第7話
人は脆い。すぐに壊れる。壊さずとも五十年もすれば死ぬ。だから禄花は人を遠くから見るだけにしてきた。奏臥と関わることも本当は良くないと分かっている。それでも。
寂しい。
じわりと、それが胸に滲んだ。粟を粥にしてその中へ解した焼き魚の身を入れる。椀に装って
「食え」
「うん。いただきます」
「……いただきます」
慣れない。慣れてはいけない。けれど寂しい。けれど嬉しい。だから。
手を伸ばすのではなかった。望んではいけなかった。奏臥と禄花の時間はほんの一時しか交わらないのだから。
「片付けたら都へ向かうぞ」
「手伝おう」
水場へ並んで立つ。涼やかな美貌を盗み見る。白睡蓮のように清廉な面が禄花へ向けられる。
「禄花」
「なんだ」
「
「あ? ……そもそも己れは滅多に食事しないしだから排出もしないしここには樋殿は必要なくてだな……ない……いや待て、作ってやるからちょっと待て、待てるか?!」
「待てる」
「うん、ちょっと待ってろ」
庶民はその辺に垂れ流しだが、この睡蓮のように清らかな男にその辺で済ませろ言うのは忍びない。気がする。すごく。慌て過ぎて土鼠を十匹ほど出してから出し過ぎたと顔を顰める。
「樋殿? 樋殿ってそもそも普通はどうなってるんだ? 使ったことがないから見たことがないぞ? とりあえず壁と……穴を掘って……川まで流れるようにすればいいのか? 土に直接穴を掘っただけでは着物が汚れるか? 板か? 板で覆えばいいのか? 何も分からん!」
岩屋へ駆け込み蔦で奏臥の手を引く。表へ連れ出し、蔓や木で覆った小屋へ案内する。
「使え! 己れは樋殿を見たことがないから不満があれば言え! 隠し室に居るから済んだら声をかけろ!」
「うん。あっ」
小屋に入ろうとして、鴨居に烏帽子が当たった。
「ああ……っ、もう少し上か。くそ、お前は上背がありすぎるのだ」
蔓と木を調節しながら操って奏臥の身長に合わせる。六尺ほどだろうか。禄花も五尺六寸ほどはあるが、それでもかなり大きい方だ。顔が涼やかだから誤魔化されてしまうが、体も鍛えられていて大柄ではないがしっかりしている。そもそも禄花は上背があっても体はひょろひょろだ。例えるなら禄花は
「すまない」
「いいから早くしろっ」
「うん」
今度どこぞの屋敷へ呼ばれたら、樋殿がどうなっているか見て来よう。全く分からん。使ったことのないものは分からなくて当たり前なのだが、白睡蓮のように清らかな顔をしていてもやはり排泄はするのだなぁと妙に納得した。
禄花が樋殿を目にするのも、
「禄花」
「おう。不便はなかったか」
「うん。君、排泄はしないのか」
「しない。もう人ではないからな。半分植物のようなものだ。消化ではなく分解している。水分も呼気や表皮から蒸散している」
「だからか」
「うん?」
「君からは常に花の香りがしている」
顔を近づけ、すん、と鼻を鳴らす。奏臥からは白檀の香りがした。
「近づくなと言っただろう」
「触れなければ良いのだろう」
「そう……かも知れんが……匂いを嗅ぐな……っ!」
「土御門大路で会った時、君は私の匂いを嗅いだ」
「あれはだから、式神と同じ匂いがしたからだ」
「君は」
「なんだっ」
「なかなか恥ずかしがりだ」
「――っ」
ふふふ、と笑い声を漏らす奏臥へお前が恥じらいを知らんのだ、とか他にも色々言い返したいことはあるはずなのに言い返せずに己の耳朶を摘んでみた。熱い。こんな薄っぺらい肉がこんなにも熱くなることがあるのか。訳が分からず、大声を出す。
「阿呆め! お前の弟子が待っているから、山を下りるぞ!」
「うん」
とはいえ、足を挫いた奏臥を歩かせるわけにはいかない。宙で手を振り、使役を呼び出す。
「
ざざざざ、と周りの草木が揺れる。葛が集まって大きな蛇になり禄花の胴へ頭を擦り付ける。
「よし。さ、乗れ」
蔓で手を貸し、這蛇の背へ奏臥を乗せる。子供のような表情で這蛇の背中を撫でている奏臥が、顔を上げた。
「禄花」
「なんだ」
「これは空も飛べるのか」
「ああ。這蛇は元は蛇だが使役するうちに妖力が高まって龍になったからな。だが目立つのはご免だから、都から少し離れたところで木鹿に乗り換えるぞ」
「うん」
這蛇の背を撫でながら「お前は這蛇と言うのだね? よろしく」と話しかけている。動物が好きなのだろうか。本来ならば半日もかかるだろう山を半時で下り、そこからさらに木鹿へ乗り換える。這蛇を戻す時には「またね」と鼻面を撫でていたのでやはり、奏臥は動物が好きなのだろう。
「木鹿。また会ったね。よろしく頼む」
首を撫でている奏臥を蔦で押し上げ木鹿の背中へ乗せる。すっかり木鹿は奏臥を気に入ったようで、甘えて首を撫でろと押しつけている。
「主人は己れなんだがな」
釈然としない気持ちで土御門大路へ向かう。時刻もちょうど巳の刻だ。土御門大路の外れまで来ると、狩衣姿の小柄な二人の少年が駆けて来た。小柄とは言ったが、奏臥と禄花が規格外に大きいだけで少年たちは五尺弱程度だから平均的である。どちらも実に少年らしく、健康的にふっくらと丸い頬をしている。
「師匠!」
「奏臥様!」
木鹿から下りた奏臥は泰然と二人に歩み寄る。とても迷子になった男の態度ではない。
「紀之片。志嬰。ご苦労様」
「いいえ。あの、こちら……は」
「お世話になった苑離禄花殿だ」
「苑離……雪月花仙様!」
志嬰と呼ばれた方は驚きの声を上げたが、紀之片と呼ばれた方はぽかんと口を開いたまま、呆然と禄花を見ている。禄花はあまり人へ名乗らぬ。それゆえ苑離禄花の名前から雪月花仙が出てくる人間などそうはいない。この志嬰という弟子は奏臥同様、勉学に通じよく書を読むのだろう。それは同時に以斉家が弟子へ自由に書を読ませ、勉強することを許している、推奨しているという証でもある。
志嬰はすっきりと涼やかに整った顔立ちで
「……ふぅむ」
一人得心して頷く。本人が言わぬものを禄花が暴露するのは野暮と言うものだ。顎に手を当てくるりと目玉を動かした禄花を、奏臥は黙って見つめている。
「紀之片。これ、紀之片。あまり見ては失礼ですよ」
「……はっ、いやしかし志嬰。こんな美しい姫は見たことがない……」
「姫ではない。己れは男だ」
「芍薬のようだろう?」
何故か誇らし気に奏臥が言う。紀之片は禄花を見つめたまま、夢心地という様子で生返事をした。
「はいっ。いや、あの……えへへ」
「芍薬でも姫でもない。志嬰と言ったな? お前に薬の扱いを伝えておこう。この粉に水を入れ、少し粘り気が出たらこの薬を入れて清潔な布に塗って、奏臥の足首に貼るのだ。できるか?」
「はい。ええと、この白い粉は?」
「小麦の粉だ。水を少量加えて練ると粘り気が出る。やってみせよう」
直垂の袖から薬椀を出す。砥草から水を出し、小麦の粉を混ぜる。禄花の手元を真剣に覗き込む姿に、奏臥の治療は志嬰に任せても良いだろうと考えた。
「この程度の粘度があればよい。薬は日に二、三回取り換えよ。七日ほどでよくなる。できるか?」
「はい。お任せください、雪月花仙様」
「雪月花仙様は止せ。禄花でいい。己れはどこの馬の骨とも知れんただの怪しい輩だ」
絹の袋へ薬を入れて志嬰へ渡す。
「足りると思うが、一度見に来る。以斉の屋敷は左京一条四坊九町辺りだったな」
「はい」
「帰ってしまうのか、禄花」
「三日ほどしたらまた見に来る。それまでに何かあれば莉蝶を飛ばせ。くれぐれもその間に無理をするな。三日経って見に来た時に無理をして悪化させていたら張り飛ばすぞ。分かったか」
「……うん」
やる。禄花は張り飛ばすと言ったら本当に容赦なく張り飛ばす。そのことを十分理解した表情で奏臥は小さな頭をこくん、と上下に動かした。
「緑藍と遊んでやれ」
「うん」
「ではな。木鹿、奏臥に挨拶を」
奏臥を乗せて来た木鹿が甘えて首を擦り付ける。奏臥は穏やかに微笑んで木鹿の首を撫でた。
「ありがとう。またな」
「うわぁ?!」
解けて地面へ消えた木鹿に紀之片が大げさに驚く。自分たちも式神を使うだろうに。苦笑いして木鹿の背へ乗る。
「もう迷子になるなよ」
声をかけると、憮然とした表情で奏臥が返す。
「迷子になったのは私ではない」
「あははっ」
木鹿を走らせ手を振る。暗い岩屋の塒へ戻るのが少しだけ、寂しく思える。何故、様子を見に行くだなどと言ってしまったのか。
「ああっ、くそっ!」
頭をかき毟り髪を引っ張る。こんなのは禄花らしくない。百年以上、独りで過ごして来た。独りで平気だった。それなのに。
それから三日間、奏臥からの連絡はないかと落ち着かぬ気持ちで過ごした。三日目に以斉の屋敷へ出向いた。どうやら奏臥も弟子の二人もいないようだ。
「申し、奏臥殿はござらんか」
声をかけると奏臥に似た男が出て来た。ゆったりとした振る舞いに誤魔化されそうだが、奏臥同様に体躯は鍛え上げられている。きっちりと着込んだ衣冠の色目がまるっきり奏臥と同じだ。翡翠の袍に白藍の指貫。並んだらきっと鏡合わせのようだろう。確かに似てはいるが、奏臥が冬の早朝、静かにまだ息を潜めている湖面の氷ならば彼は春の雪解けが始まった明るい日差しを受けた湖だ。
「やぁ、あなたが雪月花仙殿か。噂に違わず百の花より美しい」
「その呼び名は嫌いなのだが。それではあなたが
「ご存知ですか。奏臥が大変にお世話になり申した」
禄花のような得体の知れない者に深々と頭を垂れる。なるほど行い正しき蓮の君、光明の君と呼ばれるわけだ。しかしこの兄弟は揃って美形だ。美しいとは言え玉を磨いたように玲瓏な美貌で表情の動かぬ奏臥と違い、或誼は春の木漏れ日のような朗らかさがある。下級貴族とはいえ換えの利かぬ役職に就いており、世間に名の通った人物で人柄も正しくこの顔と来れば都の姫君たちは放っておかないだろう。奏臥が数えで十七、四つ違いの或誼は二十一。それなのに兄弟揃って浮いた話の一つもないとは恐れ入る。いや、確か以斉の当主は同じ陰陽四家の夏氏弥家の姫を娶って、子供も一人いたはずだ。
「己れは奏臥に無理をするなと言い置いたのだが、どうやら言う通りにはしておらぬようで」
「申し開きもありませぬ。中納言殿の姫に呼ばれて断れず出て行きました。これからわたくしも出向くところですので、御一緒に如何か」
「ふむ……同行させていただこう。薬は足りているか志嬰に確認もしたいしな」
家人に言い付けるのではなくわざわざ待っていたということは、禄花に何か話があるのだろう。三条へ向けて歩いて行く或誼の後を進む。また徒歩か。本当にこの兄弟は己が貴族だということを自覚しているのだろうか。穢れと行き会うことを全く厭わない。これでは陰陽他家と分かり合えるはずもない。以斉の人間が異能過ぎるのだ。考え事をしていると途中、どこぞの貴族の家の庭に大きく立派な芍薬が咲いているのが見えた。
「そういえば少し前に大路をぶらぶらしていたら大雪だというのに一人で歩いて来る童にぶつかってな」
「はい」
「仕立ての良い水干を着ておったのでどこぞの若君だろう。謝ってこんな雪の中何をしているのかと尋ねたら、花を探しているという。母君に差し上げるのだ、と。大雪の降るような季節に、だ。何か理由でもあるのだろうと花を出してやったが、見目は麗しいのに一切表情を変えぬ童であった。今思えば奏も子供の頃はあのように麗しいが無表情な子だったのだろうな」
自分の想像に何やらおかしくなって頬が緩む。或誼は何故か、目を瞠って大変に驚いた様子で禄花に問いかける。
「その童に渡したのは、芍薬の花でしたか?」
「……どうだったかな。そうだったかもしれん。できるだけ大きな花を出してやったと思うが。知り合いか?」
「……かような運命だったのかも知れませんね」
「何? なんだ?」
重ねて尋ねた禄花の問いに答えず、或誼は真っ直ぐに前を見る。そしておもむろに口を開いた。
「奏臥は幼い頃から聡明で大人の言うことをよく聞く、大変に大人しい子でした」
「まぁ、今も闊達な方ではないな」とは言えずに頷く。何が続くのかと考えながら或誼の話を待った。
「花仙殿はご存知かも知れませんが、我らの母は奏臥が五つの時に妖から受けた傷が元で亡くなっております」
先々代の以斉家には姫しかおらず、またその姫は希代の陰陽師として名を上げていた。或誼と奏臥の母である。そんな陰陽の姫と激しい恋に落ちたのが。
「父は母のことを大層大事に想っておりました。……母を喪い、父は心が保てなかった。お恥ずかしながら、我が以斉家は断絶の憂き目に遭う寸前でした。わたくしは家を保つことだけに腐心していて、幼い弟のことまで気が回らなかった。ただ世間に後ろ指を指されぬように。それだけを弟に強いて来た」
ああ、この人は弟に正しくあれと強いて来た自覚があるのか。だからこそ、ある意味では弟を甘やかして来た。正しいか正しくないかは分からぬが、それは確かに愛だろう。
「或誼殿。それゆえ奏臥は良き人となり申した。胸を張って、あなたが誇ってやらねば」
「……!」
或誼は瞠目して顔を上げた。禄花の横顔に視線が注がれている。
「花仙殿。先日、奏臥はわたくしに緑藍を見せてくれました。あなたが使う花の蝶の美しさや、木でできた鹿の精悍さ。あなたの部屋にあった書の話。あんなに楽しそうなあの子を見たのは初めてです。初めて、わたくしはあの子から友の話を聞いたことがないと気づいた」
事実、友など居らぬからなぁ、とは言えずに俯く。俯いた禄花に何を思ったか、或誼は声を震わせた。
「弟と仲良くしてやってくださいませ。あなたはあの子にとって、初めての友なのです」
「……己れはただの怪しい輩だがよろしいのか、或誼殿」
「
「……随分と昔話に詳しいようだ」
或誼は晴姫御前の末路まで知っているだろうか。さらにその夫の末路は。昏い瞳でつま先を見つめる。
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