第22話:はぐはぐ

 小学生の頃は運動会が嫌いだった。

 やれかけっこだ、綱引きだ、玉入れだ、ダンスだ、組体操だって出なくちゃいけないものがあまりに多い。


 加えて母さんが大声で応援するものだから、みんなから注目されてしまう。

 あのね、母さん、そんな大きな声で名前を呼ばれても、僕の運動音痴が治るわけじゃないんだよ?

 最下位はずっと最下位のまま、投げたボールは目がけた籠とはまるで違う方向に飛ぶし、ダンスでは僕だけみんなと違う動き……。


 それでも母さんはいつだって大声で「頑張れー、一真!」って応援するから僕は恥ずかしくて。

 仕事で忙しいのにわざわざ見に来てくれたんだとは思うけれど、母さんの声援は僕を運動会嫌いにさせるに十分だった。

 

 だから中学に入り、運動会が体育祭という名前に変わって、他の人たちと同じように家族が見に来なくなると、随分と気が楽になった。

 出場種目も少なくなるし、あとは黙って座っていれば終わるのだから楽なもんだ。

 

 そんなわけで僕はこの手のイベントに親が来るのは嫌だし、おそらくは僕と同年代の多くもが子供の頃はともかく、高校生にもなって親が学校行事を見に来るのは嫌だと思う。


 なのに此花さんは見てもらいたいと言う。

 それは彼女のこれまでの生い立ちを雄弁に語っていた。




「よーし、あんたら頑張りなさいよーっ!」


 体育祭当日。

 午後のプログラムで最初に始まる男女混合二人三脚障害物競走へ向かう僕たちを、担任の先生がハイテンションで見送ってくれた。


「先生、珍しくテンション高いですね」

「なんか学年優勝したらお酒を奢ってもらえるらしいよ?」

「へぇ」

「焼肉も食べ放題だってさ」

「それはすごいです!」


 ……うん、普段はやる気をこれっぽっちも見せないのに、ただ酒ただ肉が賭かっているとかくもやる気を出すのはある意味凄いと思う。


「先生の為にも頑張ろうねっ、高尾君!」

「……そうだね」

 

 頷くもその呼びかけにはどうにも賛同しかねた。

 僕が頑張るとしたら、それは――。


 パーンッ!!

 

 スタートの合図に思考が遮られる。

 見れば競技一組目のグループが一斉に走り出していた。


 男女混合二人三脚障害物競走は三年生からスタートする。

 なんでもどういうノリの競技なのかを、僕たち一年生に教える為だそうだ。

 説明を受けた時はイマイチ要領を得なかったけれど、実際に見てみたら「なるほど」と言わざるを得ない。


 例えばふたりが通り抜けるにはかなり狭い梯子を、先輩たちは身体をこれでもかとばかりに密着しながら抜けていく。

 跳び箱を完璧に息の合ったタイミングで飛び越え、10回転後の麻袋競争では三半規管だけでなく理性まで狂ったかのように男女がくんずほぐれつ……。

 しまいには一位でゴールした組の女の人が男の人の頬にキスまでする始末。そりゃあ午後一番の競技なのにギャラリーが多いわけだと納得した。


「うええ!? 高尾君、見ました、今の!? 女の人が、きききききき、キス、してましたよっ!?」

「うん、したね」

「まさか私たちも一位になったらあんなことしなくちゃいけないのでしょうかっ!?」

「そんなことはないんじゃないかな」


 さすがにそんなルールだったら希望を取る時に表示されているだろう。


「それに多分さっきの先輩たちはそういう仲なんだと思うよ?」

「そういう……ああっ、『春高名物、仲良し男女猛レース!』ってそういうことっ!?」


 ……気付いてなかったか、やっぱり。

 そもそも二人三脚を男女で、しかも高校生でやるなんて、恋人同士じゃないとなかなか成立しない競技だろう。

 そこに恋人どころか友だちにすらまだなっていない僕たちが挑むなんて無茶も過ぎて笑えて……いや、笑いごとじゃないな、やっぱり。


「とにかくキスはしなくていいと思う」

「で、ですよねっ。よかった! ホントによかったっ!」


 さっきまでの不安がウソのように晴れやかに喜ぶ此花さん。

 ……そこまで喜ばれるとちょっと複雑だ。


「それより問題はあの梯子だよ」

「え?」

「あんなに狭いとは思ってもいなかった」


 練習していた時はもっと広かったので、その狭さは想定外だ。

 此花さんも僕も平均より少し小柄な身体つきだから、他の人たちよりかはまだ余裕があるだろう。

 それでもやっぱりお互いに身体を密着しないと通り抜けられそうにはない。

 

 黄色い声援の中、先輩たちが抱きつきながら梯子を通り抜けていく。

 中には明らかに女の子の胸部に顔を埋める先輩もいた。恋人だからこそ出来る芸当だろう。いや、仮に恋人相手でも、こんな人前で出来る自信が僕にはない。

 

「どうしよう……あ?」


 救いは唐突に現れた。

 三年生の二組目のレースが終わり、続いてスタートした二年生の中に梯子の前でお互いの足を縛る紐を素早くほどき、ひとりずつ通り抜ける先輩がいたのだ。

 ギャラリーから巻き起こるブーイングが凄まじいけれど、ルール的には問題ないらしい。


 よかった、これなら何とかなる。

 ちょっと安心して落ち着いて周りを見てみると、他の一年生たちも多くが僕みたいに安堵の表情を浮かべていた。

 よしよし、ここはひとつ『ギャラリーたちのブーイング、みんなで受ければ怖くない』の精神で行こうじゃないか。


「此花さん、僕たちもあの方法で行こうよ」


 僕は此花さんもまた今のを見ていたと思い込んで話しかけた。

 けれど彼女は見ていなかった。

 競技には目もくれず、あちらこちらをきょろきょろと見回している。

 その姿は明らかに焦っているようだった。


「どうしたの、此花さん?」

「お母さんたちがまだ来てない……」

「え?」

「どうしよう、何かあったのかも……」

「何かって? 仕事で遅れているとか?」


 大人の世界にはよくあることだ。

 なんせいくら家族が大切であっても、仕事には敵わないのが現代日本社会の特徴と言っていい。そんなことは此花さんだって知っているはず。


「どうしよう、どうしよう……」


 なのに此花さんは異様なまでに狼狽していた。

 まるで初めての運動会なのに、頑張っているところを見て欲しかったお母さんがいつまで経ってもやって来ない子供のように……。

 って、喩えでもなんでもなくそのまんまじゃないか。


「落ち着いて、此花さん。きっと僕たちがスタートには間に合ってくれるよ」


 とは言っても男女混合二人三脚障害物競走の出場者は、各学年で二レース分しかいない。

 僕たちは一年生の二組目で、つまりはこの種目の最後になるけれど、それでもあと五分ぐらいしか時間は残されていなかった。


「……ごめんなさいっ、高尾君!」


 此花さんがいきなり謝ってきたのは、前の組がスタートしたのとほぼ同時だった。


「え? どうしたの、此花さん?」

「私、ちょっと電話してきますっ!」

「電話って、無理だよ。だってほら、もう前の組がスタートしちゃったし!」


 当然だけどスマホは教室に置いたままだ。

 今から教室に行って電話して戻ってくるほどの時間はもうない。

 

「でも、でもっ!」


 それでも此花さんは居ても立っても居られないとますます焦りを色濃くしていく。

 こんなに不安に苛まれる彼女を僕は見たことがない。

 だから僕には分からなかった。


 どうして此花さんがここまで暴走してしまうのか、を。


 勿論、彼女がお母さんたちに頑張っているところを見て欲しいと思っているのは知っている。

 その理由もなんとなく察してはいる。

 だけど、だ。

 仕事か何かの用事で遅れることはよくある事だし、それに体育祭は今年だけじゃない。僕らはまだ一年生なのだ。チャンスはまだ二回残っている。

 あれだけ練習しておいて見てもらえないのは残念だけど、普通なら仕方がないと割り切れるものじゃないだろうか。


 なのにどうしてこんなに彼女は混乱しているのだろう。

 此花さんが暴走しがちな性格とは言え、どうにも僕には理由が分からなかった。


 分かる事と言えば、ただひとつ。

 暴走した此花さんを止めるのは僕の役目ということだけだ。


 と、不意に僕はいい方法を思いついた。

 これなら僕たちの抱えるふたつの問題を一気に解決できるじゃないか。

 周りを見渡すと、幸いにもみんな前の組の様子や自分たちの準備にいっぱいいっぱいで、僕たちを見ている人なんて誰もいない。


 よ、よし。やるぞ。 


「……此花さん」


 僕に止められて教室に戻るのは断念したものの、落ち着きなくそわそわしている此花さんに僕は意識してゆっくりと話しかける。

 勿論、話しかけるだけでは効果が薄く、そもそも言葉だけで説得できるとは思ってもいない。

 彼女の暴走を止めるには実力行使あるのみ。そう思うと不思議なことに勇気が出てくる。


「此花さん」


 もう一度名前を呼んで、僕は隣に座る彼女の左肩に手を置いた。

 いつもの二人三脚の流れ、勿論こんなことで此花さんの動揺は収まらない。


 だから僕は彼女をぎゅっと力強く抱き寄せる。


 あんなに練習時にはあった戸惑いがすっかり消え去っていた。

 ああ、でも心臓は相変わらずバクバク言っているな。

 仕方ない、僕だって健全な男の子ってことだ。 

 女の子と身体を密着させたら、そりゃあドキドキするってもんだよ。むしろドキドキしなかったら此花さんに失礼だよ。

 そんなふうに思ったら、これまでバレるのが恥ずかしかった心臓の高鳴りが気にならなくなった。


 なによりさっきまで僕なんか視界に入ってなかった此花さんが、驚いた表情を浮かべて僕の目を見つめてくる。

 よし、暴走をなんとか押しとめることが出来たようだ。その達成感が余計な全ての感情を上回った。


「此花さん、落ち着いて」


 僕の言葉に此花さんがこくりと頷く。

 

「大丈夫。お母さんはきっと間に合うから」

「で、でも……」

「それに此花さんがこんな調子だったら、見に来てくれたお母さんの前で練習の成果を発揮出来ないよ?」

「あ……」

「大丈夫。今日は転んだりしないから。お母さんだって見に来てくれるから」


 残念なことに後者の約束は出来なかった。

 ただ、前者だったら此花さんに信じてもらえるかもしれない。

 

 「此花さん」


 さっきからその名前を何度呼んだろう。

 分からない。けれど名前を呼ぶ度に、僕の心の中に温かい火が灯っていくような感覚がある。

 その温もりを伝えることに不思議と戸惑いがなかった。むしろ伝えたいと思った。

 そしてどうやったら伝えられるのだろうと考える前に、僕は此花さんに向き合って右手も彼女の方へと伸ばしていた。


 抱きしめたい。

 いや、その表現はちょっと性的すぎる。

 だったらハグしたい。

 そう、ハグ。他人との関わり合いを最低限なものに抑えてきた僕にとって初めて芽生えたこの感情を伝えたくて、僕たちは大丈夫だってことを言いたくて、そして何より此花さんに安心してほしくて、僕は彼女とハグハグしたい。


「……あ」


 此花さんの両肩に手を置くと、彼女が小さく呟いた。

 その表情は伺い知れないほど僕たちの距離は近くて、彼女の呟いた「あ」が何の「あ」なのかを視覚で確認することは出来ない。

 ただ聴覚で判断するに、それはきっと僕が感じているこの気持ちときっと同じ……


「お母さん!」


 じゃなかった……か。


「お母さん、お母さん!! こっちこっち!! ここだよー! おーい!」


 僕にハグされながら此花さんが無邪気に手を振る。

 ああ、此花さんのお母さん、彼女の為に見に来て欲しいとは思ったけれど、なにもこのタイミングじゃなくてもいいんじゃないですかね?


「高尾君、高尾君! お母さんが! お母さんが見に来てくれましたっ!」

「あー、うん、よかったね」

「うんっ! あ、そうだ、高尾君もお母さんに手を振ってあげてくださいっ!」

「いや、それはちょっと遠慮しておこうかな」


 というか振り返るのも怖い。

 まったく慣れないことはするもんじゃないなと思った。

 

 

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