

「……」

 信濃小路から紀之片や志嬰の居る九条大路へ歩きながら、道行く人の視線を受けて奏臥の顔を盗み見る。行き交う人の声は奏臥の耳には届かぬのだろうか。奏臥はどこからどう見ても見目麗しく振る舞い美しい御曹司だ。その隣に得体の知れぬ輩が居れば、嫌でも目を引く。

 百年経っても禄花の目にはこの都は変わっていないように思える。しかしそれはきっと、禄花が変わらぬからだろう。禄花にとって、百年経ってもこの都は故郷ではなく、ただの訪問先だ。見知らぬ土地と何も変わらない。それは住み慣れた岩屋も同じこと。この天地に禄花の居場所などどこにもない。

「?」

「みんなお前を見ているぞ、奏」

 軽く頭を振って奏臥は真っ直ぐ前を見たまま答える。

「……君を、見ているんだ」

「まぁ萎烏帽子も被らず直垂を着てるんだ、ちぐはぐだから目につくだろうな」

「違う」

 きっぱりと言い放った奏臥は少し頭を傾けて禄花を見つめた。

「君が美しいからだ」

「……阿呆め。珍しい組み合わせだからだ」

 そう。単純にそれだけだ。家人でもない、横柄な態度の、女子でもないのに烏帽子を被らない得体の知れない輩と振る舞いも見目も美しい御曹司。その組み合わせが珍しいのだろう。

「いい組み合わせだろ。己れも奏も『あいだちなし』同士だ」

「君は無愛想では」

「阿呆め。無愛想はお前だ。そして己れが遠慮なし」

 かかかと笑って頭の後ろで手を組む。ずり落ちそうになった衵を奏臥が禄花の肩へかけ直す。奏臥は衵と同じ色の瞳でしばし禄花の唇の左下にあるほくろを見つめ、それから扇を口へ当てて微笑む。菖蒲小路の辺りから、紀之片と志嬰が出て来て二人を見つける。

「あ、師匠」

「花仙様」

「よしよし。迷子にならずに引き合わせることができた。さて、己れは帰るとするか。ではな」

「禄花」

 奏臥の声に応えず、そのまま都の外れまで駆け出す。

 このまま奏臥の仕事に手を出し続けるのは良くないと分かっていた。人は愚かだ。一度できたことは、継続できなければ満足できなくなる。奏臥や以斉の人間がそうではなくとも、以斉の人間以外がそれを望むことは容易に想像が付く。

 例えば、奏臥を脅して禄花を呼びつけるようなことすらしてみせるだろう。

 短い時間を惜しみたくとも、周りがそれを許さぬこともある。

「だから関わらずに来たのだろう。阿呆め」

 自責を込めて呟く。無言で香鵬を呼び見上げた空から、美しいが朴訥な言葉に似た白い欠片が降って来た。吐き出した吐息が白く消えて行く。愛しい白睡蓮を思い浮かべて香鵬の背へうつ伏せる。奏臥には、冬が似合うだろう。雪の中、凛と立つ清冽な姿を、見ておきたいと思った。それも叶うかどうか、今となっては分からない。

 放っておいてもほんの五十年ほどの命と、たった半年すら共に居られぬとは。

「未練が過ぎる」

 香鵬の首を撫で、目を閉じる。それから半月余りは岩屋へ閉じ籠った。

 誰とも関われぬのならば、死んでしまいたい。死ぬことすらできぬなら、せめて。

 ただ、そこに在る草花のように。咲いて枯れて種を残し、大地に還る。その営みに加わりたい。それすら望めないのなら。

 心など、砕けてなくなればいいのに。

 隠し室の冷たい寝床へ転がる。もう何もしたくない。もう何も見たくない。もうどこにも行きたくない。禄花は誰とも交わることができないのだから。

 雪月花仙。美しい名で呼ばれても醜い過去の罪は消せない。仙人とは行いの正しき者がなるのだ。親殺しの禄花の何が仙人か。毒しか吐き出せぬこの身が花仙だなどと笑わせる。

 美しくなんかない。一つも。どこも。ただ毎日か虚しくて恐ろしい。これが永遠に続くのかと絶望する。気など狂ってしまえばいいのに狂うこともできない。

 そうして山にこもり切りになって、深く雪が積もる頃になった。あれから奏臥にはもちろん会っていないし、都へ下りていない。必要な買い物は木偶人形を作って買いに行かせている。雅の商人、奉天ともしばらく顔を合わせていない。

 だからそれは、予想外だった。

 岩屋へ現れた人物も。その人物が告げた事柄も。何もかもが予想外で。考えるより先に彼を掴んで走っていた。

「己れの肌に直接触れぬように。しっかり香鵬に掴まってくだされ、或誼殿」

 雪の中、刃のように冷たい空気を頬へ浴びて飛び立つ。

 髪もほつれ、あちこち汚れた或誼が岩屋へ現れて伝えたのは。

「花仙殿。虫のいいお願いとは存じております。しかしどうか、わたくしの弟を、睡天丸をお助けくださいませ」

 或誼が憚らず奏臥を幼名で呼んだ。それだけで大事と分かる。

「母は……」

 遠くに視線を向け、或誼はまるで独り言のように零す。

「母は、冬に亡くなりました。都に大雪の降った日のことにございます。奏臥は一粒涙を流したきり、じっと横たわる母を見つめておりました。最後にと母の髪を結いそれから姿を消した」

「……」

「呆けてしまった父の代わりに母の弔いの準備をしていた私が、奏臥が居ないことに気づいたのは随分経ってからです。慌てて探しに出るとあの子はそれは見事な大輪の芍薬を抱えて帰って来た」

「……! あの、雪の日の童は……」

「母の結った髪に芍薬を飾って、野辺へ送る時もあの子はついて行きました。穢れを受けるからと言っても幾度も母を埋葬した場所へ訪れていたようです」

「!」

 思い至って考えるより先に問いかけが唇から転がり出た。

先触山さきぶれやまの裾野か?」

「はい。何故それをご存知なのですか?」

「……」

 ――先触山なら迷わぬ。

 迷わぬほど通い詰めたのはそこに母が眠っているから。皓皓烈烈とした美貌の下には、年相応に幼い思慕を秘めていたのだ。けれど周囲には、特に気苦労の絶えなかっただろう兄には気取らせなかった。気取らせるわけにはいかなかった。

 それは確かに、奏臥なりの兄への愛だろう。

 香鵬の背では口を開けば言葉は全て後ろへ流れて行ってしまう。とにもかくにも以斉の屋敷へ急ぎ、蔓を使って或誼を庭へ下ろす。裸足のまま東の対へ駆け上がり、御帳台へ上がり込む。

 横たわる奏臥の袖を蔓で捲り、傷を見る。傷自体も深いし瘴気に中てられている。傷口が腐れて行くのが早い。放っておけばどんどん瘴気が体を蝕み、傷は腐れて死が訪れるだろう。まずは瘴気を祓わねば。

 傍らに控えていた志嬰へ尋ねる。

「これはどうして負った傷だ?」

「はい……。御息所に鬼が出るとの話がございまして、調伏に出かけたのですが……その、鬼に腕を傷つけられまして」

「これがたかが鬼に傷などつけられる玉か。何があった」

「その……」

「まぁいい。それよりも先に瘴気を祓おう。月下の雫と……満月の光を浴びた蓮の花、それから陽の光を集めた睡蓮……」

 宙で手を振り薬椀に蓮と睡蓮を入れ月下の雫を受ける。志嬰と紀之片に奏臥を押さえるように指示する。

「いいか、暴れてもいいようにしっかり全体重をかけて押さえろ。分かったな」

「はい」

「奏臥。かなりきついぞ、堪えろよ」

「……」

 熱が高いのだろう。朦朧とした様子で小さく頷く。体力の持つうちにカタをつけねば危険だろう。薬椀の中の月下の雫で傷を洗う。

「水の理土の理天地の理正しく流せ流れて淀まず。流れは清く保たれる」

「ぐぅ……っ!」

 大の男でも暴れ回るのが当たり前だというのに体力の落ちた今ですら、堪えるのか。大した男だ以斉奏臥。

「地に在りては空を巡り空に在りては地を巡り人に在りては天地を巡る。回り回れ。巡り巡れ。邪気祓濯」

 瘴気は祓ったが傷が深い。これは縫わねばならぬだろう。

「傷を縫う。清潔な布と水を用意してくれ。曼陀羅華と烏頭を使う。量を間違えると毒になるから、少しずつ飲んでもらう。いいな」

 瞬きだけで返事をする奏臥に一刻の猶予もないことを知る。砥草で少しずつ奏臥の口へ薬を流し込みながら、様子を見る。蔓で傷口に触れても反応が鈍い。これならいいだろう。

「よし。縫うぞ」

 蔓を使って薬に浸した針と糸で傷口を縫う。紀之片は何とも言えない表情で奏臥の手足を押さえている。縫い終わって傷口を薬で浸した葉で覆って布を巻く。

「少し休む。熱が上がったら教えてくれ。まず曼陀羅華と烏頭が抜けねば熱を下げる薬も飲ませられん。土鼠」

 庭から駆けて来た土鼠が腹から氷をいくつか落とす。氷室に保存しておいたものだ。志嬰に渡して短く指示を告げる。

「これで頭、脇の下、太ももの付け根を冷やせ。目を覚ましたらこれを飲ませろ」

 桔梗に甘草、大棗、芍薬、生姜などを調合した薬を出す。脇息を引き寄せ凭れかかる。

「で、どうしてこんなことになった?」

「……あの『下膨れ』のせいですよ」

 なるほど、維尽は奏臥が気に入らない様子だった。何か邪魔立てしたのだろう。紀之片は全身で悔しさを堪えて体側で拳を握っている。

「その下膨れが何をした?」

 紀之片は志嬰を見た。志嬰は言いにくそうに口を開く。

「……嵯禰の御当主を庇った奏臥様が鬼に懸守りを裂かれまして。飛び出した玉と花弁を拾うために手を伸ばしたところを、爪で」

 志嬰が奏臥の枕元に大事に置かれた布を開く。いつまでも瑞々しい芍薬の花弁が二つ。強く握り締めたのだろう。花弁は折れて傷つき、茶色に変色していた。

「……っ!」

 額に大粒の汗を浮かべている男を怒鳴ることを必死でこらえる。阿呆め。本当に阿呆め。そんなもの、いくらでも。ゆっくりと呼気を吐き出し、奏臥の顔を覗き込む。

「阿呆め」

 一言呟き、心配そうに廂へ控えている或誼へ向き直る。

「或誼殿。今夜が峠でしょうが瘴気は祓ったし傷は塞いだ。傷を縫うために飲ませた薬が抜けたら化膿や炎症を抑える薬を飲ませる。これで熱は下がるでしょう。それまでの辛抱です」

「……花仙殿」

「ん?」

「いつも弟は何を尋ねてもわたくしを心配させまいと『大丈夫です』と答えるばかりで。わたくしはあの子がどんな想いでいるのかを知りませぬ」

 震える声で禄花の袖に縋った或誼に、いつもの沈着さはない。それほどに大切な弟なのだ。

「同じ傷で母を亡くしております。どうか、どうか弟をお助けください」

「助けるとも。あの阿呆に阿呆と言ってやらねばならぬ」

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