第2話

禄花ろくか

 繰り返し囁く声に気づいたのはどれくらい経ってからだろう。

「禄花」

 おこなことだな、奏臥そうが。もうそこにれは居ないのに。

 毎日毎日飽きずに花を一輪。それからだんだんと朽ちて行く己れの手へ指の腹で静かに触れる。涙が一粒二粒と落ち、それから小さな謝罪が降る。

「済まない、禄花」

 霜月の早朝、薄氷を抱く湖面のように静謐せいひつな美貌が棺へ身を乗り出す。この布をめくって頭蓋のあるはずの場所を覗き込めばお前はたちまち怒り出すだろう。だがお前はそうしない。この十年余り絶対に頭蓋の布へは触れなかった。だからこそ、己れはこうしてお前に知られず抜け出すことができる。

「ご苦労さま、土鼠つちねずみ

 森の奥、一際大きな楢の木の根元。洞の中に隠した直垂を着込んで、大きく開いた穴の中へ声をかける。木の根でできた鼠は鼻先を撫でてやると満足気に土中へ消えた。直垂ひたたれや髪に着いた土を払って立ち上がる。

「さて――里で買い物でもするか」

 顔に貼り付く髪を手櫛で撫でつけ麓の方へと向き直る。

「おっとその前に偽物の屍とも今日でおさらばだ」

 左手首から伸びた細い蔓を手で引き千切る。これで一日くらいは誤魔化せるだろう。

「さすがに粉々に砕けた頭蓋をまるまる再生するには時間がかかったな。さて、あれからどれくらい経ったのか見当もつかない」

 木々や花々に聞いても彼らは人の時間を知らない。あれから大分経つということしか分からない。恨みも復讐も無意味だ。五十年も経てば人は死ぬ。死んだ人間から恨まれることはない。だから禄花は誰も恨まない。

「おっとっと」

 久しぶりに歩いたから足元がふらつく。ゆっくり行こう。時間はたっぷりある。木々や動物たちに話しかけながら山を下りる。大きな町を避け、小さな村を目指す。ようやく麓の村に着いた頃には陽は中天に差し掛かっていた。

 裸足の童が振り返る。小袖に腰巻の娘が頬を染めて顔を伏せる。甘葛煎あまづらせんを売っていた男は禄花の顔を見つめたまま口を開けている。

「ああそうだった……。顔、隠してくればよかった。いやいっそ修復の時に違う顔にすればよかった」

 前髪を撫でつけ、口元を手で覆うようにして通りの端を歩く。懇意にしていた海の向こうにある大陸の商人は禄花の美貌をこう称した。

 月下に咲く花の中で一番美しい。牡丹は百花の王なれど、万の花も花仙様の前に遠慮をして俯く。雪よりも白い肌。一目で魅了される淡く朧な望月が如く煌めく瞳。開いたばかりの花弁のように妖艶に色めく唇。雪月花の美しさが一人の人間に体現されている、と。

 曰く、ゆえにその名を雪月花仙せつげつかせんと呼ぶ――。

「お兄さん……お兄さん、だよな? こりゃあこんなに清らなかたちのお方は見たことがねぇ。特別お安くしておくよ。雪月花仙の六花散ろっかさんは要らんかね」

 男か女か迷った風な問いかけ。げん色の直垂姿で萎烏帽子なええぼしを被らず、腰まである髪を結い上げもせずに下しているせいだろう。薬売りは禄花の顔をうっとりと見つめたまま、薬を差し出した。

「いーや、遠慮するよ。そりゃただの滋養強壮剤だ」

 暴君のお陰で貧しかった頃ならいざ知らず。今の世には必要なさそうだ。処方を変えねばならないだろう。考えながら必要な物を買いそろえて最後に薬売りへ声をかける。

「ここには火長ひおさは来ないのかい」

「こんな小さな村にゃ、年貢の取りたての時くらいしか来ねぇなぁ」

「どこかで宣旨書せんじがきでも見られりゃよかったんだが」

「宣旨書ぃ? んなもんはお役人じゃなけりゃ見られないだろ」

「そりゃそうだ」

 宣旨書には正式な年号が書いてある。そこから禄花が死んでからどれほど経ったか分かるだろう。いくら都の外れといっても小さな村だ。正式な年号を知っているだろうか。あまり期待せずに問いかける。

「親父さん、今永明えいめい何年だ?」

「十四年さ。何だいお兄さん、山奥で修行でもしていたのかね」

 意外にあっさり答えた男に笑って見せる。商人の質も品物も先帝の時とは比べ物にならない。

「そう、そう。まるで雪月花仙みたいにな」

「ははははは」

 銅銭を一つ置いて適当な包みを指さす。貨幣は使えるようだ。受け取って歩きながら呟く。

「現帝が即位したのが己れが百十四歳の時でー、その三年後に死んだから永明十四年ってことはあれから十一年経ってるのか。なるほど政治が持ち直せば小さな村も豊かになる」

 野菜、魚、薬。子供向けの玩具や細工の施された櫛。しかし相変わらず道の端には死にたてからすっかり朽ち果てたものまで、遺体が転がっている。犬がまだ肉の付いた腕を加えて禄花の横を通り過ぎて行った。死は穢れだ。死体には穢れが長く留まる。穢れが長く留まれば、それは陰の気を放ち集める。陰の気が集まり、そこに精が生じれば即ち化生となる。

 一つため息を吐き出してかいもち売りの少女へ銅銭を差し出す。

「お姉さん。餅一つおくれ」

「いやぁ……、お兄さんきれいだからおまけしておくわ」

「あんがとよ」

 都と大きな港との間にあるとは言えこんな小さな村でかいもち、しとぎなどが売っているということはやはりそれなりに豊かなのだろう。米粉を捏ねて蒸したしとぎをいくつか買って一つ頬張る。

「二代前……いや三代前か。玄聖帝は江明帝の孫娘の中で一番聡明だと聞いたがお見事お見事。夫である先代の維嵩帝がぼんくらだと見切るなり出家させて自分が政治を摂るだけはある」

 山を越えた先が海の向こうの大陸との大事な交易の拠点である港町とはいえ、聡明な帝が正しく政を行えば、十数年で寂れた山里がここまで発展するのだ。感心しながら通りを歩く。

「ふん! いかに雪月花仙と言えど、我が叔父上より麗しいはずもない! そもそも我が叔父上は都の姫君が我が叔父上のあまりの美しさに並び立つのも烏滸がましいと遠慮をしたから未だ独身なのであって、叔父上に何か欠点があるわけではないのだ! 叔父上はお人柄も知性も品性も持ち合わせた素晴らしい人だ。我が叔父上の美しさに見合う女子などこの世に存在せぬ! 貴様が見たという美人も我が叔父上より美しいだなどと、実物を見てから言わぬと恥をかくことになるぞ」

 随分と威勢のよいものだ。それほどに美しい叔父とは一体誰だ。

 先ほどの薬売りへ、勢いよく啖呵を切る青年を盗み見る。

「そんなに言うならご覧になるとよろしいのですよ! ほら、あの方だ! お兄さん! お兄さん!」

 薬売りが声を上げて禄花へ手を伸ばす。咳払いをして青年をちらりと仰ぐ。翡翠の袍に年寄り臭い白藍しらあいの指貫。よく知る人物と面差しのよく似た、涼やかに切れ上がった瞳と目が合う。しまった。浮かべ損ねた愛想笑いを貼り付けたまま、後退る。

「ほらご覧なさい! 美しいでしょう? わたしは嘘など言っておりません」

 年の頃は十七くらいだろうか。初めて出会った頃の奏臥と同じ年齢だろう。五尺六寸ほどある禄花よりも上背がある。何より都の外れ、山裾の里にきっちりと狩衣を着込んだ人間がいること自体が珍しい。長身はもちろん、袍の上からも分かるその肉体の鍛え上げられた様は、武人もかくやというほどだ。禄花は文官の癖にこんな筋肉で全てを解決しそうな一族をよく知っている。わなわなと震えながら青年が禄花に近づいて来る。

「失礼いたします。初めてお会い致しますがどこかの若君とお見受けいたします」

 あの頃、彼には許嫁すら居なかった。禄花が死んでいる間に生まれた子供だというのならば、十歳以下のはずだ。青年が何者だったとしても、面倒を避けねばならぬ。

「いいえ、己れはあなたと言葉を交わすことも許されぬただの農民です」

「かように美しいお方がただの農民などとは。しかし見れば見るほどに婀娜を含んだ艶めく満開の花のように美しい……あなた様の前では百の花も遠慮して花開くことをためらうでしょう」

 何を言っているんだこの男は。

 じりじりと距離を開け、後方を確認し逃げ道を確保する。しかし青年は何やら興奮気味に迫って来る。その美貌の涼やかさとは裏腹の、袍に隠れているが確実に実戦により鍛え上げられたがっちりした肉体が如実に血を物語っている。

 いかん。あれはいかん。あれは関わってはならん家の者だ。しかし以斉の家にあんな者がいただろうか。当時、五つくらいの童。美しい叔父。そう言えばあれの兄にはあの頃五つくらいになる息子が居たはず。

 ということは、彼の叔父とは。

「ひょっとして、若君の叔父上殿とは芍薬がお好きだろうか」

「ええ。何故ご存知で? しかし見れば見るほど満開の芍薬のように艶やかで物憂げで、しかし凛と流麗で美しい。あの、失礼ですが貴方様は本当にどこかの若君では」

 あの兄の子がこう育つとは考えにくいが、しかし確かに面影はある。少し考え、手のひらから薄桃色の芍薬を出して青年へ差し出す。

「よろしければどうぞ」

「え?」

 ちょうど荷車と人夫が通りかかるのが青年の肩越しに見えた。そこへ紛れて離れようとする。それを遮るように禄花の目の前に蔦と花でできた大きな鳥が降り立った。鳥の巻き起こした風に顔を背けている間に、腕を掴まれた。

 阿呆め。こんな狭い里へ香鵬かほうで降り立つなど、目立ちたいと言っているようなものだ。

「禄……将離しょうり!」

「えっ、叔父上? 何故ここに? お二人はお知り合いなのですか?」

 青年を無視して玉を磨いて造り出したような凛冽な美貌は、どうしようもなく切なくて仕方ないという表情で吐き出す。

「将離」

 禄花をそう呼ぶのはこの世でただ一人。振り返り、あの頃と変わらずきっちりと結い上げられた微塵も乱れぬ蝋色の髪と、翡翠色の袍を眺める。

「……!」

 あの頃と違うのは、仕立てのいい狩衣の胸に似つかわしくない薄く汚れてあちこち擦り切れた懸守かけまもり。玄色のそれは、禄花が今着ている直垂と同じ布地でできている。大事にしているのだろう。丁寧に綻びを繕われたそれは、草臥れているがしっかりと補修されていた。少し膨れたその中身を、触れて確認したい気持ちを堪える。

「……離してくれるか睡蓮の君」

 冷たく突き放した言葉に奏臥は酷く傷ついた顔をした。二人の足元へ落ちた芍薬は綻び崩れて花弁が風に散る。

 あの日も芍薬が見事だった。少し暑い六月の終わり。天文博士に陰陽寮から追い出され、道に尻餅をついた禄花へ手を差し伸べた奏臥の後ろには赤い大きな芍薬が咲いていた。

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