君を待つ梢のように

吉川 箱

第1話 始

一、始


禄花ろくか――!」

 深く、深く。歩き慣れた山へと分け入る。この先は崖だと木々がさざめく。それで好都合なんだ、と答えて崖へとひた走る。

「禄花。それ以上は危ない。こちらへ」

 なんて顔だ。お前の方が今にも死にそうじゃないか。

 差し伸べられた手をできるだけ邪険に払い除け、さらに崖へと後退る。

「禄花」

「うるさい黙れ。お前なんかの言うことを誰が聞くか!」

 泣き出しそうに柳眉を歪めて伸ばした手に捕まる。おこな。れのことなど捨て置けばいいものを。翡翠色のほうへ抱き寄せられた。意外に大人しく捕まったことに驚いて緩んだ腕の中、身を翻して眉間を突く。

「汝大地と理を契るもの。理より外れ、新たな理へこの者を導け!」

「!」

 奏臥そうがの額には小さな種がぴたりと貼り付く。細い蔦が種を中心に広がり四肢を覆う。針より細い蔦の先は衣をくぐり肌の中へ消える。

 己れがお前にくれてやれるのは、不老不死という呪いくらいで。

 奏臥の胸ぐらを掴み顔を寄せ、うっそりと微笑む。

「呪われろ」

 忘れてほしい。忘れられたくない。このままで居られないのならば。

 驚き怯んだ奏臥の胸を押す。その勢いで崖の下へ自重へ任せて落ちて行く。怜悧な美貌が悲痛に歪む。

「禄花!」

 うるさい。お前より百も年上だと何度言えば分かるんだ。ああしかしそういえば、お前に呼び捨てにしろと言ったのは己れだったか。風を切る音よりも鋭い悲鳴が響き渡る。

「禄花! 禄花ああああ――!」

「奏臥! やめなさい! お前まで落ちる気か!」

「離してください兄上! 離せ!」

 大事な兄上になんて口の利き方だ。奏。奏臥。恨んでない。恨むほどの執着もない。お前となら。

 千年二人並んでただ佇む、大きな木になってもいいと。ほんの少しだけ思った。それだけだ。

 お前にその覚悟があるか――。

 否。お前に問う覚悟が己れにないだけだ。分かっている。だから逃げるのだ。

 重力に身を任せ、大地が伸ばしたかいなに抱かれる。

 ごしゃり、ともみしり、ともとれる音が背後から聞こえた。思ったより痛みはない。それよりも衝撃の方が強い。見えているのに見えない。聞こえているのに聞こえない。激痛よりもしんと冷たさが全身を覆う。

 ああ、これが死か。思考がまとまる前に、意識が暗転した。

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