第10話

 その日以来、時々禄花は鬼をからかいに出かけた。当然、調伏に駆り出された奏臥とも顔を合わせる。初めて百鬼夜行の先頭で花をまき散らす禄花を見た時の、紀之片と志嬰の顔ときたら。

「ふふふ」

 隣で禄花の顔を覗き込む奏臥を仰ぐ。手のひらから椿を出してふう、と吐息で飛ばす。

「こら。君は手を習いに来たのではないのか」

 ちっとも怒っていない表情と声で奏臥が絹布を被せた禄花の手を握り締めた。筆を持つ禄花の手に、布越しの奏臥の温もりが伝わる。あれから幾度か気まぐれの振りをして奏臥に字を習いに来ている。以斉の家人もすっかり禄花の顔を覚えてしまい、いつひょっこりと現れるか分からない怪しい輩を何の疑いもなく招き入れる。

「まったく、この家の人間は主から家人まで不用心な者ばかりだな」

「君相手に何を用心することがある。せいぜいかわいいいたずらをするくらいだろう」

 背中から抱きしめるように禄花の手を包む奏臥を仰ぐ。開き切った花弁が耐えきれずほろほろと崩れるように滲んだ笑みを浮かべる奏臥へ、唇を尖らせて見せる。

「お前が驚くようないたずらをそのうちしてやる」

 ふふ、と密かに零れた笑い声が禄花の耳殻をくすぐる。

「禄花、ここは止め、だ」

「ん。こうか」

「うん。上手だ」

 陰陽寮で人にものを教えることには慣れているからか、奏臥の添削は分かりやすい。奏臥に字を習うようになってからは手の悪癖が大分改善された。顔を合わせぬ日も、練習と称して緑藍に文を持たせてやり取りしている。

「奏臥様、そろそろ支度は整いましたでしょうか」

「よぉ、志嬰」

「失礼しました。花仙様がいらしていたのですね」

「何も失礼なことがあるか。己れは勝手にふらっと来て手習いしているだけだ」

「すまない禄花。今日はこれから、調伏に出かけなければならぬ」

「よし、では己れも付いて行こう」

「うん」

 すれ違った家人が当然のように禄花へ頭を垂れる。門のところで待っていた紀之片と合流し、通りを歩き出しながら頭の後ろで手を組んでぼやく。

「最近は己れがどこから現れても弟子二人も以斉の家人も驚いてくれんのでつまらん。今日なんて白拍子の格好までしたのに。もっと驚いてくれても良かろう」

「いえ、花仙様。わたしも紀之片も十分、十分驚きました」

「驚いてますよ! 花仙さま、いつの間にか屋敷にいるし。屋敷にいなくても突然、現れるし。一体どこで師匠のご予定を調べて来るのか不思議です」

「奏が何をしてるかなんて知らんさ。迷子になってるでかい奴の足音を追うと大体、奏に行きつくだけで」

「禄花」

 無表情が小さな頭を横へ振る。この件に関しては、奏臥はかなり頑なに譲らない。

「はいはい、迷子は弟子二人でお前じゃない、だろ」

 梅、桜、牡丹、竜胆、桔梗、木蓮。花を出してはまき散らし、無表情を見上げた。芍薬を出して奏臥の袍の中へ入れる。途端、奏臥は咲き零れるかに微笑んで芍薬を摘む。

「うん」

 禄花が出した芍薬を指で弄び、茎を短く切る。禄花の高く結い上げ縛った組紐の根元へ芍薬を挿し、満足気に表情を緩める。満足気に表情を緩めた奏臥を紀之片と志嬰はまるで他人の逢引きを目撃したかの如く、恥じらって目を逸らす。

 奏臥に髪を結ってもらってから、楽だからと度々同じように結い上げている。髪を高く結い上げた禄花を見ると奏臥は何故かご機嫌だ。今日は特に機嫌がいいらしく、禄花の傍から離れない。

「? なんだ」

「君はいつも玄色の直垂ばかりだが」

「うん」

「今日は赤い袴でとても綺麗だ」

「……っ、阿呆め!」

 だからそれを何故、許嫁に言ってやらなかったのか。口の中で転がしながら、奏臥の背中を叩く。ふと気づいて奏臥の横へ並び、顔を覗き込む。

「しかし今日の獲物は余程手強いのか。他の家の奴まで駆り出されているな」

「うん。分身して逃げると聞いている。分身全てを調伏せねば何度でも復活するようだ。だから今日は曾乃生そのう家と嵯禰さね家の当主も弟子を連れて見回りをしている」

「嵯禰家の当主は確か、お前と年が近かったな」

「うん」

「なんてったっけ。こう、ぱっとせんくせに名前だけは偉そうな感じの」

 顎に指を当てて呟いた禄花に紀之片が吹き出し、志嬰が「失礼ですよ」と小声で脇を肘で突いた。

嵯禰維尽さねいじん殿だ」

「そうそれそんな名前。……お前、一応他家の当主の名前は知ってんだな」

「うん」

「師匠、痴れ者扱いされてますよ……」

「……痴れ者扱い……しているのか?」

「いや。お前、興味ないものにはとことん興味ないだろ」

「ない」

 無表情のまま頷いた奏臥を指さし、弟子二人を見る。

「ほらな」

「身も蓋もありません奏臥様……」

「師匠は無駄なことがお嫌いなだけだぞ」

「だからって表情まで無駄を省く奴があるか」

「子供に白拍子とは、まるで見世物でございますなぁ、睡蓮の君」

 きんきんと耳障りな甲高い声に振り返ると五人の供を連れた下膨れが笏で口を隠しながら近づいて来る。年の頃は奏臥より少し上だろうか。派手な柿色の狩衣を着ている。曾乃生家の当主は或誼より年上だと聞いているから、こいつが嵯禰維尽だろう。

「紀之片だ」

「小童め」

 維尽の供が紀之片を見やり、袖を口に当て何やらひそひそ言い合っている。目だけで紀之片を窺うといつもは闊達な少年が俯いていた。

「……?」

 しかしこの、嵯禰の従者はどれもこれも貧相で細く、しかも皆顔に殴られた跡がある。主が違うとこうも違うのか。うんざりと下膨れを見下ろし不機嫌そのままに吐き出す。

「いかにも白拍子だが何か?」

「……っ! ……っ!」

 厭味ったらしく近づいて来た割に、維尽は禄花の顔を見たまま惚けている。奏臥が禄花と維尽の間に割って入り、禄花を背へ隠す。

「嵯禰の御当主。ご苦労様でございます」

 無表情で深々と頭を下げる。主に倣って紀之片も志嬰も深く頭を垂れた。

「そ、そ、そちらの美しい姫はそなたの知り合いか」

「あ?」

 何だてめー、誰が姫だよ。答えようとした禄花をさらに背中へ隠し、奏臥が頭を下げたまま続ける。

「こちらは我が家が懇意にしている薬師様です。万が一怪我人が出た時のために無理を言ってご同行願っております」

「薬師と? 以斉の家にそんな家人が居るとは聞いたことがないが……。もしや近頃、以斉の家に満開の芍薬のように美しい姫が出入りしているというのはこの薬師様のことか。あいや、薬師殿。一般人は鬼や妖に慣れておらぬ。以斉の弟子二人では御身を守り切れますまい。我らに同行してはいかがか」

 誰が芍薬だ。あんな派手な花好きではない。本当に人の噂というのは下らないものだとため息を吐き出す。

「無用だ、嵯禰殿。そちらの供より紀之片の方が弓の腕は確かだし、奏臥はもちろんだが志嬰も奏臥の次に剣の腕が立つ。紀之片の矢筒に入った弓矢は全て破魔の呪文が刻まれているし、奏臥と志嬰の腰にあるのはお前たちの腰にぶら下がってる儀礼用の刀とは違って『殺す』ための武器だ。もちろん純粋な腕前だけでもそちらのお供が束になっても剣では志嬰に勝てまいよ。ご心配召さるな」

「な……っ! なんと無礼な」

「無礼なもんか。手を見れば分かる。そちらのお供は紀之片や志嬰のように鍛錬しておらぬ。鬼が出たとて赤子程も役に立たぬよ」

 そもそも陰陽師のくせにそんな殺す気満々の武装をして都を徘徊している以斉家の人間がおかしいのだ。とは言わないでおいた。

「禄花」

 諫めるつもりでかけただろう奏臥の声は少し笑っている。紀之片と志嬰は驚いた様子で禄花を見つめたあと、嬉しそうに唇を引き結んで背筋を伸ばした。

「では維尽殿。見回りがございますので失礼いたします」

「待たれよ、奏臥殿! かような無礼を捨て置くか!」

 肩を掴まれて奏臥が体ごと維尽へ向き直る。六尺強に五尺弱が向き合われては圧力を覚えるなという方が無理だ。おまけにとびきり美形だが冬の湖面のように怜悧な無表情が静かに答える。

「申し上げた通りこちらは『我が家が懇意に』している薬師様。家人ではなく大事な客人です。無礼をお控えになるのはそちらです、維尽殿」

 これ以上は以斉家に迷惑がかかる。ため息を一つ吐き出し、奏臥の肩を叩く。

「やめろ、奏。嵯禰殿、己れが偉そうなのは当たり前だ。百鬼をも恐れぬ雪月花仙は無礼で粗野で礼儀を知らぬ。聞いたことはないのか」

「雪月花仙……だと?!」

 なるほどどうりで美しい、などと維尽の供がどよめく。何がどうりで、だ。面などただの骨格と肉付き。しかし態度の尊大さなら誰にも負けぬと下膨れをせせら笑う。

「本物かどうかは鬼に会えば分かる。行くぞ、奏、志嬰、紀之片」

「うん」

「はいっ、花仙様」

「あっ、ちょ、置いてかないでくださいよぉ!」

 左京一坊から右京へ。錦小路から四条大路出ようとして、志嬰に尋ねる。

「以斉の持ち場はどこなんだ?」

「知らないのにここまで進んで来たんですか? 花仙さま」

 呆れた、と紀之片が言う。無邪気で子供らしい生意気さが紀之片の良いところだ。嫌いじゃない。唇を尖らせて見せ、志嬰へ顔を向けた。

「こちらまで来られたのは理由があってですよね、花仙様」

「こっちは人が少ない。あいつらがわざわざ自分の持ち場じゃないとこまで見回るわけねぇから、人が少ないところが以斉の持ち場だろ?」

「その通りです。さすがです、花仙様。三条大路から七条大路までが以斉の担当です」

「ああ……んであのぼんくらが朱雀院から内裏までってことか。手柄が欲しい気持ちを隠さないのがいっそ清々しいな。ははっ、そっちに鬼を追い込んだら面白いぞぉ~」

 曾乃生家の人間なぞは挨拶にすら来ない。そちらは完全にやる気なしということだろう。その証拠に七条から九条までの間に人はおらず、羅生門に三人ほど気配があるのみだ。しかもいずれも子供か女子だろう。足音が軽い。

「いいですねぇ」

「紀之片。面白がっている場合ではありませんよ」

「大丈夫だ、志嬰。禄花は口が悪いが優しいよ。被害が出るようなことはしない」

「分かっております、奏臥様」

「しかし奏臥、お前押しつけられすぎだぞ。己れがいなけりゃ三人で三条から七条まで見回るつもりだったんだろ?」

「うん。緑藍も手伝ってくれるし、式神も先に配置しているから問題ない」

 にしても他家にいいように扱われているのではないか。或誼と違って奏臥は素直過ぎる。人の悪意も真正面から引き受けてしまう。それではいずれ、苦労するだろう。

「どうせ式占でいつ、どの場所に鬼が現れるか予め占ったんだろう? だからお前は今日、三条から七条までを受け持つと言った。違うか? 奏」

 こくん、と頷く小さな頭を見やる。普通は式占で鬼の出る日時と場所を割り出したら、陰陽師の仕事は終わり。あとは武人に警備をさせるのだが、奏臥はこうして自分が弟子と赴いてしまう。そのことの意味など考えたことがないのだろう。それは武人にしてみれば、大層不愉快に違いない。だがお人好しの奏臥はそんなことも考えつかないのだ。だからこそ、手柄を狙って嵯禰の当主までもが出しゃばって来た。そういうことだろう。

「紀之片」

「はい?」

「志嬰」

「はい、花仙様」

「他家に手柄など一切やらんぞ。この苑離禄花が以斉奏臥の隣に居る限り、な」

「はい!」

「はい、もちろん」

「お前も分かったか、奏」

「……うん」

 無表情がふわりと綻ぶ。見る人まで夢心地にする笑みだ。奏臥の顔など見慣れているはずの志嬰と紀之片まで見惚れている。こほん、と咳払いを一つしていかにも横柄に指図を出す。

「紀之片は結界術が得意だったな。三条から七条まで、人間避けの結界を張れ」

「まっかせてください!」

「志嬰は奏と同じで式と攻撃符が得意だな? 七条から三条、四坊から一坊へ向けて起爆符を等間隔に仕込むぞ」

「はい」

「鬼を見つけたら式神と呪符で朱雀大路へ向かって追い込むんだ。曾乃生家がまったくやる気がないからな。そっちからここまで追い込むのは簡単だ。己れがやる」

「はい」

「朱雀院の辺りに己れが大きな結界を作るから、そこへ追い込んで一網打尽だ」

「うん」

「都全体はもう己れの結界の中だ。入った時は結界に気づかない。入ったが最後、妖の類いは出られん。お前を見下したあの下膨れを笑ってやるぞ」

 ほんとなんなんだ、己れはあいつ嫌いだ。嫌いだぞ奏。あいつにでかい顔をさせているお前も嫌いだ。聞いているか。ぶつぶつ言いながら奏臥の背中を叩いて気晴らしをする。叩かれている奏臥と言えば、何故か嬉しそうに笑うばかりだ。

「……ふふふ」

「なんだ、奏」

「いいや。禄花」

「うん?」

「ありがとう」

「痴れ者め! そんなんだからあの下膨れに見下されるんだ! ええい腹が立つ!」

「あはは」

「なんだ、紀之片まで」

「いいえ~?」

「ね?」

「ははは、うん」

 紀之片と志嬰は顔を見合わせて微笑んでいる。無邪気で年相応な闊達さのある紀之片はともかく、以斉の家人として弁えた行動を常とする志嬰まで隠さず感情を表すのは珍しい。

「志嬰、言いたいことがあるなら言え」

「うふふ」

「オレねぇ」

「なんだよ、紀之片」

「花仙さまのこと、結構好きですよ」

「な……っ! 痴な! おい奏! お前が躾けないからお前の弟子たちも失礼だぞ! 聞いてるか!」

「ふふふ……うん。私も君が大好きだよ、禄花」

「……っ、どいつもこいつも阿呆め! まぁいい。やるぞ」

「うん」

「行け風鈴花」

 芙蓉に似た人頭大の白い花をいくつも空へ放つ。最後に紀之片と同じ背丈の幹を持つ木を呼び出す。一斉に咲いた満開の花が甘い香りを放った。

「紀之片、破魔の弦を鳴らせ」

「どうして?」

「風鈴花は音を伝える。初めに出した花は都の外に飛ばした。破魔の弦で鬼を残らず結界の中へ呼び込む」

「分かった!」

 言うが早いか、紀之片は弓を構えて弦をかき鳴らす。一呼吸遅れて遠く四方から弦鳴が響く。

 びぃぃぃん。

「おお……すげー」

「不思議です……ね」

「さて、始めるぞ」

 驚く紀之片と志嬰に笑みで答えて指先へ吐息を吹きかけ、種を飛ばす。羅生門の足音が何やらばたついている。鬼が出たのだろう。曾乃生の弟子は放っておいて、種として飛ばした這蛇に鬼を追わせる。

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