第23話:勝てるかもしれない
慣れないことはするもんじゃないと反省はしたものの、その慣れないことをやった恩恵が早速出ていたりするから質が悪い。
「いっち、に! いっち、に!」
号令と共に駆け出した僕たちは、練習の時とは比べ物にならないぐらい安定した走りを見せていた。
単に息が合っているだけではここまで安定はしない。やはり二人三脚は身も心もひとつにならないとダメなんだと痛感する。
「やった! この時点で三位は上出来だよ! 此花さん!」
「うんっ!」
「じゃあ足の紐を一度解くね」
梯子まで辿り着いた僕は素早くふたりの足首を縛る紐を解こうとしゃがみこんだ。
「ダメだよっ、高尾君!」
「え?」
「そんなことしてたら遅れちゃいますっ!」
「で、でも、みんなもそうしてるよ?」
上級生たちとは違い、一年生はそういう関係でも何でもない、ただのクラスメイト同士がほとんどだ。周りを見回しても身体を密着させて梯子を潜り抜けようとしているペアなんていない。
僕たちもそうしたところで、かかる時間は変わらないだろう。
なのに此花さんは首を縦に振らず、代わりに僕をじっと見つめてくる。
「……分かった」
なんとも今日は決断を迫られる日だ。
僕は頷くと此花さんと一緒に狭い梯子を潜り抜ける決断をした。
此花さんもしゃがみ込んで、ふたり同時に梯子へ身体を滑り込ませると、さっきまでブーイングしていた観客席から湧き立つ声が聞こえてきた。
思ったよりも恥ずかしいと感じないのは、此花さんの柔らかい感触を気にする暇がないぐらい必死な為か、それともさっき既にハグしていたおかげか。
はたまた「違うんです、これは此花さんがこうしようと言ってきたからで、僕はむしろ紐を解いて一人ずつ梯子を抜けようよと提案したんです。だからお嬢さんの胸に顔を押し付けているのは不可抗力というもので――」と見ているはずの此花さんのお母さんへ懸命な言い訳を今のうちに頭の中で展開していた為かもしれない。
とにかく僕たちはトップで梯子を抜けると、いきなり独走状態に躍り出た。
こういう競争で前に誰も走っていない光景を見るのは生まれて初めてだった。いつも誰かの背中を見て、誰かが立てた土煙の後を追いかけてばかりだった。追いかけてはいるけれど追いつけるとはこれっぽっちも思ってなくて、僕自身の意志で走っているというよりも何か見えない糸が前方を行く人から僕に繋がっていて、それに引っ張られているような感覚だった。
それが今、僕は、僕たちは、誰よりも前を走っている。
何かのアクシデントがあったわけでもない。みんなが手を抜いてくれているわけでもない。
僕たちが僕たちの意志でみんなを出し抜こうと策略し、こうして一位を独走している。
胸がばくばくと高鳴った。
でも苦しくはない。逆に足が軽く感じる。
肩を預け、預けられるこの関係が、不思議と勇気をくれる。
此花さんとならどこまでも行けるような気がする。
「いいぞー! そのまま行けーっ!」
突然僕たちを応援する声が聞こえた。
誰だろう。クラスメイトだろうか。分からない。
女の人の声だった。もしかしたら笹本さんだろうか。でも彼女は此花さんと同中なのを周りに知られたくないはずだし、ましてや僕を応援する義理もない。
とにかくぼっちの僕たちを応援してくれる人がいるなんて思ってもいなかった。
「わたしの焼肉と飲み放題の為に頑張れー!」
続いて僕たちの担任の声が聞こえてきた。
体育祭、案外いいかもしんないと思いかけたのに台無しだよ、先生。
だけど悪くない気分だった。
誰かの声援を受けて、その期待に応えられるかもしれないと感じるこの高揚感。
こんなことはこれまでも一度も……と思って、ふと思い出した。
ああ、そうか。
僕は母さんが大声で僕に声援を送ってくるのが恥ずかしくて、運動会が嫌いになったんじゃない。
その応援に応えられない自分が嫌で、運動会が嫌いになったんだ。
それが今、僕は、僕たちはまだレース途中ではあるけれどもトップを走っている。
こんなことになるなら僕も母さんを呼ぶべきだっただろうか。
少し恥ずかしいけれど、あなたがあれだけ応援してきた息子がとうとうご期待に応える時がきたかもしれませんよ?
ふたつめの障害物である跳び箱を、僕たちは練習通りに乗り越えた。
先輩たちみたいにジャンプして飛び越えれば最高だったけれども、運動音痴が調子に乗ったところで失敗する未来しか見えない。展開的にはそっちの方が盛り上がるだろうけど、ごめん、このレースは塩漬けさせてもらうつもりだ。
麻袋へ入る前に、僕を軸にして此花さんがぐるぐると回る。
回転する時、三半規管を正常に維持するコツは視点を一点に定めることだそうだ。
だから僕は回転しながらコース後方のライバルたちの様子をずっと確認していた。
梯子での貯金が効いていて、二位のチームでもまだ跳び箱を越えたばかり。三位のチームは跳び箱の横に転がっていた。どうやら飛び越えようとして失敗したらしい。無茶するなぁ。
そうこうしているうちに此花さんが十周回り終わって、ふたりして麻袋へと入る。
ゴールはもうすぐそこだ。
「やった! 勝てるよ、此花さん!」
「う、うん……」
麻袋に二人仲良く収まって、ここからはジャンプしながらゴールを目指す。
練習でもそうだったけれど、本番でも僕の三半規管は存外にしっかりしていた。どんな人間にも特技のひとつぐらいあるものだなと我ながら感心する。
よしよし、他の人たちがどれだけのスピードを出せるのかは分からないけれど、それでもこれだけ差があれば余裕で勝てるはずだ。
「行くよ。せーの!」
息を合わせてジャンプする。練習で何度もやっているから何の問題なく――
「きゃっ!」
「うわっ!」
ここまでぴったり合っていたはずの息が途端に乱れて、僕たちはあっけなく麻袋ごと地面へとダイブした。
麻袋はゴミ袋なんかよりもずっと分厚くて、転んでも上手いことクッションになってくれるから痛くはなかった。
ただ問題はそんなことじゃなくて。
「ごめん。今のは僕がちょっと早かった」
「ううん……私こそ」
「落ち着いていこう。せーの」
「うわんっ!」
「わぁ!」
何度やっても練習ではあれだけ上手くいっていた呼吸がどうしても合わなくて、その度に転んでしまうことだった。
なんでだ? なんでこうなってしまうんだ?
ここまでずっと順調に来ていたこともあって、僕はちょっとしたパニックに陥った。理由を突き止めて改善しようとしても、混乱していて頭が上手く働いてくれない。
そうこうしているうちにどんどんライバルたちが差を詰めてくる。
さっきまでは勝てるって確信していたのに、こうなってはもうどうなるかは分からなかった。
不思議なものだ。これまでの人生の中で勝ちたいなんて思ったことがなかったのに、一度勝てるかもしれないと思った途端、ここまで来て負けたくないって気持ちが僕の中に生まれている。
此花さんと肩を抱き合いながら、僕の方が先に立ち上がって彼女を起き上がらせた。
まだだ、まだ諦めちゃいけない。
ここでもうひと頑張りすれば僕たちは勝てるんだと此花さんを鼓舞するつもりだった。
だから馬鹿な僕は、その時になってようやく気付いたんだ。
僕がとんでもなく舞い上がっていたこと、そして僕の隣で肩を組む此花さんが呼吸を酷く乱して、すごく辛そうにしているのを。
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