第9話

 剛力で禄花の腕を掴んでいる本人と言えば、相変わらずの涼やかな美貌で極上の笑みを向けている。何故だ。何故そんなに嬉しそうにできる。禄花はこんなに全力で拒否しているというのに。禄花の味方はいないのか。壁の向こう側に、姫への言伝を終えて戻って来た紀之片が見えた。

「紀之片、紀之片。このうっとおしい壁二つを退けてくれ」

「花仙さま。オレがそのうっとおしい壁二つの家人だって分かってます?」

「くそう、己れには味方がいない……」

 弟の方の壁が顔を近づけて来る。もう近づくなと怒鳴る気力もない。

「行こう、禄花。後は任せました兄上、紀之片」

「わたくしも後から行く。花仙殿、奏臥をよろしくお願い致します」

「ああ、或誼殿。確か中納言殿の姫は呼び名を白萩しらはぎ殿とか言ったかな」

「ええ」

 手のひらを宙で振り、開く。一枝、禄花の手のひらに現れた白い萩の花に或誼は息を飲んでいたが、紀之片は大げさに「うわぁ、すげぇ」と覗き込む。

「後は適宜、よろしく頼む」

 ふわりと微笑み曲者の方の壁は笏で口元を隠し、紀之片へ花を受け取るよう目で示す。

「お引き受け致しました」

 或誼が歌を一首添えてくれるだろう。これで奏臥の面目も姫の面子も保てる。

「では兄上、失礼します」

「ちょ、奏! 己れは自分で歩けるぞ! お前こそ怪我人なのだからそう急ぐな! 聞いているか!」

 腕を掴まれたまま中納言の屋敷を引きずられて行く。どう贔屓目に考えても「禄花」が「奏臥」をよろしくしている図には見えない。門のところで志嬰に助けてくれと視線を投げかける。志嬰は必死に笑いを堪え、肩を揺らしていた。

「奏臥様……お帰りになられるのですか」

「うん。兄上が結界を張る。今夜は一応、見張りとして志嬰と紀之片は残ってくれ。何かあれば式神で連絡をするように」

「はい。では花仙様。御機嫌よう」

「ご機嫌よくない。今日は以斉家の壁二枚に囲まれて夕餉だ。うっとおしいことこの上ない。こんなことならここに残って志嬰と餅でも食べた方がマシだ」

「ふふふ……わたしと、ですか? それもあまり楽しくはないと思いますが」

「そんなわけあるか。こんな無表情で壁のようにでかい男に囲まれて夕餉を食うより女子と餅を食う方が何倍もいいに決まってる」

 ふて腐れて勢いよく吐き捨てた。志嬰は心底驚いた、という表情で禄花を見つめる。

「……わたしが女子だと、いつお気づきに?」

「? 初めに会った時は夜だったから確信はなかったが、二度目に土御門大路へ奏臥を送った時には分かっていたぞ。紀之片とは骨格が違う。それに紀之片は外弟子だろうが君は以斉の親類筋だろう。紀之片は奏臥のことを『師匠』と呼ぶが君は『奏臥様』だ。親類筋というか、親が家人の類いだろう」

「……さすがは花仙様。感服致しました」

「止せやい。これくらいは奏臥だってして見せるさ。なぁ、奏臥」

「……君はやはりすごいな」

「……ええ? ……お前は本当に顔がいいだけでぼんやり生きてるな……。己れまで顔に騙される」

「君が私の顔を好んでいることだけは理解した」

 無表情で強く頷く奏臥に否定の意味を込めて何度も首を横へ振って見せる。

「いや好んではないぞ。世間一般の価値観でお前は色男だという話で、別に己れがお前の顔を好きだなんて一言も言ってない」

 白睡蓮のように清廉で清々しいなどと決して人前では、特に奏臥の前では口にしていない。はずだ。多分。

「うん」

 微かに笑みを唇へ乗せ、小さな頭を縦に振る。断固として違うと理解させねばならぬ。何故だか熱くなった頬を片手で押さえつつ、抗議せねばと心に決める。

「いいか奏。別に己れはお前の愛い顔に弱いわけではないぞ」

 言い募ろうとしたが、何故か二条大路を二坊へ向けて歩き出した奏臥を掴まれた腕ごと引く。

「待て待てどこへ行くつもりだ? 一条へ戻るんだろう? それならこっちだ。ちゃんと己れに付いて来い」

「うん」

 苦笑いで二人を見送る志嬰に手を振って歩き出す。都の中でも迷うのか。こんなきっちり碁盤の目に整備された都で。子供でも迷子になりようのないこの都で。これはもうある意味才能ではないだろうか。

「その度を越した剛力でちゃんと己れの腕を掴んでいろ。はぐれられると面倒だ」

「うん」

「大体だな、貴族は穢れを拾うのを嫌って徒歩で移動したりせぬだろ。それをお前はあっちへふらふらこっちへふらふらと」

「ふふ、うん」

 ほんの僅かに口元を緩めている奏臥の顔を見るたび、何故だか非常に項から背中にかけてがむず痒い。風に煽られ、束ねていない禄花の髪が奏臥の顔にかかった。

「あ、すまん。何か括るもの、あったかな。まぁいいや、蔦で縛ってしまえ」

「いい」

「あ?」

「いい。君が髪を束ねていないということは、触れても問題がないからだろう。それならこのままでいい」

「……な……っ」

 二の句が次げない。普段の禄花ならば、相手が奏臥以外ならば、ただの怠惰だとせせら笑って見せるだろう。奏臥が相手だとそれができない。

「禄花」

「なんだっ」

「君、耳まで真っ赤だ」

「うるさいっ!」

 さら、と耳元で髪が鳴る。振り返ると禄花の髪を一束、軽く掴んで表情を緩める奏臥と目が合う。

「君の髪は」

 さらり、さらりと長い指が禄花の髪を弄ぶ。瞳を逸らせず、思うままに髪を綺う指がまるで全身に触れるような感覚に目眩がした。

紅下黒べにしたくろだ。温かみのある。甘く、柔らかな」

「……以斉の屋敷に着いたら結い紐をくれ。髪を束ねる」

「何故?」

「食事に邪魔だ」

「そうか。では私が結おう」

「……要らん! 万が一肌に触れたら大事だし、大体お前は不器用だろうが!」

「髪を結うのは得意だ。母上の髪をよく結って差し上げた」

「……お前にも得意があるのだな」

 腕力と陰陽術と顔以外で。と言いたくなるのを堪えて禄花の「結ってくれ」を待っている奏臥を眺める。

「肌には触れぬよう、気をつけるから」

 重ねてねだる奏臥を仰ぐ。我儘らしい我儘など、口にしたことはないのだろう。それでも禄花の了承を大人しく待っている奏臥が大きな体を縮めるのが目路に入ればどうしようもない心持になってしまう。どうにも禄花もこの男に甘いようだ。ため息を吐き出し、袍の腹を叩く。

「……では結ってもらおうかな」

「! うん!」

 そんなに嬉しいか。呆れるような、おかしいような、ほんのり切ないような。

 己れはお前の母ではないぞ。浮かんだ言葉は足元へ棄てて歩を進める。

「ただいま帰った」

 奏臥に案内されて以斉の屋敷へ入る。

「?」

 門を入ったところで妙な違和感を覚えた。出くわした家人が禄花を見るなり手に持っていた木製の箱を落としたので、ひとまず小さな違和感のことは後回しにすることにした。

「なぁ、奏。あれなんだ」

「樋箱だ。その……貴族はあれに排泄する」

「あんなのでいいのか?! そうか、あんなのでよかったのか」

 どう見てもただの木箱だ。わざわざ穴を掘って川までつなげて砥草で常時水を流して、と気遣う必要はなかったのか。いやでも禄花の塒には家人などいないのだからあれでよいのか。悶々と考えていると、奏臥が禄花の腕を引く。

「他にも排尿用の清筥というものもある。でも君の作ってくれた樋殿はあれでいい」

「いやよくねぇよ。不自由をかけた。あれを家人が外で洗ってるってことは樋殿は屋敷の中にあるんだろ? だから以斉家の樋殿が見たい」

 単純に好奇心のみで申し出る。しばらく考えた後、奏臥は静かに小さな頭を左右へ振った。

「……だめ」

「何でだよ」

「……」

 視線を逸らして少し唇を尖らせている。何だ。何が不満なのだ以斉奏臥。下から突き上げるように顔を覗き込むと、咳払いを一つして口を開く。

「……恥ずかしい」

「……は?! ……っ! ……っ!」

 今さら何を言っているのか。それなら山の中で一時も迷子になった方が余程恥ずかしいだろうが。大体食べたら出るのは当たり前ではないか。言いたいことは山ほどあるが、それを上回る自分の中の声に戸惑う。

 照れるとかわいいじゃないか以斉奏臥。いつもはぼんやり無表情のくせに。己の感情に付いて行けず混乱する。何だこれは。胸が苦しい。

 いつもは硬玉で設えたように頑なな白い頬がほんのり桜色に染まっている。その頬へ触れたい気持ちを何度も堪えた。

「?????」

「行こう。東の対が私の部屋だ」

 混乱のまま手を掴まれて釣殿から庭へ。当主の或誼は陰陽博士とはいえ、下級貴族。しかしそれにしては随分立派な屋敷だ。敷地が広いとか豪奢な造りだとかそういうわけではない。しかし手入れの行き届いた庭は質素ながら趣があり、家主の人柄が窺える。枝ぶりのよい木蓮や、塀の傍に植えられた寒椿の艶やかな濃い緑。赤い花が咲くのならば、この質素な庭の中、清冽に映えるだろう。白く凛と。佇まいが簡素だからこそその清廉さが際立つ兄弟に似た、寂寥すら美しい白い庭。

 庭木のどこかにひぐらしが居るのだろう。かなし愛しと鳴く声の中、二人無言で歩を進める。

 庭から寝殿を通り過ぎ、東の対へ。その間も禄花の顔を見た家人が腰を抜かしたり物を落としたりしているが、全くどうなっているのだこの家の人間は。主がそそっかしいと家人までそそっかしくなるのか。

「禄花」

「うん?」

「君、少し顔を隠そうか。いいやいっそのこと雑面ぞうめんを被ろう」

「何でだよ」

「家人が落ち着かない」

「元々落ち着きがない家人なのではないのか」

「違う」

「じゃあ何だ」

「……」

 呆れ顔で覗き込まれて少し身を引く。何なんだ。何か文句があるのか。

「君は本当に質が悪い花だ」

「はぁ?」

 訳が分からぬまま東の対の階で草鞋を脱ぐ。別段足は汚れていないが、何となく上がるのが躊躇われた。禄花の迷いなど気にした様子はなく奏臥は腕を引く。

「なぁ、裸足で上がるのは悪かろう。なあってば奏」

「いい。私も普段は裸足だ。さ、ここへ座って」

 鏡台の前へ導かれ、膝を抱えて座る。唐櫛笥から櫛と椿油を取り出す奏臥を鏡越しに窺う。髪を梳る静かな音。髪を束ねる気配。項に櫛の当たる感覚。

「高く結うのか」

「うん。邪魔にならないだろう?」

「おう」

 紐を何度か括る感覚の後、奏臥が満足気に鏡を覗き込んだ。

「うん。綺麗だ」

「お前という奴は本当に痴な奴め。そういうのは女子に言ってやれと何度言えば分かる」

「君に言いたいのだからそれでいい」

「な……っ」

 顔を横へ動かした動きにつられて髪を結った紐が目の端で揺れた。薄桃の組み紐。一体何を考えているのやら。

「己れは女子ではないぞ」

「知っている」

「……阿呆め」

「ふふ……うん」

 脇息に凭れかかり、片手で結い上げた禄花の髪を掬っては流し、掬っては流している。何が楽しいのか分からないが随分とご満悦の様子だ。廊下から足音が近づいてくる。以斉の家人だろう。

「奏臥様……あっ。し、失礼いたしました」

 何が失礼か。そういえば初め、紀之片は禄花のことを姫だと言っていた。六尺弱もある姫など居てたまるか。奏臥から脇息を奪って肘を置く。ふう、と禄花の髪へ息を吹きかけ、奏臥が立ち上がる。吐息を吹きかけられた項を押さえて憎たらしい清廉な美貌を睨む。

「――っ! っ!」

「よい。兄上が戻られたら夕餉の用意を。私と兄上と、客人の分を頼む」

「はいっ。あの、お客人様はどのような」

「薬師様だ」

 奏臥は少し考え、ちらりと禄花へ視線を送って家人へ答える。

 多少の知識があるだろう弟子二人とは違い、家人に禄花の本当の名を告げる必要はないと考えたのだろう。何より禄花は自らの名を明かすことを好まない。禄花にできる咄嗟の気づかいが何故、姫にはできないのだろうと頭を抱えたくなった。

「大切な客人ゆえ、粗相のないように」

「は、はいっ」

 頭を垂れて駆け出した家人を几帳越しに見送る。茵へ戻って来て当たり前のように禄花を抱え込み膝へ座らせ、脇息へ肘をついた奏臥が結い上げた髪を撫でる。肌に触れてしまうのが怖くて動けない。だから禄花が動けなくなると分かっていてやっているのだ。

「大切な客人をからかって何が楽しい」

「からかってなどいない」

「お前は誰にでも項へ息を吹きかけるのか」

「君にしかしない」

「――っ、からかっているじゃないか」

「触れてはいけないのだから、吐息くらい許せ」

「な……っ」

 何という言い草だろう。かわいくない。全然かわいくない。

「君の項が」

 白檀の香りが二人分の体温で温められて強く薫る。鼓膜を震わせる低い声が甘さを増す。

「白くて花弁のようだったから、触れたいのを我慢した」

「な……っ! この恥知らずめ! どうしてそれを姫に発揮しないで己れに発揮するんだ阿呆め!」

「……世の姫より君が一等美しいから」

「お……あ……、阿呆め!」

 早く帰って来い或誼殿。貴殿の弟は何だか今日は少し様子がおかしい。五尺六寸もある男にまるで恋慕しているような有様じゃないか。思い至って脇息を掴む。

「それでも私はやはり名も知らぬ姫より君を美しいと思う。薄桃の芍薬の花のように」

 結い上げた髪を弄ばれる。たったそれだけが妙に落ち着かない。不意に庭の気配に気づいて声をかける。

「助けてくだされ或誼殿」

 心底助かったと腹から声が出た。暗い庭の向こう、几帳の影に奏臥とよく似た笑みが現れる。

「いえ、弟の邪魔になるのは兄としてちょっと……」

「弟を正しい道に導くのが年長者の務めでしょうに」

「兄上、お待ちしておりました。すぐに夕餉の準備をさせましょう」

「うん、奏臥?」

「はい」

「無理強いはいけないよ」

「はい」

「絶対分かってないです或誼殿。分かってないですよ、こいつ」

 奏臥の手が緩んだ隙をついて茵から逃げ出す。このままでいたら御帳台に連れ込まれそうな気がする。肌に触れれば毒に中ると分かっていてこの態度なのだ。

「そもそも己れに触れると毒に中って爛れて腐れると言っただろう。危ないことばかりしやがって。もう帰る!」

「禄花!」

「痛いっつってんだろこの筋肉武装剛力阿呆め!」

 再び腕を掴まれて月のように典麗な美貌を仰ぐ。どこかが痛むように眉を寄せ、奏臥はゆっくりと禄花の腕を離した。

「もうしない。反省している。だから帰るな」

「やなこった! 阿呆め!」

「君に、ここに居て欲しい」

 切なそうに俯く。禄花より背が高いくせに俯き加減から上目遣いで、叱られた犬のような瞳で見つめる。

「……その顔は狡いぞ」

「君が嫌がることはもうしない」

「当たり前だ。……己れは食事はあまりしない。酒、あるか」

 或誼が体の力を抜くのが分かった。本当に弟に甘い兄だ。廂に置かれた畳の上へ腰を下ろして蔀戸の向こうを見る。或誼が家人を呼び、酒の用意をするようにと言い付けるのを聞くとはなしに耳へ入れながら月を眺めた。

「何故、食事をしない」

「言っただろ。己れの体はもうほとんど植物と同じだ。水と陽の光を浴びて生きて行ける」

「君は花になるのだな」

「なるのは毒の花だがな」

 忘れるなと念を押す。禄花は人の姿をしていても、毒そのものなのだ。もう人ではない。

「そんな顔するな。悪いことばかりじゃないぞ。不老不死だし腕の一本や二本落ちてもすぐに生えて来る。まぁ痛いは痛いがな」

 さらに暗い表情をした奏臥の太腿辺りを叩いて笑って見せる。

「でかいんだから突っ立ってないで座れ。落ち着かん」

「うん」

 叱られたのが余程効いたのか、少し離れて座った奏臥へ声がかかる。

「奏臥様。酒とお膳をお持ちしました」

「うん」

 家人が膳と高杯に盛られた白米やら焼き魚やらを置いて行く。随分と奮発してくれたものだ。とはいえ、突然の客にこれだけの食事を出せるのだから、やはり下級貴族とはいえ以斉家は裕福なのだろう。ますます奏臥の兄、或誼は見かけの穏やかさとは裏腹に処世術に長けた人物であると内心舌を巻く。

「奏臥。わたくしは中将殿に頼まれた呪符を書かねばならぬから、自分の部屋で食事をして休むとするよ。花仙殿、客をもてなしもせず申し訳ありません。書はあとで家人に持って来させましょう」

「己れ相手に建前など要らん。こちらも奏臥の気が済んだら挨拶なしで帰らせていただく。無礼はお互い様だ。書は早う持ってまいられよ」

 遠慮のない禄花の物言いに少し顔を傾け笏を口元へ当てて笑い、或誼は頷くと妻戸を開けて出て行く。

「或誼殿は結界術が得意だったな?」

「うん。私も兄上の結界には細かく何が仕込まれているか見抜けないことがある」

「なるほど」

 先ほどの以斉の屋敷へ入った際に覚えた違和感はおそらく或誼の結界のせいだろう。招かれた客以外は入れない目くらましが仕組まれている。或誼が奏臥の許可がなくば門をくぐること叶わぬのだろう。この家には、それほどに警戒すべきことがあるのだ。

 静かに食事をする奏臥の横で酒の酔いに任せて月下美人を手のひらから出してはそこいらへ散らす。莉蝶を飛ばして息を吹きかけては花弁へ戻るのを眺めて遊ぶ。

「君の瞳の中に月がある」

「……己れの目が承和色そがいろだからか?」

「昼に見れば女郎花のように闊達な色なのに、夜に見れば朧で柔らかな月の色だ」

 ちびちびと酒を飲む禄花の横顔を飽きもせず眺める奏臥は無言だ。晩夏の明るい月と、禄花を見つめる秀美な皓月と。二つの月を肴に月見酒。奏臥は禄花を肴にしているようだが。いつの間にか几帳の端に書が置いてあった。或誼はこの、無音の酒宴をどう考えただろう。禄花は気にならぬが奏臥はどう考えているだろうか。月が傾き始めても、奏臥は変わらず禄花を眺めている。よく飽きないものだ。

「君は眠らないのか」

「どこで? まさかお前の御帳台で一緒に寝ろとか言わないよな?」

「それでもいい」

「阿呆。触れたら腐れて爛れると言っただろ。それに己れは人ではない。植物に近いから眠らずともよい。お前は気にせず寝ろ」

「嫌だ。君、私が寝たら帰るつもりだろう」

 バレていたか。このままだと本当に夜明けまで起きて居そうだ。仕方なしに奏臥の顔を覗き込み、約束する。

「また来る。な?」

 納得していない表情の奏臥が唇を尖らせた。夜更けどころか、本来ならばもうそろそろ起き出して宮中へ参内する準備をする頃だろう。眠たそうな奏臥の鼻先へ、梅の花の莉蝶を遊ばせる。

「そう言えば今日は戌の日か。いい気分になった。夜行へ紛れて帰るとしよう。ではな、奏臥。馳走になった」

 すっくと立ち上がると几帳の脇を抜けて蔀戸から簀子へ出る。ついでのように自然に、しかし確実に置いてあった書を掴み、懐へ入れる。奏臥が微かに笑った気配がした。

「花は百鬼をも畏れぬか」

「鬼の方はお前を畏れているぞ。随分いじめられているとぼやいていた」

「鬼の恨みを買うのが以斉のお役目だ。ろくな死に方はせぬだろうな」

 そんな風に思っていたのか、と少し驚く。奏臥の母親は鬼を調伏に行った時の傷が元で亡くなったと或誼が言っていた。そのせいだろうか。

「都の守りがお勤めだろう。立派なことだ。不満か」

「……不満はない。ただ、望みもない」

 まただ。奏臥は己の中にある空虚さを隠さない。それを孤独だと感じることすらできていない。だから悲しくなる。だから寂しくなる。

 手のひらを宙で振って蓮の葉を出す。両端に蔓を巻きつけ、雑面よろしく顔を隠す。

「では面白くしてやろう。鬼をからかう己れをお勤めの途中、どこかで見かけるかもな」

 花をまき散らして裸足で庭へ駆け出す。這蛇しゃだの背に乗り月夜を渡る。禄花を追うように怪しい雲が湧いて後に続く。空行く妖が高らかに笑う禄花を追いかける。這蛇の尻尾で子鬼やら火車やらを一薙ぎして花をまき散らす。禄花のまき散らした花を追って夜行の列が散り散りになりやがて闇に溶けて消える。最後に消えた子鬼は、しっかり花を掴んだくせに禄花へ何やら小言を叫んで月明りに滲んで溶けた様が滑稽だ。夜行の邪魔をしたことを咎めたのだろうか。大声で笑って這蛇の背で横になる。

「ではな、奏臥」

 勾欄の際に立ち、月空を仰ぐ長身へ芍薬を投げつける。伸ばされた手へ、大輪の芍薬は吸い込まれるように収まった。

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