第6話


 学校からバスで十五分。徒歩なら一時間くらいかかるだろうか。

 野村先輩の家は岳斗が知る“家”という概念を超越していた。どこからどこまでが敷地なのか分からないが、とにかくバス停を下りてからずっと塀が続いている。外灯が照らす中、五分ほど歩いただろうか、玄関らしき門が現れ、その前に大きな提灯がぶら下がっていた。

 屋根が付いた横幅十メートルくらいはある門には確かに『野村』と、表札が出ている。けれどここが本当に野村先輩の家なのか、どうにも自信がない。吉沢君からは「見たら誰でもすぐに分かる」と言っていたから、間違いないのだろうけれど、いざ目にするとインターフォンを押す手が震えた。それでも意を決してボタンを押すと、ややあって男性の声で応答があった。


「はい、何か御用でしょうか」

「野村先輩……あの、バスケットボール部の部員の雪見岳斗ですけど、先輩は、いらっしゃいますでしょうか」

「雪見様、ですね。少々お待ちいただけますか」

「はい」


 何も都合を聞くことなく家まで来てしまったけれど、良かったのだろうかと今更にして悩んでしまった。

 その場で待たされること二、三分ばかり、不意に門の横にある小さなドアが開けられ、中から細身の黒いスーツ姿の男性が出てきた。髪に白いものが混ざっている。野村先輩の父親だろうか。


「野村家の執事をしております、西ケ谷と申します。実は源五郎様は先日より体調を崩しておられまして、申し訳ありませんが雪見様にはお引取りいただくよう伺っております」


 執事という言葉を現実生活で初めて耳にした。けれどその驚きよりもずっと、今野村先輩が寝込んでいるという事実の方が岳斗にとっては重かった。


「風邪とは知りませんでした。明日、また出直してきます」

「あ、いえ、明日となりましても」

「見舞いに来るので、先輩にはそうお伝え下さい。おやすみなさい」

「はあ。おやすみなさいませ」


 家の事情とか、御曹司の事情とか、色々と考えていたことがすべて吹き飛んでいた。

 岳斗の足取りは幾らか軽くなり、バス停へと急いだ。

 

 その日は早くに眠り、翌朝は気持ちが抑えきれずに珍しく朝食の前に近所をジョギングして回ってきてしまった。

 寮を出たのは八時過ぎで、まだコンビニくらいしか開いていない。

 岳斗は時間があったので駅前まで徒歩で向かった。先輩は何が好きだろう。お見舞いなんて、小さい頃に祖父が入院していた時に母親に連れて行ってもらったことがあるくらいで、何を持っていけばいいのかもよく分からない。バナナだろうか、メロンだろうか。そういう果物の盛り合わせだろうか。けれど、いざ自分の財布を覗いてみるとそんなに色々と高価なものを買って持っていく余裕は見当たらない。

 岳斗は見つけた小さな公園のベンチで少し時間を潰し、それから商店街へと足を向けた。

 アーケードの通りは人は疎らだ。平日、ということもあるだろうが、徐々に寂れていると吉沢が言っていたことを思い出す。それでも花屋のお姉さんや惣菜屋のおばさん、肉屋の軒先からは香ばしい油の匂いが漂い、文具店の前で小さい男の子が母親の手を引いて色鉛筆をねだっていた。

 岳斗の地元にも、こんなに規模の大きなものではないが、商店街がある。いや、あったと言った方が正しい。今ではほとんどの店がシャッターを閉めているか、空き家になっていて、何とも寂しい限りだ。

 反対側、今では駅の表と呼ばれている北側にはショッピングモールがあった。誰もがそちらに行く。便利だし、綺麗だし、品揃えも豊富だ。何より安い。

 そうやって色々なものが時代と共に変わっていくのだろう。

 何だか寂しさを感じた岳斗は、八百屋で特大のバナナを買った。おじさんは「うまいんだぞ」と笑顔になり、おまけで林檎を一つくれた。

 岳斗は他にも家に持っていく菓子折りを、いくらのいいか散々迷って、ひとまず千円のものを購入し、駅前からバスに乗る。

 バスは高校の前を通過し、大通りを抜けてから交差点を右折。徐々に家が少なくなり、田畑が目立つ通りを走っていく。昨日は夜でこんな景色だとは思わなかったが、ビルや家が密集している近代的な景観よりもずっと、この長閑な車窓の眺めは岳斗の気持ちを落ち着かせた。

 

 バスは三十分ほどで野村邸の前に到着する。学校からだともう少し近い印象だったのに、駅からは流石に時間が掛かった。

 しかし、夜でも長い塀だと思ったのに明るい日中に見ると何とも気の遠くなる長さだった。ずっと向こうの奥まで白塗りの壁が続いている。

 左手に壁を見ながら歩いていくと、このままどこまでも同じ景色が続くんじゃないかと思ったが、ほどなくして昨夜見た玄関門までやってきた。

 今日は昨日より緊張せずにインターフォンを押すと、やはり応対に出たのは執事と名乗った西ケ谷さんだった。

 心の準備が出来ていたからか、三分ほど待っていて脇の通用口用のドアが開き、白髪混じりのスーツ姿の男性が現れても驚くことはなかった。西ケ谷さんは微笑を見せると「どうぞ、中へ」と、案内してくれる。その微笑はどことなく野村先輩を思わせたが、父親というには骨格や顔の造形がどうにも似ていないし、父親が執事と言って出てくる家庭もどうかと思ったので、やはり西ケ谷さんは正真正銘の執事なのだろう。

 門の裏側は石畳が長く伸び、それが奥の屋敷まで続いているのが分かった。屋敷までは植木や花壇が整備され、日本庭園とでも言えばいいのだろうか、そんなきちんと設計された庭が設えてあった。右手の方には駐車場があり、遠目に何台か、高そうな車が停めてあるのが見えた。

 岳斗は西ケ谷さんに続いて、飛び石になった道を歩いていく。どうして真っ直ぐに石が置いていないのか尋ねたかったが、そういう雰囲気でもない。仕方なく黙って後に続いた。

 バス停から玄関門までも結構歩いたが、門から屋敷の入口までも随分と歩く。

 屋敷は二階建てだったが、右にも左にも広い。瓦屋根はとても立派で、それだけで圧倒される。


「どうぞ」


 西ケ谷さんに促されて玄関を潜ると、まるでどこかの旅館の入口のようだ。上がり框にスリッパが用意されており、黒光りするまで磨かれた床板の廊下が奥へと伸びていた。岳斗は緊張気味にスニーカーを脱ぐと、それの向きを揃えて隅に置き、スリッパに足を通す。


「源五郎様の部屋はこちらでございます」


 少し歩いてから、突然そう言われ、右側の通路に移った。中庭も作られているようでガラス窓を通してちらりと見えたが、どこかのお寺の庭のように綺麗に砂利が敷き詰められ、緑は一つも飾られていないようだった。

 何から何までが岳斗の知るそれとは異なり、まるで異世界と言っていい。そんな場所で日頃からあの野村先輩はどういう気持ちで生活しているのか、単純に興味があった。


「源五郎様。雪見様をお連れしました」

「ああ、わかった」

「入っても宜しいでしょうか」

「ああ、いい。入れ」

「承知しました。それでは雪見様、どうぞ」


 先輩の部屋の入口もやはり旅館を思わせる。『源五郎の間』と書かれていてもおかしくはない。寧ろそう書いてあって欲しいとすら思うくらい、雰囲気があった。西ケ谷さんが横滑りの木戸を開けると、畳の良い匂いがふわりと臭う。スリッパを脱ぐように小さな上がり框があり、そこから修学旅行で泊まる大部屋のような広い和の空間が広がっていた。一体何畳あるのだろう。先輩はその広い空間の中央にぽつんと敷かれた布団にちんまりと収まっていて「すまないな」と顔を上げたところで、額に乗せていたタオルが落下した。

 岳斗は慌てて駆け寄り、そのタオルを拾い上げると、枕元にあった桶に浸して搾る。よく風邪の時に母親がこうしてくれたことを思い出しながら、出来るだけ固く、水気を落とすと、


「先輩は寝てて下さい」


 そう言って横にならせ、眼鏡のない素顔の先輩の額にタオルを乗せた。


「すまない、こんなみっともない姿を見せてしまって」

「誰だって風邪ぐらい引くし、そうなったら元気でなんていられませんよ」

「だが」


 そこで肩を揺すって咳き込む。


「無理はしないで下さい。これでもマシになったって聞きましたけど……西ケ谷さんから」


 入口を見ると既にスーツ姿の執事の姿は消えている。


「先輩。これ、お見舞いを一応持ってきたんですけど」


 その入口の上がり框に紙袋がぽつんと置かれている。岳斗が持ってきたものだが、スリッパを脱ぐ時にそこに置いたらしい。戻って中身を確認すると、大ぶりのバナナが一房と林檎が一つ、それにプリンが四つ、入っていた。プリンは幾つ買っていけばいいのか分からず、結局先輩から貰ったものに一つ加えて四つにした。数そのものに意味はない。


「悪いな。西ケ谷にはちゃんと来なくていいように言っておいてくれと頼んだんだが」

「何言ってるんですか。僕が大変な時に助けてくれたんですから、先輩が大変な時こそ僕の出番じゃないですか」

「雪見……」


 額にタオルを乗せたまま、何とも愛らしい瞳が二つ、岳斗を見つめていた。少し潤んでいるだろうか。それとも熱が酷いのだろうか。ふと右手を伸ばし、タオルの下に入れて額に当てる。微熱、程度だろうか。岳斗は自分の額にも同じように当ててみたが、よく分からなかった。


「薬は飲んだんですよね。熱は測ってます?」

「大丈夫だよ。西ケ谷が全部やってくれている。ずっとそうだったんだ。小さい頃からずっと」

「あの西ケ谷さんて人、本当に執事なんですか?」


 先輩はその問いかけに首をわずかに捻る。


「いや、執事っていう言葉があまり耳慣れなくて。本当に実在する職業なんですか?」


 正直な感想を言っただけなのに、先輩は大きく体を曲げて笑った。タオルは落ちるし、噎せるし、それでも構わず大声で笑う。


「そうか。そうだな。世間一般じゃ、執事なんてもの、フィクションの中の登場人物でしかないもんな」

「先輩。ちゃんと寝てて下さい」

「悪い悪い。ただ、そんな風にストレートに言われたことがないから、おかしくてさ」

「じゃあ本物の執事なんですね、西ケ谷さん」


 ああ、と先輩は頷き、岳斗は目を大きくした。


「やっぱり父親とかではなかったんだ」


 そんな呟きがぽろっと漏れると、先輩の表情が急に曇る。


「あの、先輩」

「何だ」


 声が低い。風邪を引いているから、という訳ではなく、これから岳斗がしようとしている質問に身構えているのだろう。


「高校卒業でバスケ辞めるって、本当ですか?」


 見舞いに来ておいて何てことを聞いているのだろう。そう思わないでもないが、どうしても気になってしまい、先輩の言葉で確かめるまでは純粋にお見舞いも出来ない気がした。


「聞きたいのは、それだけか?」


 だが野村先輩は神妙な顔つきでそう言い返すと、額からタオルを取って上半身を起こした。

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