第4話

 夏の盆地は暑い。草木は勢いの増す季節だが、禄花は暑いのは苦手だ。都は盆地にあるから、夏の間はできるだけ都へ下りない。冬は雪が降るから里には下りない。まぁ、何かと理由をつけては都にも人里にも近づかないのが禄花の常なのだが。

「ん~っ」

 その日も夜遅くまで起きていて、朝遅くに寝床から這い出したところだった。午の刻か未の刻か。その辺りだろう。

 落ち葉を踏む音。地面に生えた苔や草を踏む感覚。木々と草花が禄花へと何者かが塒の近くを徘徊していると伝えて来る。

「お? 誰だ? 珍しいなこんな山奥まで。木地師きじしか? 猟師か? どちらにしても迷い込んだな」

 どうしようか。一時も放っておけばどこかへ行くだろう。塒が見つかることはまずない。思案していると、妙なことに気づいた。

 この足音の持ち主、一定の速度で同じ所を周回している。ふと頭に浮かんだ無表情。

 まさか。しかしそうならこれほどおもしろいことはない。

「ぶふっ。まぁ、確かめに行ってみるか」

 寝床から離れて小さな室の中を歩く。肌小袖の上に玄色の直垂を着込み、小袴を穿いて壁際へ歩み寄る。途端に岩壁は何十本と垂れた蔓へと変じた。まるで意思があるかのように蔓は左右へ分かれる。外へ出るとそこはまだ、岩屋の中だ。

「おっと脛巾はばきを忘れた……まぁいいか。草鞋……は履くか。よっと」

 岩屋へ打ち捨てられた草鞋を行儀悪く足で引っ掛け駆け出す。岩屋を出る瞬間、中の暗さと表の明るさの違いに目が眩む。岩屋の横にある、樹齢何百年にもなる杉の木へ手をついた。禄花の毒に慣れたのか。他の植物と違い、この杉だけは幾度触れても腐れ落ちることはない。

「――時間の感覚がなくていかんな、杉の君よ」

 しばし瞼を閉じ、それから空を仰ぐ。陽は中天より傾きかけている。未の刻くらいだろうか。それから頑なに一定速度で山中を歩き回る足音の主の元へ近づいて行く。

「ふふっ」

「!」

 見つけたのは、翡翠色の狩衣、きっちり結い上げられた微塵も乱れぬろう色の髪に烏帽子、つまらなそうな無表情の目元がきりりと涼やかな色男。

「よぉ、また会ったな睡蓮の君」

「あなたは……、禄花殿」

「また弟子とはぐれたな?」

「……っ、私がはぐれたのではなく、」

「はいはい分かった分かった。弟子が『お前と』はぐれたんだよな」

「いかにも」

 しかしこの暑い中、あれだけの速度で付近をぐるぐる回っていたというのに汗一つかいていない。感心しながらこの暑い中でも清澄な美貌の袍の胸を叩く。

「ついて来い。麓まで送ってやる。途中で弟子にも出くわすだろう」

「……かたじけない」

「それやめろって。傍から見たらどう考えても己れの方が年下だって言ったろ。それなのにお前が敬語を使っていたら変に思われる。己れは目立ちたくないんだ」

「何故?」

「……己れは人嫌いなのさ」

「……分かりました」

「言った端から敬語か」

「……わか……った」

 目上の者に対する礼儀を徹底的に叩き込まれているのだろう。眉間に皺を寄せる奏臥がおかしくて仕方ない。

「大体お前のようにどこでも迷子になる奴が、何故山へなど分け入った。妖でも退治に来たのか?」

「……鷹藤山たかふじやまの麓を塒にしている小鬼が街道を荒らしていると陰陽寮に相談があったのだ」

「麓を目指して何故、山奥に分け入るんだよ」

 呆れた、と笑うと皓皓とした美貌は微かに唇を尖らせた。

「……先触山さきぶれやまなら迷わない」

「……先触山? 何故」

「山の裾野に芍薬が咲く」

「……それを目印にしているのか? 芍薬の咲かぬ夏以外の時期はどうする?」

「……」

 むぅ、と唇が尖る。つまり夏以外は迷子になるのだろう。

「あははっ」

 何かからかう口実はないかと奏臥の傍へ立つ。不意に手を上げた奏臥から大きく飛び退いて体勢を崩す。支えようと伸ばした奏臥の手を、慌てて袖で払う。

「触れるな!」

 それでも腕を掴んで腰を引き寄せられ、顔を覆う。非協力的な禄花の行動に、奏臥まで均衡を崩して倒れる。しかし咄嗟にしっかりと禄花を抱え、己が下敷きになるように倒れたのだから大したものだ。

「この、痴れ者め! 己れの肌に触れたら毒に中るんだぞ!」

 間抜けな表情で禄花を仰ぐ奏臥へ悪態を吐く。禄花が人と関わらぬ理由。それは人嫌いだけではない。

「……だから君は、初めて会った時から直接触れないように気遣っていたのか」

「……っ」

 見透かされていたのか。言葉に詰まってもう一つ、悪態を吐く。

「だからなんだ。お前には関係ない」

 わざと突き放す言い方をした禄花へ、奏臥は倒れたまま目を伏せた。長い睫毛が影を作る。

「……うん……」

 いや、うんって何だ。禄花を抱きしめたまま、奏臥は黙りこむ。

「いや続きはないのかよ!」

「うん?」

「お前には関係ない、うん、で、続きは?」

「……ない」

「ないのか……」

「うん」

「なんで手を上げた」

「これ……」

 手を伸ばし、束ねていない禄花の髪に絡まった桔梗を差し出す。昨夜、咳止めの薬を作る時に出したものだろう。寝転がって髪に絡まっていたのか。

「この季節には咲かないだろう? いつも君は、どこからか花を出す。そのせいか君からはいつも花の香りがすると思って」

「……とりあえず離せ。起き上がりたい。絶対己れの肌に触れるなよ。爛れて腐り落ちるぞ」

「分かった」

 禄花が先に立ち上がり、直垂の袖越しに手を伸ばす。禄花の袖に掴まった奏臥は何故か微かに唇へ笑みを乗せている。奏臥は立ち上がって足を着いた途端に柳眉を顰めた。

「……っ」

「どうした」

「……足を捻った」

 短く答えて歩き出そうとする。制止して、倒木へと座らせる。

「……くつを脱げ」

「どうするんだ?」

「己れが直接触れなければいいんだ。少しくすぐったいが我慢しろ」

 ふぅ、と一つ息を吐く。直接触れないよう、慎重に気を払って指先を奏臥の足へと近づける。さわ、と細い蔓を伸ばして奏臥の足へ触れた。

「ん……骨は折れてない……筋を痛めただけだ。だが今日はもう山を下りるのは無理だろう。今日連れて来たのはいつかの晩の二人か?」

「ああ」

「では伝言を送ろう。きっと心配している」

「伝言?」

「ああ。……莉蝶りちょう

 手のひらへ息を吹きかける。手のひらに牡丹が咲く。牡丹が開き花弁が崩れると禄花の手のひらから零れ落ちた花弁は小さな蝶になった。花弁から生まれた蝶が何匹も飛び立つ。ひらひらと揺れながら、確かに麓を目指して飛んで行く。しばらく見送り、少し紅潮した頬で奏臥は微笑んだ。

「とても綺麗だ」

 そう笑みを向けた奏臥は、まるで朝日を浴びて開いたばかりの睡蓮のように花開く。人とはこんな風に笑うものなのか。誰かに笑いかけてもらった記憶のない禄花には、それは眩しすぎた。

「……阿呆め。喜んでる場合じゃないぞ」

 視線を逸らして開いた手のひらに、蝶が一匹止まっている。呼吸に合わせて翅を開閉する蝶は鱗粉のように白い光の粒を振りまいていた。

「お前の弟子たちを見つけたら、この蝶が金色に光る。そうしたら話しかけろ。怪我をしたので明日、山を下りる。案内人がいるから安心しろ、と」

「うん」

 頷きながらも奏臥の目は蝶へ釘付けだ。子供が無邪気に生き物を観察する様に似ている。少々いい気分で送った莉蝶へ精神を集中する。木々を抜け、せせらぎを渡り、麓へほど近い山の中腹。動物とは違う足音二つ。まだ軽いそれは子供か、女だろう。莉蝶を足音の人物たちの近くへ誘う。ひらひらと周囲を巡って気を引く。

 莉蝶と視界を共有して、宙を見ている禄花は気付かなかった。奏臥がその横顔を見つめていることに。

「うん。完全に気づいたな。ほら。話しかけろ」

 奏臥へ手のひらを差し出す。思いの外、顔が近くにあり思わず仰け反った。

「気をつけろ。爛れて腐り落ちると言っただろう」

「うん」

 頷いたのに距離は詰めたままの奏臥から、多少身を引いて座り直す。

「いいから、弟子へ声をかけろ」

「……紀之片きのひら志嬰しえい。聞こえるか」

『師匠? 師匠ですか?!』

「うん」

『奏臥様。どこに居られるのです、そろそろ帰りませんと。じき日暮れです』

「君たちを探していて足を捻った。今日は山を下りられそうにない。案内してくださる方がいるので明日、山を下りる。君たちは心配せずに帰りなさい」

 無表情はしれっと言い放ったが、迷子になったのは奏臥の方である。困った師だ。だが弟子は遠慮がちに心配を口にした。

『大丈夫なのでしょうか。その方はその……信頼できる方でしょうか』

「できる。顔見知りだ」

『分かりました。或誼わくぎ様にもそのようにお伝えします』

「うん」

「迷子はちゃんと送り届けてやるから安心しな。心配なら土御門大路まで迎えに出てくれ。巳の刻頃にはそこまで送る」

『奏臥様を、よろしくお願い致します』

 きっちりと礼を言い、二人の弟子は頭を垂れた。さすが以斉家の弟子。何より迷子になる困った師でも尊敬も心配もしているのだろう。そしてその師である奏臥が信頼できると言うのならば、信頼すると表して見せる。なかなかにできた弟子だ。妙に感心しながら莉蝶を三周ほど二人の周りを巡らせ、手のひらを空で切る。

「もう消してしまったのか」

 あからさまに残念そうな音吐が耳の横で聞こえた。今度は顔の近さに驚かず、視線で非難するが奏臥は意に介さぬようだ。諦めて木の幹へ背を持たれる。

「ああ。なんだ、莉蝶が気に入ったのか」

「うん」

 手首を撓らせ、空中で手を振る。赤、白、桃、紫。いくつもの花から次々と現れる花弁の蝶に奏臥は目を眇めている。不意に瞳がぶつかった。

「……っ、ほら、そろそろ己れの塒へ行くぞ。足を手当てせねばな」

「うん」

 立ち上がった奏臥の胸へ軽く触れる。

「歩くな。運んでやる。……木鹿」

 途端に木の若芽が土から伸び、絡まって鹿の姿へと変じる。奏臥は静かに木鹿の頭を撫でた。

「早く乗れ」

「うん……失礼する」

 木鹿に断って跨り、優しい表情で首筋を撫でている奏臥の横顔を盗み見る。動物が好きなのだろうか。以斉の弟君は当代一の式神使いと聞いたが、禄花の式神が物珍しいのだろうか。

「お前も式神を持っているだろう。これは媒体が違うだけで何というか……厳密には違うがまぁ原理は同じようなものだ」

「そうなのか? 私の式神は調伏した鬼や妖ばかりだ……君は、すごいな」

 木鹿に並んで奏臥を仰ぐ。いとけなく緩めた唇から白い歯が覗く。少しだけ、禄花の顔へ過剰に反応する人々の気持ちが分かる気がした。何となく疚しくて、黙っていることができなくなった。

「媒体は植物だ。植物は種類が違えど全て根で繋がっていて、意識を共有している。だから植物がある場所ならどこでも呼び出せるんだ」

「全て?」

「ああ。個別や種類ごとの意識範囲ももちろんある。だが、大元で全ての意識が並列化されているんだ。遠く離れた南から、北の大地まで。だから己れは、植物になりたい」

「植物に?」

「そう。そうしたらもう、独りじゃなくなる」

 覚えず零してしまった、誰にも言ったことのない本心に禄花は動揺した。こんなこと、言うつもりじゃなかった。

「今のは……忘れろ」

「……うん」

 顔を背けたが奏臥の視線を感じる。唇を歪めて頬を膨らませて木鹿の上で揺れる清廉な無表情を睨みつけた。

「見てんじゃねぇよ」

「うん」

 うんと言いながら奏臥は相変わらず茫洋と禄花を目路に入れている。会話が成立していない。黙っていると真面目で思慮深そうに見えるが、実は無表情なだけで何も考えていないのかも知れない。そういえば頑なに自分ではなく弟子が迷子なのだと言い張っていた。思い返してつい、可笑しくなって笑ってしまう。

「ふふっ」

「君は」

「うん?」

「笑うと花が咲くようだ」

「――っ!」

 爪先から頭の天辺へ向けて、肘をどこかに打ち付けた時のような感覚が這い上がって耳が熱くなった。

「君」

「なんだよ!」

「真っ赤だ」

「うるせぇ!」

 己の耳たぶを引っ張る。熱い。心拍数が上がっているのが分かる。顔に血液が集まる。なんだこれは。何か悪い病気だろうか。唇を噛んで涼しい顔の奏臥を目玉だけで射抜く。

「ふふ」

 嬉しそうに微笑み返される。この男はおかしいのではないだろうか。睨まれて喜ぶとは。本当に変わった奴だ。そう考えるといちいちこの男に振り回されるのはバカらしく思えた。

「着いた。ゆっくり下りろ。木鹿」

 木鹿は滑らかに形を変え、奏臥を支えつつ地面へ吸い込まれるように消えて行く。立ち上がった奏臥は不思議そうに木鹿が消えた地面を眺めている。

「行くぞ」

 藤の蔓を出し、掴まれと促す。膝から下を蔓で包み、足首を固定して奏臥の歩みを補助させる。二、三歩奏臥の歩みを見て大丈夫そうだと得心し、先導して岩屋へ辿り着いた。奏臥は岩屋の横に立つ杉を見上げ、感嘆の声を漏らした。

「立派な杉だ」

「ああ。ここいらの主の杉の君だ。粗相のないようにな」

 からかって大真面目に告げると、奏臥は深々と頭を下げた。

「お初にお目にかかります、杉の君。私は以斉奏臥。よろしくお願い致します」

「……お前……、物売りに要らないものまで売りつけられて兄上に叱られたことはないか」

「? ない」

「……そうか」

 確かにこの杉は立派なもので、戯れに禄花も杉の君などと呼んではいるがただの戯言だ。世間知らずの貴族の次男とは恐ろしいものだな。転び出そうになる言葉を飲み込み岩屋へ入る。突き当りの壁を一撫でし、垂れ下がった蔓の扉をくぐる。

「入れ。お前には快適とは言い難いだろうが我慢しろ」

 畳の上、しとねに肌蹴たままの衵があるのに気づいて几帳を引き摺り隠す。普段書き物などしている畳から文机と円座を退けて禄花はそこで寝ればいいし、後から褥は整えればいい。

「とにかく座れ……いやちょっと待て。しとねは己れの毒が染み付いているから新しいものに変えねばならぬか。褥もだな。それまではそこに座っていろ」

 藤蔓で編んだ椅子を作り奏臥を座らせる。岩室の中の小さな部屋を奏臥は頭を巡らせて見ている。

「生きている植物と違って朽ちた植物は己れの毒でもすぐに崩れたり腐れたりせぬが、やはり長い時間は持たないのでな。気をつけろ。色の変わった部分は己れがよく触れている場所だ。そこはできるだけ触れぬように。毒に中る」

 茵と褥の畳を新しいものに変え、古いものを岩屋の隅へ置いた。隠し室へ戻った禄花へ奏臥が問う。

「全て君が作ったのか」

「そりゃそうさ。百年生きてるんだ。そんなに時間があればこれくらいはできるようになる」

「私は百年あってもできるようになれそうにない」

「お前、意外と不器用そうだもんなぁ……」

 ついしみじみと漏らしてしまった。奏臥は特に気にした様子もなく小さな頭をこくりと下げた。

「うん」

「不器用なのか」

「うん」

「……」

 そんなに素直に頷かれては返答に困る。なんだかこの体ばかり大きな男が子犬のように見えて来た。藤蔓で補助をしながら円座の上に座らせて、柔らかい蔦でもう一度患部と思しき部分を診る。塗り薬を塗って一晩も経てば腫れは引くだろう。

「ちょっと待ってろ。えーっと、黄柏おうばく山梔子さんしし柴胡さいこ兎菊うさぎぎくもあったっけ……」

 薬棚を掻き回して目当ての材料を出す。乳鉢へ材料を放り込み、すり潰す。

「兎菊……ないな。出すか」

 手のひらを上へ向けて手首を撓らせる。何度か空中で手を振り、空気を掴んで握り締める。開いた手のひらに零れるほど握られた花へ奏臥の視線が注がれている。

「……珍しいか」

「うん」

「……植物になりたいと思ってな。初めはひもじくて木の皮だの草だの食べては死ぬほどの目に遭っての繰り返しだったんだが、そのうち何を食べても平気になってな。色々試しているうちに気づいたら体内で様々な草花を生成できるようになっていた。だから己れはもう、人ではない」

「花だな」

「うん?」

「君は花だ。美しい」

「この痴れ者め! その年なら許嫁がいるだろう! そういうのはその姫に言ってやれ!」

 乳棒に力を込めて乳鉢をひたすら掻き回す。湿布するには薬の他に媒体が必要だ。小麦の粉を練って使うか。再び薬棚へ向き直り大きめの深い丸底の鉢を出す。奏臥は禄花のすることをじっと見つめている。

「私は……」

「ん?」

「話すことが得意ではないので、許嫁には呆れられてしまった」

「……まぁ、お前の家柄とその容姿なら他からも引く手あまただろうよ」

「兄上に申し訳なくて全て断った」

「どうして」

「……選べない。相手の不興を買い続けては、せっかく苦労して許嫁を探してくださった兄上に申し訳ない」

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