第12話

「或誼殿。今日は良い酒を振る舞ってもらわねばどうにも収まらぬ」

「ふふ……承知しておりますよ、花仙殿」

 勝手知ったるとばかりに庭を横切り東の対へ、杉のように育ちすぎた背中へ悪態を吐きながら歩く。途中で或誼は寝殿へ戻って行った。家人へ酒の手配などさせるのだろう。広く面積を取った池には杜若ではなく、以斉家の家紋である蓮が薄桃の花を咲かせているが、今は陽が落ち浄土の花は眠りに付くように閉じている。

「禄花」

 東の対に入った途端、袖を引かれ母屋へと急かされる。しかし真面目な奏臥のすること。簀子を回り妻戸から廂へ、廂から母屋へ、茵へ座らされ、脇息へ肘をつく。

「組紐が綻んで来ている。これを」

 桐の箱から取り出したのは鮮やかな朱華はねず色。脇息にだらしなく顔を伏せ、そのままの体勢で叫ぶ。

「お前と言う奴は今様いまようだの朱華だの己れを何だと思っている!」

「一斤染も似合う」

 淡い桜色の組紐を選ぶ奏臥が容易に想像できる。そして都に噂は広がるだろう。とうとう睡蓮の君に意中の女子が、と。勢いよく脇息から顔を上げる。相変わらず顔が近い。悔しいが見るに堪えるどころか見たい女子はたくさんいるだろう美貌は茫洋とした表情で首を傾げている。

「禄花?」

「そうじゃない! 紺桔梗とか松葉色でも良かろうが! 女子への贈り物のような色ばかり選びおって! 己れはお前より年上だ!」

「分かった」

「……分かったならいい」

「次は桔梗色にする」

「分かってねぇじゃねぇか」

「結い直してあげよう」

 いそいそと鏡を禄花の前に置く。芍薬を大切そうに脇へ置き、禄花の髪を梳る。

「……まったく。お前が都の姫に誤解されても己れは責任を取らんぞ」

「誤解ではないので構わない」

 ここで何某かの反応をしたら奏臥の思う壷だ。鏡越しにじろりと睨みつけて脇息を抱える。言ってやるものか。知らせてやるものか。

 すぐに、居なくなるくせに。あっという間に年を取り、子を残し、朽ちて物言わぬ骸になるくせに。共にいつまで続くか分からぬ人生を生きてはくれぬくせに。

 愛しているだなどと言ってくれるな。

 それが例え軽々しいものではなくても。軽々しいものではないのならばなおさら。置いて逝くななどと言えぬ禄花にそれを伝えないでほしい。見送るばかりの人生に、美しい痕跡など残さないでほしい。

「……阿呆め」

「君は困るといつもそれだ」

 涼やかな笑い声は、永遠ではないことを禄花は知っているから。これ以上、増やさないでほしい。短く美しい「今」をその倍の時間をかけてゆっくりと、静かに零れ落ちる砂のように喪って行く悲しみを、禄花は繰り返して来たのだから。喪いたくない大切なものを、どうしようもなく喪って行く。狂うこともできぬその時間を、禄花は生きて行かねばならぬのだから。

 ひとの。

「『今』は短いなぁ……」

 ひとの「今」は禄花にはあまりに短い。髪を結って、奏臥の指が禄花の髪を掬う。奏臥の唇が、そっと結い上げた禄花の頭の天辺へ下りるのを鏡越しに眺めた。

「お前は阿呆だ」

「……うん」

 その夜飲んだ酒の味など覚えがない。ただただ悲しくて切なくて胸が痛んだ。

「……」

 さらり。

 髪を一房、掬い上げられる感覚に目を覚ます。

「起こしたか」

「……ん」

 いつも通り脇息を枕代わりに寝てしまったようだ。体を冷やさぬようにと奏臥の衵がかけてあるのもいつも通り。白檀と薫陸を混ぜているのだろうか。落ち着いた白檀と、龍涎香より若々しい新緑の香り。薫陸は薫陸でも杉脂が多い琥珀の香りか。匂い立つ新緑に似た若苗色の瞳が禄花を気遣う。奏臥の香りがする衵を掴み、はてこの温もりは己れのものか奏臥のものかと覚めやらぬ頭で思考を巡らせる。

「今日は辰の日だ。今夜は百鬼夜行の見回りをする」

「は? 夜行に行き合ったらどうする」

 またぞろ嵯禰の下膨れにでもいいように押しつけられて来たのか。脇息へ肘を置いたまま上体を起こして奏臥を見やる。

「……近頃は夜行の先頭に絶世の美姫が居たなど噂になって、夜行を見たがる御仁が増えた。そういう輩の保護と見回りだ」

 「絶世の美姫」で眉を寄せ、禄花の顔を睨んだ奏臥から目を背ける。

「仕方ないだろ。夜行の終わりに振る舞う妖の酒、それを受ける盃が欲しかったんだ。あの盃から湧く酒は鬼も酔わせる」

 大体、夜行に紛れる時は雑面を被っていたというのに。顔も見えぬ五尺六寸もある男を美姫と間違うとは全く都の男どもの妄想は逞しいな。ぶつぶつと独り言つ禄花を覗き込み、奏臥は小さな頭を横へ振る。

「今日は大人しくせよ。いいね」

「分かった、分かった。昨日、雅の商人が近くまで来ていると連絡があったからそちらに寄って塒へ帰る。しばらく来ぬから安心せよ」

「また何か書を頼んだのか」

「……まぁな。寒くなって来たから塒へ籠ることが増えるだろう。冬は苦手だ」

 確かに少し都へ下りる機会が増えた。この百年で一番、禄花は都へ下りているだろう。嵯禰の当主にばったり出くわして屋敷へと誘われても面倒だ。しばらくは来るなら以斉の屋敷だけにしよう。

「……雪見酒もよいものだ」

 だから寒くとも山を下りて来い、という。下手な誘いが愛しいなどとは。

「雪が降ると山を下りるのは面倒なのだぞ。己れに面倒をかけるのだから、最高の酒を用意するのだろうな?」

「うん」

 奏臥が嬉しそうに笑みを咲かせる。立ち上がってすれ違い、狩衣の胸を軽く叩いて裸足で庭へ駆け下りた。何となく、奏臥の衵をそのまま掴んで来てしまった。しかし奏臥も禄花もそのことには触れぬ。

「またな」

「……うん」

「香鵬」

 手のひらにくるくると花弁が渦巻く。投げるように宙へ花弁の渦を放つ。

 ひゅいーと高い鳴き声が応えて花弁の渦から花弁でできた大きな鳥が現れた。甘える嘴を撫で、首を軽く叩いて背へ乗り、勾欄の側へ立つ奏臥へ青く小さな花を降らせる。小さな青い花を手で受け止め、白睡蓮は禄花へ問う。

「これは?」

蝦夷紫えぞむらさきだ。かわいいだろ」

「うん」

 羽ばたき一つですい、と大きく進んだ香鵬を仰いだ奏臥が、陽射しを遮るために手を翳す。零れた蝦夷紫が袍の袖やら胸に入るのも気にせぬ様子だ。

「香鵬、急げ。戻れるなら陽のあるうちに戻りたい」

 雅の商人、晩奉天ばんほうてんとはその曾祖父からの付き合いだ。呼ばれずともその居場所は分かる。

 ひゅぃー。

 答えて一鳴きし、香鵬は羽ばたきを強くした。山を越えて海側へと進む。見知った足音を目指して一直線、香鵬の背から飛び降りると、商人も周りの人間も腰を抜かして禄花を見上げる。

「これは花仙どの」

「おう。久しいな。己れの頼んだ書を以斉の当主へ売りやがって。覚えてろ」

「だって花仙どのの五倍の値をつけると言うんですよ。こちらも商売でして」

「何の為にお前の船は沈まぬように護符を渡していると思っている」

「晩家が斐臥と商売できるのは花仙どののお陰です」

 荷運びの人足と牛に囲まれ揉み手をした奉天を睨み、体が縮むほど盛大に息を吐いた。

「まぁいい。頼んだもの、今度こそあるんだろうな」

 手のひらを上へ向け上下させて催促する。奉天は自分の懐から布を取り出し、中身を改めさせるために禄花へ差し出す。包みを覗き、己の懐から出した布へ受け取る。

「珍しいですね、花仙どのが玉を、それも細工を施した玉をご所望とは」

 禄花の手元を覗き込む奉天から隠すように包みを懐へしまい込む。いくつか金の塊を奉天の手へ置き、それから尊大な態度で近くの木へ凭れた。

「うるさい。己れは今日は忙しい。これからまた都に戻る。早くしろ」

 細工を施した玉の対価は禄花の絵姿を書かせること。奉天の曾祖父、誼天ぎてんもその息子で奉天の祖父の恒天こうてんも、その息子で奉天の父、愿天げんてんも代々何故か禄花の絵姿を欲しいとうるさかった。

「大体、己れの絵姿など持って帰って何をするんだ」

 しかも奉天はこの日のためにわざわざ雅から絵師を連れて来たようだ。立っているのは面倒なので藤で長椅子を作ってそこへ横になる。

「花仙どのはご存知ないでしょうが、うちの曾祖父が持って帰った絵姿をただの純粋な下心で祀ったところ晩家は商売繁盛致しまして。雅では『雪月花仙』は商売繁盛と特に美人の守り神として年代を問わず女性に大変人気なのです。妓楼では必ずあなたをお祀りしておりますし、雅の現皇帝の愛妾も熱心なあなたの信者で」

 くなどの神の間違いではないだろうか。凡そ禄花が福をもたらすとは思えない。

「下心……?」

 確かに誼天は何かと禄花を雅へ連れて行きたがった。船旅なんぞ御免だと断るとせめて絵姿をとねだられて承知したのが初めだったと記憶している。あいつ、下心があったのか。

「あ、いや、あのぉ」

 しどろもどろで指を組んだり離したりしている奉天に、本人は顔も知らぬ曾祖父の文句など言っても詮無いことだ。

「……絶対に船が沈まぬ護符を授けた己れの知らんところで勝手に己れで商売して、己れが所望した書を或誼殿へ横流ししたと?」

「ああ~……それはそれ、これはこれで……」

「納得いかんな。己れで商売した分、何かで返してもらわねば」

「でも花仙どの。そのおかげで花仙どのには信者の功徳が集まっているはずです」

「功徳?」

「功徳は法力になります。花仙どのが不老不死なのも高い法力をお持ちなのも信者の祈りが功徳となり、花仙どののお力になっているためですよ」

「……己れが死ねぬ元凶、お前らか」

 盲点だった。異国で神と崇められているなどと知る由もない。絵師から筆を奪い、唇を笑みの形に作って見せる。頬を赤らめて禄花を見つめる絵師の手から紙を取りあげ、それから大きく書きかけの絵姿へ斜めに線を引いた。

「あーっ! 何をするんですか花仙どの!」

「うるさい。勝手に祀るな。二度とだ。己れは不老不死など望んでおらん」

 死にたいのだ。ぽつりと零した言葉に、奉天は僅かに悼ましいものを見る目をした。

「……残念ながら花仙どの。既に雅ではあなたの廟が多く存在しております。今さら祀ることを止めても信仰は止まらないでしょう……申し訳ございません」

「つまり?」

「雅で言うところの、既に昇仙しておられる状態です。あなたは既に、雅では神なのです。ただ斐臥国では無名ゆえ神として祀られておられぬ」

「神の世界でもはぐれものか」

 深くため息を吐き、重たい体を横たえる。奏臥が髪を結った時、芍薬を挿したまま。奏臥の衵を肩に掛けたままの気怠い姿が他人の目にどう映るかなど禄花は考えぬ。憂いを吐き出し瞳を伏せる。奉天とその供がうっとりと吐息を漏らしたが禄花にとってどうでもいいことだ。

 憂いに沈んでいる間に奉天の絵師が絵姿を書き終えたことにも気づかず、ふらりと立ち上がる。

「帰る」

「あの……花仙どの」

「なんだ」

「お力になれず」

「よい。……もうどうでも」

 手を上げて香鵬を呼ぶ。甘える首筋を撫でて力なく香鵬に体を預けると、胸にしまった玉が当たった。

「……夜行に行き合っては困る。紀之片と志嬰の分も懸守りを作ってやらねば」

 短い時間を、守ってやりたい。せめて、その時までは健やかに。

「奉天」

「はい」

「いくつか布を見せてくれぬか」

「はい」

「今日はもう持ち合わせがない。次にまとめて渡そう」

「……お代は結構です、花仙どの」

「そうはゆかぬ。薬草なら何でも好きなものを出してやろう」

「……では六花散を。あれは雅でも人気なのです。あなたが吾毘での飢餓を見かねて無料で配った。あなたは嫌うが、あなたの善行は誰もが知っている」

「己れは善人などではない」

 奏臥の美貌によく似た秘色ひそく。志嬰には落ち着いた半色はしたいろ、紀之片には明るく闊達な縹色はなだいろ。それぞれ端切れを譲ってもらい、奉天へ礼を言って都を目指す。

 香鵬の背では土鼠が三匹、小さな緑の手で器用に懸守りを縫っている。土鼠が縫ったのだと言ったら、奏臥は嬉しそうに笑うだろう。

 死ねぬのだ。

 どうやっても。もう、安寧を望めぬ。どんなに慕わしく思っても置いて逝かれるばかりの生がこの先も続くのだ。

 香鵬の背に顔を埋める。衵から、白檀が薫る。

 きゅぅい?

 気づかわし気に鳴いた土鼠へ顔を伏せたまま答える。

「雨が降ってきた」

 きゅぅう?

 晴天を仰ぎ、土鼠は首を傾げる。土鼠の頭を撫で、もう一度吐き出す。

「雨が、降っているんだ」

 もうずっと、胸の中は。篠突く雨で重く濡れている。

 香鵬の背に伏したまま、どのくらい経っただろうか。都が見えて来たのは申の刻辺りになってからだった。九条大路の端辺りで手を振る二人に土鼠が鳴いて禄花に知らせる。香鵬を下りると、禄花へ駆け寄る紀之片と志嬰に覚えず心が解けた。

「花仙様、奏臥様は今、嵯禰の御当主と話をしておりまして」

「また難癖つけられてるんだろ。いい、いい。ちょっと帰りに寄っただけなんだ。しかしあの下膨れ、もう一度痛い目を見ないと分からないらしいな」

「昨日の嵯禰殿の驚いた顔、ふふ、面白かったっすね」

「こら、紀之片。そんな本当のこと、表で言ってはいけません」

「はははっ、志嬰も正直だな」

「……」

 志嬰がじっと禄花を見つめる。思慮深く礼儀正しい志嬰にしては珍しいことだ。

「どうした?」

「いえ……なんだか少し、お元気がないように思ったもので」

「……元気だよ。昨夜は少し酒を飲み過ぎた。なんせ不老不死だからな。体調を崩しようがないのさ。心配ない」

「……ならば良いのです。花仙様がお元気でないと、奏臥様も心配なさいます」

「なんだよ、志嬰は心配してくれないのかぁ?」

 からからと笑って頭の後ろで手を組む。奏臥の衵が肩から落ちかけて、まだそのままだったことに気づいた。衵を肩へかけ直した禄花へ、志嬰は常と同じに控えめな笑みを浮かべた。

「もう。いつもそうやっておふざけになって。でも花仙様はそのままが良いです」

「そうそ。口が悪くない花仙さまは、花仙さまじゃないもんな!」

「紀之片、お前だけこれはやらん」

「えっ! 嘘、嘘! なんです? 何をくれるんですか? やった~! 花仙さま大好きぃ!」

「本当に調子の良い奴だな! ほら! こっちが紀之片で、こっちが志嬰のだ」

 土鼠が紀之片と志嬰の肩まで上り、懸守かけまもりを差し出す。それぞれ受け取って首へ掛け、お互いに微笑み合う。

「そいつらが縫ったんだ。今日は夜行の見回りだろう? 尊勝仏頂陀羅尼そんしょうぶっちょうだらにより良く効く禄花様特製だ」

「ありがとうございます。えらいね、こんな小さな手で器用だ」

「ありがとうございます。すっげぇ! 花仙さま特製なら効果抜群だ」

「……奏臥はいないなら、これを渡しておいてくれ。ではな」

 秘色の懸守りを志嬰へ差し出すと、下から袖を上へ押し上げ首を横へ振る。

「花仙様、手ずからお渡しください。きっと奏臥様もお喜びになる」

「……そうだな。探してくる」

「はい。信濃小路の辺りにおられます」

「うん。志嬰」

「はい」

「ありがとう」

 志嬰は目を瞠り、それから微かに唇を緩め、きっぱりと顔を上げた。

「礼を言わねばならぬのはわたしです、花仙様」

 何かを察したのだろう。聡い子だ。軽く手を上げ、歩き出す。背中で紀之片の声を聞いた。

「花仙さま、お元気なかったな」

「そうだね」

「お元気になられるといいな」

「うん」

「花仙さまは口が悪くて威勢がいいのが一番好きだ」

「……わたしもだよ」

「へへっ。だよな! でもさぁ。花仙さま、師匠の衵を被ったままでいるとまた一層誤解が広がるよな」

「……誤解ではないのでよいのでは」

「そっか」

 愛し子たちは、それでもすぐに禄花の年を越し、老いて逝く。今この時のなんと短いことか。足りぬ。足りぬ。時間が足りぬ。あの子たちがこんなにも愛しいと伝えるのに、時間が足りぬ。

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