第6話

 溶岩石の横でぼんやりと立ち止まっている奏臥を振り返る。読めない無表情で茫洋と問いかけられる。

「君は」

「うん」

「毎日このように湯を張って風呂に入るのか」

「毎日じゃないけどまぁ、たまにな。この時期なら川で水浴びもするが今日はもう日暮れだしな」

「……そうか」

「なんだよ」

「いいや」

 妙な沈黙に思考を巡らせる。禄花は人の暮らしに疎い。まして貴族の生活はなかなかにしきたりもややこしい。記憶の底を攫って、思い出したことをそのまま口にする。

「あっ、そうか。貴族は湯を貯めた風呂には入らないと聞いたことがある。それでか。生憎ここは貴族の屋敷と違うのでな。我慢しろ」

「……私はむしろ、湯を貯めるのは贅沢だと思っただけだ」

「そうか」

「うん」

 なら何も問題ないじゃないか。とは言えずに奏臥から目を逸らす。この男はなにゆえそんなに人の顔を見つめるのか。

「じゃあこの木板を底へ沈めて入れ。これが体を拭くための手拭いだ。着替えはないけど肌小袖と単衣は貸してやる。ここに置いておくから」

 さっきまで座っていた真拆葛の椅子へ必要最低限の物を置いて溶岩石の周りを几帳で囲む。普段ならしないことの連続に明日以降、体のあちこちが痛むだろうとぼんやり考えた。

「足を固定している藤蔓は外すから、気をつけろよ」

「うん」

 さっそく袍を脱ごうとする奏臥を止める。衣冠や束帯は一人で着ることはほぼ不可能だから、いつもは家人に手伝ってもらっているはずだ。他人の前で脱ぐことに慣れているのだろうが、禄花は慣れない。

「待て待て、几帳を持って来てやっただろ。その向こうで脱げ。阿呆め」

「禄花」

「なんだよ。己れが穿いてるのでよけりゃ大口袴も要るか?」

 なんか嫌だろ? そりゃ洗ってはあるけど。と言うと奏臥は静かに首を横へ振る。

「いいや。ありがとう」

「その頃には魚も焼けるだろ。己れは隠し室の方に居る」

「うん」

 禄花は日常生活に他人が居る、ということを経験したことがない。あったとしても、三歳までのことだ。妙にそわそわして落ち着かない。竈を見に行きたいが、奏臥が風呂に入っている。そう何度もうろうろするわけにもいかない。手持ち無沙汰で隠し室へ莉蝶をいくつも飛ばす。

「禄花」

「上がったか」

「うん」

 奏臥は目を輝かせて莉蝶を追う。しばらくして莉蝶が弾けるようにして消えると、言いにくそうに禄花の名を呼ぶ。

「……禄花」

「なんだ?」

 隠し室の入口で途方にくれた子供のような表情で大きな体を縮めている奏臥を振り返る。

「薬が湯で剥がれてしまった」

「取らずに入ったのか?」

「うん」

「……」

 呆れて二の句が次げない。この男は本当に、陰陽のこと以外に何も教わらずに生きて来たのだろうか。

「……いい。薬は飯を食ったらまた塗ってやる。とにかく座れ」

「その」

「なんだ」

「直接溶岩の底を踏まないように入れた板の下に薬の布が落ちてしまった」

「……お前……本当に鈍くさいな」

 覚えず漏れた禄花の言葉に奏臥は明らかに萎れて見せた。腕の中で土鼠がきゅい、と一声鳴く。

「しかし君はすごいな。この子は本当にかわいい」

 無邪気に土鼠を抱えて禄花を褒め称える奏臥に何も言えなくなってしまう。

「……ふふ。もういいよ。今日はそいつと好きなだけ遊んでいいから、とりあえず飯を食おう」

「本当か? よかったな緑藍」

 名前はそれで決まりなのか。そんなに喜ぶなら帰りに莉蝶の一つや二つくれてやってもいい。椀や箸に直接触れないよう、注意を払って食事を盛りつける。

「これは私が釣った魚?」

「そうだ」

 嬉しそうに箸をつけ、白身を口へ運ぶ。その間も片手は土鼠を撫でている。それでも背筋はぴんと伸びていて、厳しく躾けられたのだろうとすぐに分かる。

「美味しい」

「そりゃよかった」

 目の前で行儀よく食べている人間がいると自分も行儀よくしなくてはという気になるから不思議だ。普段なら巻物を読みながら食べたり肘をついて食べたりしている禄花も、何とか体裁を保って魚を口へ運ぶ。禄花の食べ方が気になるのか奏臥がちらちらと視線を送っている。

「なんだ?」

「いや……」

「なんだよ、気になるだろ」

 そんなに禄花の食べ方が気になるのだろうか。何か無作法なのだろうか。それならはっきり言われた方がいい。

「君、唇の左下に黒子がある」

「うん?」

 それがどうした。何だそんなことかと拍子抜けした。

「咀嚼すると動くから目についてしまって」

「ああそういうことか。仕方ないだろ。生まれた時から己れの許可なくここに貼り付いてるんだ。気にするな。食え。おかわりもあるぞ。遠慮するな」

「……うん」

「亥の刻になったら寝るからな。ゆっくり食え」

「うん」

 なるほど蓮の君はこうして世話を焼いているんだろう。そうして弟の奏臥は世話を焼かれ慣れているというわけだ。食事を終えてもまだ土鼠を撫でている奏臥へ手拭いを差し出す。

「口を拭け」

「うん」

「椀を洗って来る」

「私も手伝おう」

「……座ってろ。やったことないだろ」

 洗い物どころか何もかも家人にやってもらって上げ膳据え膳のはずだ。だからこそやりたいのか。少し考えてため息を吐く。

「では己れが洗うからこれで椀を拭いてくれ。できるか?」

「うん」

「あー、待て待て。また挫いたことを忘れて立ち上がる。蔓で固定してやるから座れ! もう歩くなとは言わん! 言ったところでまた忘れて立ち上がるんだろ!」

 全く、弟をなんて世話の焼ける男に育てたのだ以斉或誼。いくら何でも甘やかし過ぎだろう。奏臥を座らせて藤蔓で膝から下を固定する。これでは山を下りてからも同じことをするだろう。しばらくこのまま藤蔓で固定して、時々様子を見てやらねば。

「いいか! もうお前このままで山を下りろ。しとうずを履く時は『開け』と言えばしばらくは引っ込む。不便だろうが己れの薬を塗って安静にしていれば一週間で治る。分かったな!」

「うん」

 小さな頭をこくりと上下に振る。素直なのか考えなしなのかそのどちらもなのか。幼い頃から年長者の言うなりだったのだろう。こうも悪気なく真っ新だとこちらの毒気が抜かれてしまう。

「……何してる。手伝うんだろ」

「うん」

 嬉しそうな顔をしやがって。椀を拭くだけの何がそんなに嬉しいのか。土鼠はすっかり奏臥に懐いて肩に乗って胡桃を食べている。

「その胡桃はどこから出したんだ? 緑藍」

 きゅい、と鳴いて首を傾げた土鼠の鼻を長い指が撫でるのを視界に入れる。貴族らしく荒れていない手はしかし、戦うために剣を握る手をしている。

「腹に隠し持ってるんだ。何でも隠すから困る。お前も大事な物を隠されないように気をつけろよ」

「……連れて帰っていいのか?」

「名前までつけて連れ帰らないつもりか? それにどうせまたここへ来るつもりだろう。その時に道に迷ったらそいつが案内できる。前にも言ったが都の周囲に放っている式神。あれは常時解放しているだろう。あの数を常に呼び出せるなら土鼠の扱いも難しくはなかろうよ」

 奏臥が都の周囲に放っている式神は依代などに一時的に霊を降ろして扱う式神とは違う。元々の核となる妖や鬼があり、常に主従として封印を更新しながら扱っている。それを常時、それこそ寝ている時まで顕現させているのだ。奏臥の能力は異常である。

「……緑藍を連れて帰って、また来てもいいのか」

「来て迷われるよりましだと言ったんだ」

「うん」

「喜ぶなよ」

「うん」

 ダメだ。会話にならない。なのに何でこいつは春うららみたいな顔してるんだ。非凡な才能を持ち、しかし心身ともに天晧の月が如く静かに凪いでいる。困惑しかない。岩屋で洗い物を済ませて隠し室へ戻って、畳の上に座った奏臥に声をかける。

「手のひらを上に向けろ」

「?」

 もこもこトゲトゲした一房を手のひらから出す。日陰蔓ひかげのかずらだ。土鼠の媒体である。力仕事を頼む土鼠は木の根で作る。逆に細かな仕事を頼む時は、こうして草や蔦などを媒介にする。奏臥が愛でる為ならばこの柔らかな蔓草で十分だろう。

「吐息を吹きかけて名前を呼べ」

 ふぅ、と口を窄めて奏臥は禄花の手のひらへ息を吹きかけた。

「ち、違うっ! 何のためにお前の手のひらへ日陰蔓を出したと思ってるんだ! そっちへ吹きかけろ阿呆め!」

「ああ……うん」

 自分の手のひらへ置かれた日陰蔓へ息を吹きかけ、名前を呼ぶ。

「緑藍」

 呼ばれた途端、肩に乗っていた土鼠は一旦解けてもう一度、奏臥の手のひらへ吸い込まれて行く。

「縁結びし理を刻め――草刻!」

 日陰蔓の一房がくるくると回って奏臥の手のひらへ消える。不思議そうに自分の手のひらを眺め、それから少し困った表情で禄花を仰いだ奏臥に頷いて見せる。

「これで『呼び出したい』と念じれば呼び出せるし、必要ない時は『戻れ』と念じるだけで地へ戻る。やってみろ」

「緑藍?」

 きゅい、と鳴いて手のひらから現れた土鼠に瞳が輝く。

「すごい。やはり君はすごいな、禄花」

 しかし土鼠も随分と奏臥に懐いたものだ。肩に乗って、それから首回りをうろうろし、耳の後ろから頬ずりするように甘えて見せる。

「もう一つやろう」

 手首を撓らせ空を掴む。開いた手のひらには二枚の芍薬の花弁。袍の合わせ目へ入れて軽く叩く。

「吐息を吹きかけると莉蝶に変わる。緊急連絡用だ」

 袍の胸を押さえた奏臥へ続ける。

「お前、芍薬が好きなんだろう?」

 やたら芍薬芍薬とうるさいもんな、と笑ってやる。蕩けるように微笑んで、奏臥は首を横へ振った。

「私が芍薬を好きなのではなくて、君が芍薬のように美しいと言ったんだ」

「……だから、そういうのは許嫁に言ってやれ」

「? 芍薬のように美しい人は君しか知らない」

「……痴れ者め!」

「何故怒ったんだ? 禄花?」

 奏臥の隣に座って巻物を取り出す。硯に水を入れて墨を磨る。奏臥は茫洋とした表情で禄花の手元を見ている。

「……あまり見るな」

「なぜ?」

「……己れは手習いをしたことがない。だから手が下手なんだ」

「気にするほどではない。曾乃生そのうの御隠居殿の方が手の癖が酷くて読みづらい。それに手習いをしたことがないのなら、読み書きは独学で?」

「そうだ」

「……君は本当にすごいな。何も恥じることなどない。誇るべきだ」

 しみじみと感心されて瞼の裏が暖かくなった。何だこれは。禄花の意思と関係なく、体が勝手に涙を作ろうとしている。狼狽しながら奏臥から顔を背けた。

「それでも嫌なものは嫌なんだ」

「……君が、嫌でなければ私が教えようか」

「まさかとは思うがお前も手が下手とかいうんじゃないだろうな」

「分からない」

 禄花の置いた筆を取って、奏臥は微笑む。

「何を書くんだ?」

「えっと……柴胡さいこ桂皮けいひ乾姜かんきょう甘草かんぞう……」

 教えようかと言うだけはある。お手本のように流麗な文字が筆先から生まれ出る不思議さに見入った。端正な横顔と、長く形の良い指は水上を流れる花が如く文字を書き綴る。

「これは処方?」

「うん。薬の調合を書きつけているんだ」

「ここにある書は全部君が書いたのか」

「いや。の商人から買い付けた書もある」

 雅とは海の向こうにある大国だ。しかし雅との間にある藍海らんかいは広大な上に海流が激しく、大きな商船でも無事に辿り付くのはかなり困難である。ゆえに雅のものは貴重だ。読書家なのだろう。雅、と聞いた途端に奏臥はそわそわと何やら落ち着かない様子で乱雑に積み上げられた書棚を覗き込んでいる。

「読んでもいいだろうか」

「ああ。ただ己れの興味を引いたものしか置いてないから、大体が植物や薬に関する書ばかりだぞ……いや、先日いつもと違うものを買ったな」

 立ち上がって書棚を見ている奏臥の隣へ並ぶ。積み重なった書の、下敷きになっている朱い表紙の本を引っ張り出す。

「寒冷地に育つ植物について調べたくてな。これは確か、雅のさらに内陸にある天疏てんそという国の記述があったはずだ。瑠璃の瞳、白磁の肌の人が暮らすらしい。文化や寓話が載っていて興味深かった」

 明らかに奏臥の表情が輝く。そうか。こういうものが好きなのか。

「亥の刻まで時間がある。好きなだけ読むといい」

「……読みきれなかったら……」

「なんだ」

「また、来てもいいだろうか」

「……」

 一体、禄花の何がこの男は気に入ったのだろう。ええい、弟を厄介な男に育てたものだ以斉或誼。何故だか憎めぬ。何故だか邪険にできぬ。

 虚ろで素直なこの男に、己の孤独にすら気づけぬこの男に、どうしようもない寂しさを感じるから。

 それは禄花の孤独とは違うというのに。けれど何故かその痛みは似ているような気がした。

「好きにしろ」

「うん」

 思い付いて言い淀む。奏臥はじっと禄花を見つめて言葉を待っている。

「……時々、手を教えろ」

「うん」

 変わった奴だ。何がそんなに嬉しいんだ。心底幸せそうな奏臥の横顔を盗み見る。

 他人が傍に居るのは母が死んで以来初めてだ。だが不思議と奏臥は邪魔にならない。夢中になると時間を忘れてしまうのは禄花の悪い癖だ。今日は好きな時間に寝て好きな時間に起きるというわけにはいかないので、一時経ったら莉蝶が飛ぶように仕組んで書き物に専念する。

 どのくらい経っただろうか。いつの間にか書を置いて書き物をする禄花の横顔を眺めている奏臥に気づいて面を上げた。

「わ、莉蝶はいつから飛んでた? もう亥の刻だ。寝るぞ。何故声をかけない」

「声をかけたが君の心は蝶になって遊んでいたようだから」

 花になったり蝶になったり、君は忙しい。いちいち好いた女子へするような表情で受け答える奏臥を睨み付ける。

「……阿呆め」

「ふふふ」

 心、肉体を離れ蝶になりて遊ぶ。呟いた奏臥へ唇を尖らせて見せる。

「芍薬が気に入らぬなら、将離しょうりの君はどうだ」

 唇を笑みの形に咲かせて禄花の顔を覗き込んだ、奏臥に一瞬見惚れた自分を誤魔化すように大声を上げる。

「それは雅での芍薬の別名だろ! 寝ろ!」

 中々立ち上がらない奏臥を蔓で引っ張り、几帳の向こうへと追いやる。奏臥はと言えば春風に吹かれてでもいるかのように微笑んで禄花を見ている。

「阿呆め」

「うん」

「よく休め」

「うん」

「……水が飲みたければ緑藍に言え。持って来てくれる」

「そんなことまでできるのか。賢いな」

「うん」

「いいからもう寝ろ!」

 文机を押しやり、畳へ横になる。几帳の向こうから微かな衣擦れと吐息が一つ、耳朶を打つ。

「おやすみ、禄花」

「……うん」

 芍薬は別れの花だ。雅では歌垣うたがきの際、契りを結んだ相手との別れ際に贈るという。奏臥がそんな色っぽい話を理解しているとは。

 形にできない。むず痒いような、くすぐったいような、切ないような気持ちで目を閉じた。

「土鼠」

 きゅい。と鳴いて畳へ上がって来た式神へ語りかける。

「辰の刻には起こせ」

 きゅい、と鳴いて土鼠は再び畳を下りて土へと潜る。何度か瞬きしていると、几帳の向こうから規則的な吐息が漏れ出した。人の呼吸とは以外に一定なのだ、と妙に感心しながら禄花もまた、深い夢路へと落ちて行った。

 きゅい。きゅいきゅい、きゅっ。

「禄花」

 きゅいっ。きゅ、きゅっ、きゅいっ。

「禄花」

「うーん……? ……!」

 揺さぶられ寝返りを打とうとして、手を引っ込める。目の前にある男の顔にぶつかりそうになって覚えず怒鳴った。

「触れると死ぬと言っただろ!」

 握り締めた手が震えた。奏臥はそれを目路に入れて、悲しそうな顔をした。

「すまない。辰の刻だ。君が起きないから土鼠が困っていたので私が起こした」

「……いや。いい。飯にするか」

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