第9話:ブレーキブロークン

「お、お待たせしましたっー!」


 校門に停めた自転車のハンドルに手を掛けて待つこと五分あまり。

 有名スポーツメーカーの黒いリュックを背負った此花さんが、校舎から出てきてこちらへ駆け寄ってきた。

 電車通学組は基本的に自転車は使わない。駅と学校の距離が徒歩10分ぐらいだからだ。駐輪料金とその距離を考えたら割に合わないとみんな考えるのだろう。

 

 ちなみに僕の家と学校の距離もそれぐらいだけど、僕は自転車を使う。せっかく中学から使っている自転車があるわけだし、実家だから駐輪料金はかからないし、なによりラクチンだからだ。

「勿体ない」と「文明の利器は最大限に利用する」は、僕の座右の銘のひとつでもある。

 なお座右の銘は幾つあっても良いものとする。

 

「それじゃあ、い、行きましょう!」

「行くってどこへ?」

「と、とりあえず駅前へ!」


 此花さんはまだ緊張気味だ。

 かく言う僕も普段と同じように装っているが、実際は結構緊張している。

 果たして一体何して遊ぶのだろうか?

 

 此花さんが歩き始めたので、僕はその横で自転車を押しながら付き従う。

 いつもなら何かと話しかけてくる此花さんが、何故か黙り込んでいた。

 駅前で何をして遊ぼうか考えてくれているのだろうか。

 そうこうしているうちに角を曲がり大通りへと出る。

 

「あ! 止まってください、高尾君っ!」

「ん? なに?」

「えっと、ここなら学校から見えないから、もう大丈夫かなって!」


 そう言っていきなり此花さんが僕の自転車ママチャリの後ろに腰掛けた。

 

「え? 一体どうしたの!?」

「その、ふたり乗りしようかなぁと思って!」

「なんで!?」

「だって友だちっぽいかなって!」


 友だちっぽいか、ぽくないかと問われれば、っぽいのは間違いないだろう。少なくとも全く面識もないふたりが一台の自転車に乗るなんてことは、この日本ではあり得ない。

 でも、同性ならばともかく異性同士でとなると、全く別の「っぽい」ものがあるのではないだろうか。

 

「さぁ、高尾君も乗って乗って!!」


 此花さんはこのことに気が付いているのだろうか?

 うーん、顔色が若干いつもより桜色に染まっているけど、それが緊張によるものか、気恥ずかしさからくるものなのかはよく分かんない。


 さて、果たしてどうしたものか。

 しばし考えること数秒、僕は意を決してサドルにお尻を乗せた。

 このまま自転車に乗るのはどうにも躊躇われたけれど、変に固辞して気まずい雰囲気になるのは避けたかった。


 いつもと違う後輪への荷重を感じ、バランスに細心の注意を払いながらペダルを漕ぎ出す。

 

「お」

「もくないっ!」


 突然ペシっと頭を叩かれて、動きを中断させられた。

 

「なんで叩くの!?」

「だって今、言っちゃいけない言葉を言おうとしましたよねっ!?」

「『お』しか言ってないよ?」

「そ、それだけで警告を与えるには十分ですっ!」

「えー?」

「え? あ、ご、ごめんなさい! もしかして『おっけー、べいびー、飛ばしていくぜ。振り落とされないよう俺に掴まりな!』って言おうとしました?」

「そんな馬鹿な!」


 いやいや無い無い。仮に僕が後ろに乗っていて、前に座っている僕がそんなことを言い出したら怖くなって降りると思う。

 

 此花さんのめちゃくちゃな例題に呆れて、なんだか頭を叩かれたのなんてどうでもよくなってしまった。

 改めてペダルを漕ぎ出す。

 誰かを後ろに乗せて走るという初めての行為に戸惑いはあったものの、なんかこのやり取りのおかげで緊張がほぐれてすぐに慣れた。


 いつもより荷重されて後輪のタイヤが普段より深く凹む。

 でも地面からの衝撃は心配するほどじゃなかった。

 日頃から空気圧をこまめにチェックしてる整備の賜物だろう。

 と、それで思い出した。そう言えば前輪のブレーキゴムがかなりすり減っていて早く替えなきゃと思ってたんだった。確か春休みに入る前ぐらいに。


 ……日頃からの整備、どこへ行った!?

 

「あ、いい感じ! とてもいい感じですっ! なんだかすっごく仲の良い友だちって感じがしますっ!!」


 ブレーキの心配をして出来るだけスピードを上げないようペダルを漕いでいる僕の後ろで、此花さんが興奮しながら横座りになった足をバランスが崩れない程度にぶらぶらさせる。

 随分と気に入った様子だった。このまま駅じゃなくてどこかへサイクリングに行こうとか言い出しそうだ。

 

「あ、そうだっ! どこか大きな川の土手を走ってみませんか、高尾君っ!?」


 ……分かりやすいなぁ。きっと土手を選んだのも、それが青春映画や漫画のお約束だからに違いない。

 

「残念だけどこの辺りに土手なんてないよ」

「えー!? ないんですか?」

「そもそもそんな大きな川が流れてないからね」

「それは残念です」

「でも比較的近くに結構有名な桜並木があったりする」

「あ、いいですね、桜並木!」

「ただし今は葉桜並木」

「うーん、微妙です」


 言っておいて自分も微妙だなぁと思った。桜並木で止めておけばよかったかもしれない。

 でも、じゃあ行ってみようよとなった時に葉桜情報を出すのもどうだろうか。此花さんをがっかりさせてしまうかもしれない。

 って、既にそうなっているか。となると、桜並木の話なんて最初からしない、それが正解だったのかも。

 

「あ、でも、だったら来年はふたりで桜並木を見に行きましょう!」

「え?」

「だから来年の春、二年生になったら行きませんか、桜並木。あの、今日みたいにふたり乗りで行けたらなって」

「来年……」


 来年、か。そんな先の事なんて全く考えてなかったな。

 今だけを考えたら桜並木の話は失敗だった。だけど先のことを考えたら成功だった。だって一年後の約束を取り付けられたのだから。

 

 物事ってのは案外そういうものなのかもしれない。

 ある一定の時間や視点や結果だけ見れば失敗に思えても、ちょっとそれらをずらしてやれば実は成功だったってのが存外にあるのかもしれなかった。

 

「それから……出来たらでいいんですけど、これからもちょくちょく自転車で駅まで送ってくれたら嬉しいなって」

「調子に乗ってる?」

「あ、ごめんなさないごめんなさい、調子に乗りましたっ!」


 すみませんでしたと此花さんが突然背後から僕に抱きついてきた。

 いきなりのことに驚いてバランスを崩しそうになった僕は慌ててブレーキを掛ける。

 危惧していた前輪のブレーキは何の問題もなく機能してくれて、なんとか倒れることなく自転車を止めることが出来た。

 

「ちょっと危ないよ、此花さん!」

「ごめんなさい、ごめんなさいっ!」

「もう、気を付けてよ」

「はい、もう調子には乗らないですっ、絶対!」

「いや、そういうことじゃなくて……」


 僕は此花さんの軽率な行いには本当に怒っていた。

 でも軽率な申し出に関してはそれほど、いや、むしろ軽口を叩くぐらいには歓迎していたのだ。

 会話における感情を同調させる難しさを改めて実感した。


「ごめん。僕の方こそ調子に乗っていたかもしんない」

「え? いやいやいやいや、高尾君は全然……」

「ううん、此花さんに勘違いさせるような言い方をした僕こそ悪かったんだ」

「勘違い……?」

「うん。つまりね、別に駅まで乗せてるのはいいってこと」

「え? でも、さっき……」

「うん、だから僕こそ調子に乗ってたんだ、ごめんね」


 謝って振り返ると此花さんがぽかんと見つめ返してきた。

 意味が伝わらなかったかなと思ったけれど、やがてにへらと表情を崩して僕の背中に再び抱きついてくる。


「だから、それは危ないから止めてって!」


 自転車は止まっているけれど、僕の心臓は止まるどころか加速する一方。自転車のブレーキは無事だったけれど、心のブレーキが壊れる可能性は否定できなかった。

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