第5話

 小麦を乳鉢で擂って粉にしたものを少しずつ水を加えて練る。粘度が出て来たところで薬を加えてさらに混ぜる。清潔な布を広げ、そこへ薬を塗り広げた。座っている奏臥の足元へ跪き、蔓を使って患部へ貼る。布を巻いて固定して顔を上げると目が合った。

「何を選べない」

「幼い頃から兄上を困らせないことだけを考えて来た。兄上が勉学や弓や剣や修行に励めと言うので修行に励んで来た。兄上が正しくあれと言うので正しくあろうとして来た。いつも私は、私の考えなど持たず兄上が望む方を選んで来た。突然、お前の好きな方を選べと言われても私は何も……選べない」

「……」

 玻璃のように澄んだ瞳には困惑すら浮かんでいない。何もない。他人のためだけを選んで生きて来た。その言葉を表したままの、赤子の如く真っ新な。浄土の花の異名を持つこの男が、少し不憫になったのかもしれない。

「選ばないのもまた、お前の選択ではないのか」

「そうか」

「そうだ」

 できるだけきっぱりと首肯した。奏臥は微かに微笑み、穏やかに呟く。

「……そうか」

「兄君が好きか」

「うん」

「ならば兄君の望む方を選んで来たのもまた、お前の意思だ。違うか」

「……そうだな」

 冽冽れつれつたるかんばせはふと、何かを思い出したかの如く禄花を見上げた。

「そういえば、兄上の言い付けを守るようにと母上がおっしゃったのだ。兄上の言うことを聞いて兄弟仲良く、と」

 そう言って私の手を握った母上の、御髪に飾った芍薬が鮮やかでとても美しかった。と奏臥は朝露が若葉の上を零れ落ちるかのような密かな音吐で漏らし、眩しそうに目を眇めて禄花を見つめた。

「兄上も技に励めば黄泉国よもつくにの母上に届き、いつかの花仙様が会いに来てくださるやも、と」

 いつかの花仙、とは。いささか気になったが今は奏臥の家族の話をしていたはずだ。

「お母上の言い付けを守っておるなら、それはやはり選べないのではなく『お母上の言い付けを守る』ことを選んだ証拠だろう」

 それは愛だ。家族への愛。禄花の持ち得なかったもの。乳鉢や薬の材料を片付けながら、奏臥へ言う。

「己れが作った雑な畳だが、生憎寝床はここしかない。今日はここで我慢しろ。文句言うなよ」

 几帳をずらして重ねた畳の上を何となく手で払った。禄花の毒を吸い込んでしまった古い畳をわざわざ新しいものに変えたというのに、落ち着かずにあこめで大雑把に埃を払う。作りは雑だが真新しい褥に何故か奏臥は顔を伏せた。

「君はどこで休むんだ」

「そこだよ。いつもは処方を書きつけたり巻物を読んだりしてるけど、夢中になると飯も寝るのも忘れちまうし、寝床まで行くのが面倒でよくそこでも寝ちまうし」

 茵を顎で示し、乳鉢を仕舞う。土の上に簀子すのこを敷き詰めてある床に慣れぬのか、奏臥は所在なさげに身を縮めている。しかし六尺強ある男が身を縮めたとてでかいものはでかい。

「家主から寝床を奪うのは心苦しい」

「お前は怪我人だろ」

「……一緒に眠ればいい」

「あのな、言っただろ。己れに触れると爛れて腐り落ちる。さっきも話しただろ。ひもじくて山の草木を食べて過ごした。初めは腹を壊したり苦しんだりしたがそのうち何を食べても平気になった。調子に乗って岩や色付きの石を食べたりもした。植物鉱物、己れにおおよその毒は効かない。初めて己れの肌に触れて腐れて死んだのは己れの父だ」

 憐れみでもない。同情でもない。どこまでも透明な瞳で奏臥は禄花を見つめ返す。何だか酷く、自嘲気味な気持ちになった。この哀れで幸せな男に、この世にはお前に想像もできぬことがあるのだと知らしめたくなった。

「母は農民だった。今思えばお前の弟子と変わらぬくらいの年だったのだろう。国府だか何だかに用があった父がたまたま母を見染めて連れ去って無理矢理妻にした。子供から見ても贔屓目なしに美しい人だったが、幼い体に無理をして己れを生んだせいだろうな。己れを生んで心も体も病んで己れが三つの時に死んだ。母が死んでから、父は母を閉じ込めた屋敷に来なくなった。下働きも全員いなくなった。飢えた己れは山で木の皮を食べて三年暮らした。放置した屋敷に子鬼が出るとでも噂が立ったんだろう。いつものように荒れ果てた屋敷の中で寝ていたら父に腕を掴まれた。半時か一時か。床を転がる父が最期に泡を吹いて死んだ」

 顔を上げて真っ直ぐに奏臥の瞳を見る。

「悲しくなかった。ざまあみろと思った。当然の報いだと。それからずっと、山で暮らしている。己れは人間が嫌いだ。だから植物になりたい。もう二度と人と関わらずに済む」

 最後の言葉に奏臥は少しだけ悲しそうに瞬きをした。

「私のことも嫌いか」

「……嫌いになれるほどお前のことを知らない」

 少しだけ罪悪感に苛まれて手加減をした。奏臥が寂しそうな顔をしたから。

 否。

 きっと、禄花もずっと、寂しかったから。

「今日は暑い中歩き回って汗をかいただろ。風呂を用意してやるから入れ。そんでさっさと寝ろ。明日は辰の刻前にはここを発つ。お前の弟子に約束したからな。土御門大路までは送ってやる」

「うん」

 衣擦れの音に振り返ると、奏臥は袍を脱ごうとしているところだった。

「待て待て待て、今脱ぐのか!」

「風呂に入れと君が」

「まだ用意してねぇよ! 飯の準備もあるだろ! とにかくそこで大人しくしてろ!」

「夕餉……君が作るのか」

「文句あるのか? ここには己れしか居ないんだから、当たり前だろ」

「うん」

「なんだよ」

「嬉しい」

「……っ、そうか」

「楽しみだ」

「……おう。外に行って来る」

「うん」

 全く調子が狂う。育ちの良さが表れていておっとりした奏臥に野生児の禄花は何だか乱されてばかりだ。禄花に食事は必要ない。それでも気が向くと戯れに物を食べることはある。しかしそれでは奏臥には足りないだろう。別に張り切ったわけではないが、山菜を摘んで岩屋の氷室に置いてあった干し肉と粟を取り出す。

「……魚獲って来るか」

 一旦隠し室へ戻って食材を置く。物珍し気に覗き込む奏臥から少し体を離し告げる。

「こんだけじゃ足りないだろ。魚を獲って来る。ちょっと待ってろ」

「私も行く」

 無表情にすくっと立ち上がるが、すぐに眉を潜める。

「足が痛いんだろ。大人しくしてろ」

「……」

 あからさまに項垂れた奏臥の姿がどうしても飼い主に置いて行かれてしょげる大きな動物にしか見えない。禄花は人間が嫌いだが、動物は好きなのだ。

「……ちょっとだけだぞ。もう申の刻に近いし。藤蔓で足を固定するけど絶対に無理をするなよ。水辺は危ないからな」

「……! うん!」

 蓮の君は一体この弟をどう育てたのか。人懐こく疑うことを知らず、意外に頑固で世間知らず。おまけに方向音痴でよく迷子になる。困ったものだ。

 岩屋を出て、足を怪我した奏臥に合わせてゆっくりと歩き出す。

「木鹿に乗せてやろうか?」

「そんなに遠いのか?」

「いや、すぐそこだ」

「ならいい。君と少し、歩きたい」

「いいけど……さっきみたいに無茶すんなよ」

「……」

 無茶をしないという保証はないから黙り込むのか。良く言えば嘘が付けないのだろう。しかし。

「本当にお前は音に聞く睡蓮の君か? 斉臥せいがの君とまで呼ばれる人格者だと聞いたがまるで駄々っ子だぞ」

 文武両道に通じ陰陽の技に長け、勇猛果敢にして剣の腕前は武人にも負けぬ。都に以斉奏臥あれば妖の付け入る隙などなし。しかし傲り高ぶることなく、厳かに臥すが如く立派な人物である。噂に聞く睡蓮の君とは大違いだ。

「……君は、以斉の家の者ではないから」

「だから何だ」

「平気な振りの、立派な人間の振りをした、嘘を吐かなくていい」

「……それはさっきの『選べない』と同じ理由か」

「うん」

 望まれる人格を演じているというのだろうか。だからつまらなそうな無表情だったのか。自分で選ぶことは、家の者を困らせる。そんな人生はおそらく。

「死んでいるのと同じだな」

 呟いてしまってから後悔する。それでも、奏臥はそれ以外を選べない。それは大切な兄を困らせることになるから。

「相手が望んでいることだけを選び続けるのは楽だ。何も考えなくていい。だからきっと、私は別に私でなくてもいい」

 例えば私がどこかへ消えてしまったとしても。ぽつり、と。初めて見た時のような無表情で奏臥は呟いた。

「阿呆め。お前が迷子になったら朝まで必死で探してくれるあの子たちはどうなる」

 その言葉が虚しいものだと禄花にも分かっている。あの弟子たちも所詮は「以斉の家」の者だ。奏臥を奏臥というただの男として扱う人間など居なかったのだろう。失言を取り繕うために、手のひらから釣り竿として使えそうな蔓を差し出す。

「どうせ一緒に行くならお前も釣れ。……釣り、したことあるか?」

「ない」

「ないのかよ……。仕方ないな」

 流れの穏やかな水辺へ腰かけ、竿の代わりの蔓に餌を結びつける。

「いいか、狙いは流れの滞っている場所だ。そこに潜んでいる魚を釣る。餌に食い付いたらゆっくり上げるんだ。この蔓は切れないが、慎重にな」

「うん」

 初めて釣りをする子供の表情で頷く。実際初めてなのだろう。奏臥はきっと、年相応の遊びなどしたことがないのだ。

「今だ、引け! ゆっくり、時々好きに泳がせながら。いいぞ。上がってきた。もう魚が見えるだろ? ほら、上げろ!」

「釣れた!」

「ああ。結構大きいぞ」

「釣れた、禄花!」

 足を投げ出して座った、草むらの上で跳ねる魚の鱗よりもきらきらと奏臥の瞳が輝く。魚籠を差し出して覚えず破顔する。

「ふふ……良かったな。ほら、ここに入れておけ」

「うん」

「もう少し釣るか?」

「うん」

 実際、奏臥という男は何をさせても優秀なのだろう。あっという間に十匹ほどの川魚を釣り上げ、魚籠が一杯になった。

「これだけあるなら半分は干物にした方がいい。初めに釣ったでかいのは塩焼きにしよう。帰ろうか」

「うん」

 まだ足が痛むだろう奏臥に合わせて、陽が沈み茜色に染まる森の中をゆっくり歩く。

黄丹おうに色だ」

「あれは昇る朝日の色だ」

 僅かに窘めるような声音を読み取り、沈む陽の色を映した若苗色の瞳を一瞥する。

「同じだろ。沈む陽も次の朝には昇る。同じ陽だ」

 黄丹は禁色だ。帝に仕える奏臥が咎めるのは仕方のないことだろう。しかし禄花にとっては天子とて、五十年も経てば死んでしまう他の人間と同じだ。

「……君は怖いものなしだな」

「その名を聞いただけで鬼すら逃げ出す奏臥殿に言われると照れるな」

「君はいつでも自由だ」

「お前はいつでも窮屈そうだ」

「……君はいつも玄一色だ」

「玄色はな、墨を重ねて重ねて漆黒にあと一筆足らない。そういう色なんだそうだ。己れにぴったりだろ?」

「……君も足らないのか」

「お前と同じにな」

「……君は芍薬のように美しいのに意地が悪い」

「誰が芍薬だ。あんな派手な花好きじゃない」

「何故?」

 頬を膨らませた禄花を奏臥は少し屈んで覗き込む。じろりと睨んで唇を噛む。失言してしまいそうだった。人に触れられるのも、自分の顔も、人間も好きじゃない。

 何故なら。

 軽く頭を振って話題を変える。

「半分は干物にしておくから、また来いよ。あ、でも迷子になるか」

「私は迷子じゃない」

「はいはい、今度は己れの塒が迷子になったんだとか言い出すんだろ」

 怖いものがないわけではない。怖いから逃げ出したのだ。人里から。人間から。自分自身から。生きることから。逃げて逃げて、逃げ続けた先にあったのは。

「退屈でも窮屈でも、逃げ出さないお前は偉いよ」

 ため息と共に吐き出すと、奏臥は指先に棘でも刺さったかのような表情をした。枝をかき分けながら獣道を進む。塒の岩屋が見えて来たところで、奏臥がふわりと頬を薙ぐ風のような問いを漏らした。

「君は何から逃げたのか」

「……生きることから。結局逃げられずに望んでもいないのに不老不死だ。お前にはまだ家族がある。己れが自由に見えるとしたら、どこでのたれ死んでも誰にも知られることも、気にかけてもらうこともできない類いの自由だ」

 それでいい。死すら望めなくなった生の果て、諦念の先に願ったのは一つ。

 誰のことも望まず、誰にも望まれず。誰にも知られることのない、野に咲く名もなき花のようにいずれ枯れて土に還ること。

「君がいなくなったら私が探す」

「今度は己れが迷子になるのか」

 あはは、と笑ってみせた。ほんの少し、涙が出そうだった。仕方ないな。お前は本当に迷子になるだろうから。おちおち枯れていられない。尋ねる気などなかったのに、唇には言の葉が乗っていた。

「探してくれるか、奏臥」

「うん」

 阿呆め。兄上を大切にしてやれ。いくつか浮かんだ言葉の代わりに莉蝶を飛ばす。柔らかな瞳で蝶を追う奏臥の手を藤蔓で引く。沈みゆく陽の色を映してゆろゆろと揺れる虹彩はまるで柔らかな新芽のように匂い立つ。

 岩屋までの短い時間、他人が見ればまるで既知の二人と思っただろう。岩屋の入口へ茨で蓋をして奏臥へ隠し室で待つように促す。

「見ていてはいけないか」

「いいけど……何もおもしろいことはないぞ」

「君を見ているのは楽しい」

「……お前、そういうのを許嫁に言ってやればよかったんだ」

「何故?」

「お前の元許嫁に同情するよ」

 解せない、という顔で立ち尽くす奏臥の後ろへ真拆葛まさきのかずらで椅子を編んでやる。奏臥の言を総合すると、彼の元許嫁は面白くも、美しくもなかったからお世辞すら言えなかったということになる。自覚がないのだろうか。

「座ってろ」

「うん」

 土鼠に穴を掘らせて竈を作る。粟を葉で包み蒸しながら竈の火で魚を焼く。時々風呂として使っている溶岩石を土鼠に地中から持って来させ、土台の石の上へ蔓で置く。天井から砥草で川から水を引き、溶岩石の中へ水を貯める。土台の下へ竈から火を移し土鼠に火の番をさせる。

「あれは?」

 奏臥が珍しいものを見る子供の瞳で天井から垂れた砥草とくさを指さす。

「砥草だ。茎の中身が空洞だから、川から水を引いている」

「それは?」

「土鼠か? これもようするに式神だ」

「触れてもいいか?」

「いいぞ。仕事してるのは邪魔するなよ。お前が愛でる用に一つ出してやる」

「うん」

 膝に上った土鼠を、奏臥は優しく抱え上げて顔を近づける。

「名前は?」

「いやだから土鼠だって」

「この子だけの名前だ」

「ないよ。桜が全部桜なのと一緒だ」

「私が名前をつけても?」

「好きにしろ」

「そうだな……緑藍りょくあいはどうだ」

「……お前、名付けの才能もないな」

「……」

 しょんぼりと垂れ下がった耳が奏臥の頭に見えるようだ。ダメだ、奏臥が何をしてもおかしい。笑いを堪えて風呂を焚いていた土鼠に問いかける。

「沸いたか?」

 きゅい、と鳴いて肯定した土鼠へ蔦から垂らした褒美の蜂蜜をやって労う。奏臥を手招いて溶岩石の中を指す。

「湯加減を見ろ。己れが手を入れると毒水になるからな」

 ちゃぷ、と湯の中へ手を入れ、奏臥が頷く。

「丁度よい」

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