第3話 縁離

「君」

「ん?」

 肩を扇で叩かれて低く通る心地よい声を仰ぐ。初夏の中天に近い陽の光を背にしてなお、深い山奥で薄氷を抱いた玲瓏な湖面に似た美貌が続ける。

「こんなところで座り込んでいては危ない」

「危なくないさ。ちょっと天文博士に追い出されて尻餅ついただけ」

「……一体何をしたんだ」

「何も? うーんと……暦道れきどうについて、いくつかの質問?」

 清艶な美貌は一つため息を吐き出した。それはそうだろう。天文博士にとって歴道は秘術中の秘術。ふらりと現れた怪しい輩に髪の毛一筋ほども教えるわけがない。

 しかしため息を吐きはしたものの、青年の美貌はまさに氷でできた彫刻のように微塵も動かない。澄んだ玉に似た若苗色の瞳は景色を映しているようで何も見てなどいないことが分かる。垂纓冠すいえいのかんむりから覗くきっちりと結い上げられた髪は仄かに青みと艶を帯びた微塵も乱れぬ色。さほど興味もなさそうに懐から手拭いを出して禄花へ差し出す。

「君、泥だらけだ。これで拭きなさい」

 絹の手拭い。翡翠色の袍に若いというのに年寄りくさい白藍の指貫さしぬき。それだけで彼の大体の身分は窺い知れた。

「あ? いいよ気にしない。ありがとな。従七位上か、陰陽師どの。こんなところで穢れを拾っては出仕できぬぞ。お構い召さるな」

 都とはいえ大路には人も獣も隅で朽ちて打ち捨てられ、陰の気を放っている。貴族は何より穢れを拾うことを嫌う。陰陽師とはその穢れを避け、祓う役目なのだからなおさらだ。なのに供も連れず、牛車にも乗らず一人歩きとは。

 おまけに袍の色で冠位を当てただけなのに、玉を磨いたように美しいのにどこか冷ややかなかんばせの彼は動かぬ表情で僅かに柳眉を顰め、何故か浮かない顔をした。陰陽師は確かに下級貴族の仕事だが六人しかなれない。しかも幼い頃から陰陽道を納めなければならず、才能と家柄と努力その全てが揃わなければならない。だから実質、曾乃生そのう家、夏氏弥げしや家、嵯禰さね家、以斉いせい家いずれかの家の者しかその役職に就かない。陰陽師を束ねる陰陽頭の任には今、以斉家の当主が就いている。結界術を得意とし、知識も豊富で天文道にも精通しており、宿曜にも詳しいと聞く。帝が大層気に入っており、確か冠位も従六位だか五位だかに格上げされていたはず。袍に入った家紋を盗み見る。

 蓮の花を模した刺繍。ということは蓮が家紋の以斉家の者だろう。以斉の当主には陰陽博士の職に就く弟がいたはずだ。行い正しき麗しの蓮の君。その弟の。

「またな、睡蓮の君」

 手を振ると彼は伏せていた顔を上げ、まるで初めて禄花の顔を見たかのような表情をした。無表情だった面に驚きと戸惑いが浮かぶ。妙な奴だ。その程度の印象しか抱かず数日後には彼のことなど忘れていた。

 二度目に会ったのは土御門大路の外れ。荒れ野に鬼が出ると聞いて出かけた時だ。月の明るい晩だった。

 処方する薬の材料集めの為である。禄花はといえばこの時には既に百年生きた仙人に近い存在だった。食事は嗜む程度。水分と陽の光のみで生きて行ける。それでも何かと金は入り用だ。この頃、禄花には上客がいた。もう名前は忘れたが東宮博士の娘である姫君だ。頭痛持ちで何やら血の巡りが悪いという。見えすいた禄花に会うための口実の仮病。だとしても、禄花の顔が気に入ったらしいこの姫を納得させるだけの出来が薬には必要だ。桃の小枝で鬼の拳を止める。

 ひらり。ひら、ひら。

 右に左にと蝶のように舞い、鬼と戯れる。ぐうう、と唸った息が熱い。そろそろ十分に血が廻った頃だろう。桃の枝で鬼の眉間を突く。そのまま鬼の眉間を中心に太い枝が伸び、幹が太り、太った幹から大地へと根が広がり、鬼を絡め取る。季節外れの桃が満開となった。

「よしよし。そんなに怯えるな。殺しはせぬ。殺すと薬効が薄れるでな」

 もがく鬼に近づき、手のひらから出した蔦で心臓を貫く。心臓に生えた赤い苔を慎重に取り去って鬼へ心臓を戻した。

「ではな。まぁ半年は悪さができぬが死なぬから、どうということはあるまい」

 ぱん、と一つ手を叩くと鬼を拘束していた桃の木は成長過程を逆戻りして地面へ消える。禄花の言葉通り、力の入らぬ様子で鬼は地面へ倒れ伏した。

「君! 大丈夫か!」

「? よぉ。また会ったな睡蓮の君」

 慌てた様子で駆け寄る奏臥に軽く手を上げて見せる。奏臥は禄花の足元に転がった鬼に気づくと探るように目を瞠った。

「……君が倒したのか」

「ああ。そうか、これはお前の獲物だったのか。それは済まないことをした。殺してはおらぬから気をつけよ。どうしても鬼心苔が必要でな」

「鬼心……苔?」

「ああ。たっぷりと鬼の血を吸って育つから、血の巡りを良くする効果がある。ま、どこに生えていたか説明すると薬を飲みたがらないから、客には秘密だが」

 信じられない、という表情で足蹴にされた鬼と禄花を見比べている奏臥の肩を軽く叩く。

「そうだ、己れは苔の出所を知られたくない。お前は鬼を倒したことを報告しなくちゃいけない。ここは一つ、この鬼はお前が倒したということにしておかないか」

 へらり、と笑って奏臥の顔を覗き込むと難しい顔で眉を寄せている。禄花の提案はお気に召さないらしい。

「……君は一体、何者なんだ」

「己れか? 己れは苑離禄花えんりろくか。ただの長生きのろくでなしだ」

「雪月花仙……!」

「その呼び方は好きじゃない」

 奏臥の背後を窺い見る。どうやら一人らしい。一応陰陽の名家の子弟だというのに不用心極まりない。続けて奏臥の服装と装備を見る。いつかに見た時より幾分動きやすそうな狩衣に烏帽子、指貫袴。しかし狩衣は翡翠色、袴は白藍で先日見かけた時と色合いが同じだ。それにしても腰には儀礼用でも飾剣でもなく、武士と同じ拵えの毛抜形太刀けぬきがたたちを差している。陰陽師は普通、儀礼刀以外に刀など帯びない。陰陽師の仕事は大体が占術だ。内裏での諸々の行事の相応しい日取りや場所を占う。穢れが強まる場所を占い、その場所を武人に警備するように申しつける。自ら鬼の調伏に出向くなどということはしない。そもそもが陰陽師というのは符術を使って「鬼や邪を寄せ付けない」ようにできただけでも異例中の異例、大変優れた能力であり稀有な才能であって、刀を持って戦うなど以ての外だ。しかしこの男、見るからに己で戦う気しかなさそうだ。なかなかに興味深い。嗅ぎ覚えのある匂いを感じてすん、と鼻を鳴らす。

「お前……そうか、ここ三年ほど都の周囲に居て主要な街道を守っている式神はお前のものか」

「……!」

 若苗わかなえ色の瞳には目まぐるしく様々な思考が駆け巡っている。なるほど長生きもするものだと指で顎を撫でる。おもしろい人間も居るものだ。普段なら関わり合いにはならぬが、興味が湧いた。

「一人か? 弟子は? 失礼だが睡蓮の君は攻撃系の呪符が得意で結界術は得意ではないと聞く。だからいつもは兄の蓮の君か、結界術のできる弟子を連れて妖退治に出かけると」

「……良くご存知ですね、苑離公」

「苑離公はよせ。己れは貴族でも何でもない、身元不明の怪しい輩だぞ?」

「ではあなたも睡蓮の君はおやめください。私は以斉奏臥いせいそうが

「禄花でいい、以斉殿」

「……それでは兄と区別がつきません」

「お前とは名前で呼び合うほどの仲ではないのでな、陰陽博士殿。で、弟子は?」

 不満げに唇を引き結ぶと、奏臥はつま先へ視線を落とし、ぽつりと呟く。

「……弟子とははぐれました。だからあなたを、以斉の弟子かと」

「……」

 拗ねているように唇を尖らせ、僅かに頬を膨らませている。一瞬ののち、禄花は腹の底から笑い声を上げた。

「あっはっはっは! 師匠が迷子とは! それであんなに慌てて駆け寄って来たのか! はは……ふぅ、あー、おかしい」

「私は迷子ではありません。弟子が迷子なのです」

「ぶふっ! くっくっく……まぁそういうことにしておいてやろうか」

 陰陽師の常とは違う、異能の持ち主。禄花の素性を知ってきちんと距離を図れる奏臥に、多少の興味が湧いたのは確かだ。禄花は人が嫌いだ。嫌いだが、奏臥のことはどこか憎めない。気まぐれに申し出た。

「それでは弟子のところまで案内しよう、奏臥殿」

 手のひらを上へ向ける。手のひらに咲いた月下美人が月明かりにほんのりと光る。花を提灯代わりに掲げて先を行く。奏臥は「ほう」と一つため息のような声を漏らした。

「ついでにその鬼もここへ」

 月下美人を出したのと同じ要領で手のひらを上へ向ける。細い蔦が手のひらから無数に現れ球体を作る。蔦の玉をぽん、と鬼へ放ると鬼の姿は蔦の玉へと吸い込まれた。くい、と指で招くと蔦の玉は禄花の手のひらへ戻る。

「ほれ。『開け』と命じれば開いて中の鬼が出て来る。鬼を全て退治してしまってはおらぬのだろう?」

 弱った鬼を使役鬼にする秘術が以斉の家にはあると聞く。奏臥の手へ蔦の玉を押しつけて先導する。

「弟子とはどこではぐれたのか?」

「……土御門大路つちみかどおおじを出てすぐに」

「呆れた、はぐれたのに真っ直ぐ鬼の出る方へ来たのか」

 そもそも迷子のくせに、鬼の出る方へは真っ直ぐ進んで来られる方がおかしい。

「ですので、私がはぐれたのではなく」

「はいはい、弟子がはぐれたんだな? ふふっ……くふっ……」

 笑いを堪えきれない禄花に気分を害する様子もなく、奏臥は何やら落ち着かない素振りで視線を揺らしている。

「……あの」

「なんだ」

「美しいですね」

「花提灯がか?」

「……ええ」

 迷いなく歩みを進める禄花に、奏臥は花提灯から目を離さず問う。

「何故、こちらに?」

「鬼でも動物でもない足音がしている。弟子は二人か?」

「……はい」

「なら間違いないだろう」

「禄花仙人は如何なる技にてそれを検知されておられるのか」

「大地の気の流れや地面に生えた草から教えてもらっているのさ。……いい加減敬語はやめろ。外見だけで言えばお前より己れの方が年下に見える。弟子も変な顔をするだろう。己れはあまり、人に自分の名前を知られるのが好きじゃない」

 奏臥の袖を引き、布越しに腕を掴んで手のひらを上へ向けさせる。その手のひらへ月下美人を落として離れる。

「さ、もう声の届くところまで来た。弟子の名を呼んでやるといい」

「禄花殿」

「なんだ?」

「あまりお離れ召さるな」

「……まさかお前、この距離ですら迷子になるのか」

「……っ、違います。私がはぐれるのではなく、禄花殿がはぐれてしまう」

「……うわっはっはっはっは! あっはっは! くくっ……お前……ほんとにおもしろい奴だな……」

 笑い声に警戒しつつ近づいて来た影が、誰何の問いを投げつける。

「そこにいるのは荒野の鬼か!」

「よしなさい、紀之片きのひら

「?! 師匠?! 師匠ですか?」

「そうだ」

 小柄な影が二つ、駆け寄って来る。暗くてよく見えないが襲の色目は花菖蒲だろうか。破魔のための弓を持つ、狩衣姿の少年。もう一方は奏臥と同じく実践刀を腰に携えている。こちらも戦う気満々の装備だ。ということは以斉家の弟子だろう。

「よかった、また朝まで奏臥様を探す羽目になるかと……」

「……志嬰しえい。朝まで迷子だったのは君たちの方だ」

「んっ……、はい。しかし今日は早く見つかってよかったです、奏臥様」

「ぶふっ! なんだお前、いつも迷子になっては弟子に朝まで探されてるのか! あっはっはっは!」

 くの字に体を曲げて腹を抱える。奏臥は憮然とした表情で呟いた。

「ですので、はぐれたのは私ではなく」

「ひっ……ははっ……、はぐれたのは弟子で、お前じゃないんだよな? ふふっ、分かった分かった。弟子と出会えたんだ。もうはぐれるなよ。ではな奏臥殿」

 言うなり山へ向かって駆け出す。月明りに紛れて待たせていた木鹿もくろくに跨りねぐらを目指す。風に乗って奏臥と弟子の会話が聞こえた。

「師匠、あの人は?」

「先ほど会った、修行の旅をしておられる道士様だ」

 律儀に禄花の言葉の通り、弟子には名前を伏せたようだ。

「ふむ。増々おもしろいな睡蓮の君。奏臥か。さて、塒へ帰ろう木鹿」

 木鹿の首筋を撫でる。途端に木の根でできた鹿は目にも止まらぬ速さで駆け出す。地を蹴り、風に乗り、宙を舞う。

 だから禄花は知らなかった。

「奏臥様、それは? 綺麗ですね。月下美人ですか。不思議だ、提灯のように光って見える」

「ああ。綺麗だろう」

 奏臥が、仄かに微笑んだことを。それはとても珍しいことで、弟子たちですら驚くことも忘れて見惚れたことを。

 二人の運命が、重なり巡り出したことを。

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