第8話

 中納言の屋敷と思しき家の前に、狩衣姿の志嬰が立っているのを認めて手を振る。

「おーい、志嬰!」

「花仙様……或誼様も」

 丁寧にお辞儀をする志嬰の手を袖で包んで面を上げるようにする。

「己れに謙る必要はない。頭を上げてろ」

「……いえ、そんなわけには」

「必要ない。お前と己れは主従ではないし、己れも身分のある者ではない」

 志嬰は奏臥の弟子であって、それ以上もそれ以下もない。禄花にとっては意味のないことだ。しかし志嬰はきゅっと唇を結び、零れる笑みを堪えるような表情をした。

「薬はどうだ。足りているか」

「足りていたのですが、今日はちょっと分かりません。この件で奏臥様が怪我をするようならどうしようかと思っていたので、来て頂けて良かった」

「それでは少し薬を足しておこう。帰りに以斉の屋敷の家人へ預けておく」

「はい。ありがとうございます」

「時に姫からの話はどんな様子だろう、志嬰」

 或誼が重ねて尋ねると、志嬰は頭を垂れて短く述べる。

「今、奏臥様と紀之片が話を聞いています」

「ふーむどうしような。己れも同席して良いだろうか、或誼殿?」

 禄花は無関係の上に呼ばれてもいない。中納言の屋敷に入るには口実が必要だ。或誼は笑みを保ったまま、こくりと頷く。

「もちろん。花仙殿が御一緒くださるとなれば心強い」

 あの弟を育てた人物だ。余程の胆力の持ち主か底抜けのお人好しかと思ってはいたが、前者のようだ。

「ではお邪魔するとしよう」

 或誼のお供ということで屋敷の中へ通されると、興奮気味の女子の声が鼓膜を揺らす。

「ですので睡蓮の君、とにかく鬼は今夜やってまいりますので。睡蓮の君が妾の寝所を守ってくださいませ」

「ですので、具体的にどうしてそう思われるのかそう思われる原因はあるのかお教えいただきたいのです」

 今日も今日とて寸分の乱れなく衣冠をきっちりと着こなした奏臥は、凍てつく冬の月に似た清雅な無表情で答える。狩衣でもなく衣冠ということは中納言宅へ出向くという公務に近い仕事と捉えているからだろう。奏臥の無表情からも早く済ませて帰りたいという考えが漏れ出している。

 おそらくこのやり取りを何度かしているのだろう。姫の方は若干怒りと疲れが覗いている。奏臥の横で気まずそうに二人のやり取りを聞いている紀之片へ耳打ちする。

「ずっとこんなか」

「ええ。朝からずっと」

 うんざり、という様子で頷いた紀之片にすら姫の企みは理解できているようだというのに、この涼やかな美貌の色男ときたら。面白過ぎて崩れる表情を隠しもせずに声をかける。

「よぉ、奏臥。足の具合はどうだ?」

「禄……将離」

 いそいそと近づいて来て笑みを浮かべる。姫や中納言の家人の前で禄花の名前を出すのは望まぬと考えたのだろう。奏臥は咄嗟にあの夜に呼んだ戯れの名を口にした。心なしか姫の視線が鋭くなった気がする。

「兄上が将離を連れて来てくださったのですか?」

「ああ。奏臥が喜ぶかと思って。しかし奏臥、また将離殿とは……うん……まぁ良いか……」

 良くはない。良くはないぞ、以斉或誼。きちんと弟に言って聞かせろ。内心で毒づきながらも鈍感な奏臥へ向けられた姫の視線のおもしろおかしさが今は勝る。

「話が終わったのなら足を診よう。鬼と戦う前に万全にしておかねばな。くくっ」

 先ほどのやり取りを思い出して笑ってしまう。或誼が苦笑いをして口元を笏で隠す。

「花仙殿、お人が悪い」

「いやしかし或誼殿。将離がすらっと出て来るくせにこの体たらくとは笑わずにいられようか。さて奏。ここへ掛けろ。足を出せ」

 地面へ手を翳す。土から這い出した蔓で椅子を作る。或誼は扇を口へ当て、僅かに息を飲んだ。紀之片は大仰に驚いて飛び退き、「ふわぁ」と間抜けな声を上げた。奏臥は蔓の椅子は見慣れたのか素直に座って禄花へ足を差し出した。

「ふむ。腫れも炎症も引いてきているな。今夜無茶をしなければ予定通りに治るだろう。姫に送る歌の一つも考えておくのだな」

「歌? 何故、歌なのだ。鬼を退治に来たのだぞ?」

「……お前……本気で今夜鬼が出ると思っているのか」

「出るから呼ばれたのだろう?」

「花仙殿。その辺で許してやってください。弟は素直なのです」

「ふふふっ、いやしかし或誼殿。あっはっは、おかしくてやめられない」

 腹を抱えて身を捩る禄花へ、奏臥は不機嫌を露わに眉を顰め頬を膨らませる。それはどちらかというと怒っているというよりは拗ねている、という方が正しいようだ。その様子を或誼も紀之片も、驚きを隠せぬ素振りで見ている。

「君は芍薬のように美しいのに本当に意地が悪い」

「あはは、怒るな怒るな。歌は己れが一緒に考えてやるから」

「だから! どうして歌なんだ!」

「ふふふふふ、本当に分からないんだな? んっふっふ。まぁ結論から言えば、今夜鬼は出ない」

 薬を取り換え、布を巻く。しとうずを履かせて藤蔓で固定をして袴を下げる。

「何故、断言できるのだ」

「鬼は姫の狂言だからだ」

「何」

 一段低くなった奏臥の声に手をひらひらと振って見せる。座れと視線で示して続けた。

「まぁ落ち着け。姫はお前に惚れてお前を屋敷に呼びたくて鬼が出ると言ったんだろうよ」

「……まぁ、鬼は出ないのならばよい。紀之片。帰り支度をしよう」

 再び腰を浮かせた、天晧の月にも似た美貌の袖を掴む。

「ちょっちょっちょ、待て待て。お前、姫に恥をかかせる気か」

「何故だ?」

「お前がここで帰るってことは、姫に興味がないってことになるだろ」

「そういうことだ。それでいいではないか」

「よくねぇよ! そこは歌の一つも送って一発やっとくとこだろ!」

「いっ……。君はそんなことをしているのか!」

 正面から非難の視線を向けられ、両手を上げる。

「しねぇよ。触れたら爛れて腐るって言っただろ」

「……そうか」

「何嬉しそうにしてんだよざけんなよ」

 己れが童貞でそんなに嬉しいかこの野郎。椅子代わりにしていた蔓で押し上げ、奏臥を立たせる。奏臥と或誼は共に六尺ほど。禄花は五尺六寸。偉丈夫が三人並ぶとまるで壁である。五尺弱ほどしかない紀之片が小さく見えるほどだが、男とて五尺もあれば普通である。

 しかし本当にこの兄弟は揃って美形だ。呼気も凍てつく澄んだ四極の清淡な月が奏臥なら、或誼は木染の柔らかに霞んで朧な優しい月に例えられよう。中納言の姫が狂言を考えてまで屋敷へ奏臥を呼びつけたかった気持ちは分からないではない。

「断るにしても絶対に姫へ恥をかかせてはならない。だから『残念で仕方ないがどうしても用があって今夜はここに留まれません。身を裂かれるようにつらい』というような歌を送れ。姫がうっとりしてなるほど、それならば仕方ないと思うようなやつを、だ。失礼のないようにな。花を添えてもいい。何ならお望みの花を出してやる。姫の名前にちなんだ花とかな。己れが出すのだ、季節など関係なくどんな花でも出してやれるぞ。それから一応、弟子二人に今夜は寝ずの番をさせれば体面も守れるだろ」

「……なるほど。君はその、慣れているな」

「雅な駆け引きだろ。そういうの、教えなかったのか或誼殿」

「わたくしも駆け引きは苦手で」

「全く……奏臥はともかく、或誼殿にはお方様もお子もあろう。なるほど許嫁に逃げられるわけだ……朴念仁め」

 呆れるより増々面白い。からかう情報が増えた。内心きししと笑っていると、奏臥は難しい顔で何やら考え込んでいる。

「どうした?」

「うん……。君にも歌を送ればいいのか」

「何の話だ? 要らんぞ歌なんか」

「うん。分かった。ならば花を贈ろう」

「だから要らんぞ花も。欲しけりゃ自分で好きなのを出す。何なのだ」

 首を傾げる禄花へ、奏臥は十六夜月のように美しく微笑んだ。

「うん。そうか。君には歌より花より、きっと書の方が嬉しいのだろうな」

「そりゃそうだけど。何だよぉ」

「おやおや奏臥……」

「でしょでしょ、蓮の君。こんな師匠を見たことがない」

「何だよ、或誼殿や弟子その一まで」

「弟子その一じゃない。ちゃんとオレにだって献正紀之片けんせいきのひらという師匠にいただいた立派な名前がある」

 誇らし気に胸を張った紀之片は、実に年相応で明るく闊達だ。少年らしい素直な心情を見せる紀之片を、禄花は好ましいと思った。

「ふぅん。いいか紀之片。次からはこういうことに気づいたらこっそり奏に知らせろ。じゃないとこいつ、どんどん都の姫から評判悪くなるぞ」

「う……っ。それは……分かった」

「おう」

 毎回迷子になる手のかかる師匠ではあれど、尊敬はしているのだろう。その師匠が都の姫から笑いものにされるのは本意ではないらしい。何ともかわいらしい弟子ではないか。

 腕を組んでにやにや笑う禄花と紀之片の間に割って入り、奏臥が一つ咳払いする。

「紀之片」

「はい」

「私は屋敷へ戻る。兄上が結界を張ってくださるし、お前と志嬰を残すので安心するよう、姫にお伝えしなさい」

「……はい」

「後はよろしくお願いします、兄上。帰ろう、禄花。今夜は以斉の屋敷へ泊まって行くといい」

「えっ? いやぁ、もう用は済んだし塒へ帰るよ」

 奏臥をからかうことはできた。捻挫の経過も良好だし、薬は志嬰か以斉の家人に渡せば済む。これ以上長居は無用だと本能が告げている。及び腰になった禄花の袖の上から直接肌に触れぬよう、がっちりと上腕を掴んで奏臥が首を横へ振った。

「今度は私が君をもてなそう」

「要らねぇよ! 痛い、痛い、この剛力め! 折れる折れる! 男が全員お前みたいな筋肉の塊だと思うなよ!」

「君が細いだけだ。鍛えた方がいい」

「そんな走りづらそうな格好と浅沓あさぐつで呪符も式神も使わずそこいらの塀をほいほい登れる人間が普通だと思うなよ! 大体、陰陽師というのは占筮や地相の吉凶を見るのが仕事だろうが! 鬼や妖を殺す気満々で殺傷能力の高い弓だの実践向きの剣だの下げて武人も伴わずに出てくるのは以斉の者くらいだぞ! まさか以斉の人間はみんなそうだとか言わないよな?」

「? ……それくらい、兄上もできる」

「嘘だろ或誼殿……」

「わたくしは奏臥ほど得意ではありませぬよ、花仙殿。必要とあらば鬼を素手で殴る程度で」

 扱ったことがないので武器は怖くて。小春日和みたいな表情で呟いた或誼を呆然と仰ぐ。

「十分規格外だろ」

「ふふふ、しかし穢れを受けては出仕できませんので滅多なことではやりませんよ」

「当たり前だ」

 鬼を素手で殴れる人間などそうおるまい。ぞっとして黙りこんだ禄花を気にせず、続けて或誼は相変わらず穏やかな春の陽射しに似た表情で弟を諫めた。

「これこれ奏臥。花仙殿にあまり無体を働いてはいけないよ。そんな細い腕、少し強く握ったら折れてしまうだろうに」

「おい或誼殿今おぬしさらっと恐ろしいことを」

 拗ねたような表情で上目遣いに或誼を見て、奏臥はこくりと小さく頷く。が、しかし禄花の腕を掴んだままだ。逃がさないという強い意志を感じる。

「おやおや奏臥……そんなに恥じらうお前を見るのは兄さまも初めてだよ」

「恥じらう? 恥じらってこの剛力か? いやいや或誼殿。もう少し厳しく弟君を躾なされよ。痛いっつってんだろ奏、もうちょっと加減しろ! 上背と姿勢ばかり杉のように真っ直ぐすくすく育ちやがって」

「君も背は高い方だ」

「お前も或誼殿も己れより高いだろうが!」

「そんなことよりもうすぐ酉の刻だ。じき陽も暮れる。暗い中、山へ帰るのは危ない。泊まって行くといい」

「そんなことよりぃぃぃ?」

 六尺強に囲まれるのは圧迫感がある。壁に行く手を阻まれた蟻の気分だ。というか何故、或誼まで禄花の退路を断つように道を塞いでいるのか。虫も殺さぬ笑みを浮かべているが中々どうしてこの兄は曲者だ。頭の中で言い訳を考えながら、奏臥へ捲し立てる。

「いやいや、オレ戌の刻に鬼退治してんの見てるよな? その後普通に一人で帰ったの見ただろ? 木鹿で帰るよ大丈夫だよ、心配ねぇって」

「兄上、戻ったら禄花を交えて食事をしましょう」

「しねぇよ! 話を聞け! つか腕痛ぇ!」

 中納言の姫や家人から離れているからか、すっかり禄花呼びで会話を続ける奏臥の肩を割と本気の力を込めた拳で叩く。しかしこの美貌の壁はびくともしなかった。

 もう一つの壁が笑顔のまま迫って来る。しかもこの壁、慇懃な分余計に質が悪い。

「花仙殿。奏臥の言うようにぜひ、我が屋敷でもてなしをさせてください」

「嫌ですなんか怖ぇもんこいつ。つか離せよ痛いっつってんだろ」

「君が『うん』と言えば離す」

「分かった。分かったよ! 酒だけな! 泊まらないから! それでいいだろ」

「……泊まらぬのか」

 禄花の腕を掴む力が多少は緩んだ。しかし明らかに不服なようで、掴まれた腕からは逃れられない。おまけに或誼まで禄花の行く手を阻む位置に立ち塞がっている。何だこれは。以斉兄弟恐るべし。

「花仙殿。今日は一つ、わたくしの顔を立ててお泊りいただけないでしょうか」

「お断りする」

「実は花仙殿。わたくし先日、雅の商人から花仙殿も持っていない西の果ての植物図録を手に入れまして」

「……それはあれか、常夏の国の珍しい花のことが書かれているというあれか」

「それにございましょうなぁ」

 それは商人に禄花が欲しいと伝えていたというのに、入れ違いで買い取った人物がいたと言われて諦めていた書だ。何故それを持っている。そして何故それを禄花が所望したと知っているのだ以斉或誼。本当に侮れん。

「……或誼殿」

「何でしょう」

「貴殿は弟に甘すぎますぞ」

「ふふふ。そうなんです。わたくし昔から弟には甘いのですよ、花仙殿」

「……くそう……泊まるのでその図録を読ませていただきたい……」

「お泊りになるのであれば、どうぞ翌朝棲み処へお持ちくださいませ」

「泊まるのだな、禄花」

「……お前、今の流れでよくも嬉しそうな顔ができるな……」

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