第7話


 先輩はバスケを辞めること以外にも色々と事情を抱えているということだろうか。

 広い和室は空調が効いていて、少し温かい。けれど先輩との距離は一メートルもないのに、心の距離はまだまだ開いたままだと岳斗は感じていた。


「それだけ、じゃないですけど」

「けど?」

「一番問題なのはあれだけ僕にバスケットボールが好きだと語った先輩が、その大好きを諦めなきゃならないことです。本当なんですね?」

「本当、というか……何だろうな」


 視線を逸した先輩は考え込むように唸ると「少し長くなるぞ」と前置きをして、こう切り出した。


「雪見がどれくらい俺について、あるいは野村家について情報を入れているか分からないが、俺は野村家の一人息子で、野村財閥の跡取りなんだ」


 それについては吉沢君から聞いたことがあったけれど、先輩の口から直接“跡取り”という言葉を耳にするのは全然感覚が違っていた。


「野村財閥、みんなは野村コンツェルンと呼んでいるけれど、きっと雪見が想像するよりもずっとデカい会社、いや、企業だな。とにかく、個人の意思がどうとか、そういう話が通用する世界じゃないんだ。だから、これから話すことはまるで現実感がないかも知れない。けど、それが俺、野村源五郎という人間が抱える事情だという風に理解して欲しい」

「分かりました」

「雪見は素直だな」

「そうですか? よく分かりません」

「俺にもそういう素直さが少しはあったらなあ……まあ、これはいいや。とにかく、高校を卒業したらバスケットボールを辞める。それは既に決められた俺の人生計画だ」


 岳斗は思わず口を開きかけたが、先輩の目を見て、吐き出しそうになった言葉を呑み込んだ。


「周囲と自分の家庭が違うことに気づいたのは、小学校に行くようになってからだった。他の子は近所の子どもたちで集まって登校していたけど、何故か俺だけは車で送り迎えだった。その所為せいでなかなかみんなと距離が縮まらなくてな。普通にみんなと同じように歩いて学校に行きたいと言ったら、西ケ谷と二人での登校だった。それでも俺としてはみんなと同じになったと思っていたんだな。けど、結局何も変わらない。そのうちに俺自身が周囲からどう呼ばれているか、それとなく耳に入ってくるようになって、まさか自分が『御曹司』とか『お坊っちゃま』とか、そんなあだ名で呼ばれてるとは思いもしなかったよ」


 一人だけ特別扱い。それは大人からすれば当然のことなのだろう。誘拐や事故、事件に巻き込まれる可能性もある。大事な跡取りだ。何かあってからでは遅い。

 けれど子どもからしてみればそんな大人たちの事情なんて関係ない。自分たちの目の前で起こる事実だけが大切だ。そんな風に特別扱いをされる子どもが一人いれば誰もが奇異に感じるだろう。そしてその特別だということはすぐにいじめへと繋がる。

 先輩は詳しくは語らなかったが「だからあまり良い思い出がない」という言葉で小学校時代の前半を飛ばした。


「そんな俺がさ、ある日出会ったんだよ。バスケに」


 友だちのいない先輩の遊び相手は、あの西ヶ谷さんだったそうだ。けれどある日、彼の息子が楽しそうにバスケットボールをしている姿を目撃した。両親が出かけた際に西ケ谷さんの家に行きたいと我がままを言ったらしい。そこで運命の出会いをした。野村先輩より三つ大きい西ケ谷さんの息子は小学六年生で、地域のバスケットボールクラブに入っていた。それまでにバスケットボールというスポーツがあることを知らなかった訳ではなかったが、ボールをドリブルする音、バックボードに当たる音、ゴールの枠に跳ねたり、どこにも当たらずにゴールネットだけを揺らして入ったり、そういったリアルなバスケを目にしたのは初めてだったそうだ。

 それ以来、バスケに夢中になった。

 その時の話については、以前少しばかり、お見舞いに来てもらった時に聞かせてもらったので覚えている。


「最初はスポーツに励むことは良いことだ、なんて言ってくれていたんだが、あまりにも真剣になりすぎてプロを目指したいなんて言い出したものだから、それはいかんと突如、高校卒業と同時にバスケも卒業することを誓約させられたんだ」

「それは横暴ですよ」

「俺だって黙って従った訳じゃないよ。大学卒業まではなんとかって話を今つけてるところだ。ただその交渉と引き換えに、今度は別の条件を出されてな」


 先輩は額を少し右手の人差し指で掻き、何とも気まずそうな顔になる。


「雪見も俺が定期的に部活を休むことがあるのには気づいていただろうと思う。先生や大貝には私用ってことにしておいてもらっているけれど、実はな、許嫁に面会しているんだ。毎月」

「許嫁、ですか」


 執事がいるという現実にも驚かされたからもう何が来ても驚かないと思っていたけれど、まさか許嫁までいるとは思わなかった。


「嘘だと思うかも知れないが……」


 そう前置きをしてから先輩は枕元にあった自分のスマートフォンを手にし、何かを呼び出してから、それを岳斗に渡した。


「すぐ返せよ」

「あ、はい」


 そこにはどの時代の女性だろうと思うような、和装の美女が映っていた。美女。そう。岳斗の目から見ても目鼻立ち、その造形、長い黒髪、僅かに覗く白い項と、実に一枚の絵のように見える。こんな女性が現実に目の前にいたら、誰だって自分の目を疑うだろう。


「もういいだろう?」

「あ、すみません」


 そんなに長く見ていたつもりはなかったのだけれど、先輩は毟り取るようにして自分の携帯電話を取り戻すと、画面をホームに戻し、枕元に置いた。


「綺麗な人、ですね。許嫁さん」

「御崎さんには姉がいるが、そちらは読者モデルをやったりしている。彼女は次女で、だから許嫁に出されることになっている。向こうもうちとは違うが、それなりに由緒正しい家柄なんだそうだ。昔ならこの手の政略結婚というのもあったのだろうが、この時代になって、まさか、それも自分の身にそれが降りかかるなんて思わなかった。雪見はどうだ? もし自分に許嫁がいたら」

「許嫁ですか……」


 先程見た写真の美人が相手と考えてみると、何とも申し訳ない気がしてくる。引け目を感じるというか、釣り合わないというか。それでも親同士が決めたことに逆らえる立場でないなら、受け入れてしまうかも知れない。そんな風にして作られた家庭がどんなものになるかは、全く想像することが出来なかった。


「その御崎さんと、月に一度、十五歳になってから会っている。時間にすれば一時間程度だ。互いに学校のことや、家族のこと、家庭や将来について少し話し、それで別れる。そんなことを毎月繰り返している。どちらも仕方なくやっていることだが、その御崎さんにさ、言われたことがあるんだ。『あなた、友だちがいないでしょう? 本当の友だちを作りなさい』って」


 先輩に対してそんなことが言える女性というのがどんな人物なのか気になったが「どう思う?」と問われ、岳斗はやはり「うーん」と唸って考え込んでしまう。


「先輩。友だちって、何でしょうか」

「友だちは友だちだろう?」

「いえ。その、普段何気なく友だちって言っているけど、すごく曖昧でよく分からない関係じゃないですか。真面目に考えてみると僕の友だちって言われても、中学の時のバスケ部の連中なら多少はそう呼んでもいいかなって思いますけど、今の高校のバスケ部だと、部員とか、同じ部の仲間とか、少なくとも友だちって呼んでもいいかなっていう、よく分からないラインなんです」

「それは、俺もある。特に彼女に言われてからは友だちっていうものの定義について、よく考えるようになったよ」

「じゃあ、先輩と僕は友だちですか?」


 岳斗は真っ直ぐに野村先輩を見た。先輩は少し驚いたようで目を大きくしたが、顎の先に手を当ててしばらく考え込み、それから「分からない」と呟いた。


「先輩と後輩だとは思うんですよ。それも結構よくしてもらっている方の。でも、それが友だちですかと聞かれたら、なんて答えればいいですか?」

「先輩と後輩の関係と、友だちの関係はやっぱり違う、と雪見も思うんだな。そうだよな。この前御崎さんもそう言っていた。それで彼女に聞いたんだ。じゃあ友だちって何だと」

「そしたら?」

「御崎さんはこう答えたよ。『それについてもっとよく考える為に、色々な人とお付き合いをして下さい』と」


 先輩から話を聞く限りは、美人だけれど、何だかとても厳しそうな人だと岳斗は感じた。


「だが付き合いって言っても、俺は前も言ったが、そう人付き合いが上手い訳じゃない。寧ろ、笑顔とか、優しくするとか、そういう手法で何とか乗り切ってるだけだ。こんな風に本音を話せる相手なんて、雪見が現れるまでいなかったんだ。まあ雪見のように、わざわざ家まで来てあれこれ言ってくる奴がいなかったってのもあるけど」

「え? そんなに僕、迷惑でしたか?」


 見舞いに来てくれた恩返しをしなきゃと、それだけに懸命で、まさか迷惑と感じられているとは想像すらしなかった。


「いや、迷惑じゃないよ。ありがたい。それに、少し雪見に頼みたいこともあったんだけど、こんなことでもなけりゃ事情も分かってもらえなかったろうしな」


 頼み――という言葉に、岳斗は表情を険しくして先輩を見た。


「そんなに構えることじゃないよ。まあ、ともかく、許嫁にしてもバスケットのことにしても、こんな風に全部親というか、家というか、もっと大きな権力というか、そういうものによって決められているんだ。最初は抗おうという気持ちもあったけど、それはひょっとすると俺一人のただの我がままでしかないのかなって、最近思えるようになってな」

「我がままなんかじゃないですよ。好きなことを好きって言うことが、我がままですか?」

「雪見の真っ直ぐさは本当に気持ちいいな。今の言葉をそのまま父親に言えてたら、もう少し違ったのかもな」

「まだ諦める時じゃないですよ」

「大丈夫だよ。諦めた訳じゃない。ただ、一方的に嫌だ、拒否する、というのもどうかと思って、跡継ぎになることにも真面目に取り組んでみようかと考え始めているところだ」

「それじゃあ、バスケは辞めちゃうってことですか?」

「それは違う。バスケは続けたいし、続けていきたい。俺の学生時代そのものだからな。でも、冷静になって考えてみると今のままで、いや、今後一年や二年でどこまで技術的に伸びるだろうか。そうなるとプロとか実業団とか、そういう方向はやはり難しくて、じゃあ趣味で続けるのかってなると、それなら父親も許容してくれるんじゃないかって思ったり。まあ、そんな考えが日々ぐるぐると回っている訳だ」


 そこまで話してふっと笑い、先輩は咳き込んだ。忘れそうになっていたけれど、まだ風邪なのだ。


「もう事情は分かりましたから、休んでて下さい」


 岳斗は先輩を横にならせ、布団を顎の下まで掛けた。


「なあ雪見」

「先輩、バナナでも食べます? それとも林檎?」

「林檎の皮、剥けないだろう?」

「あ、それは西ケ谷さんにでも頼んでもらって」


 そう答えて苦笑する。


「じゃあバナナでいいよ。それよりさ、雪見」

「バナナですね。分かりました」


 岳斗は紙袋の中からバナナを一本毟り、その皮を剥く。


「雪見って、彼女いないよな」

「ええ、いませんけど」

「じゃあさ、俺と付き合ってくれないか」

「ええ、いいですけど」


 その言葉を口から出した瞬間には、バナナのことしか考えていなかった。

 けれどいざ剥いたバナナの先を先輩の口に近づけてから、一体何を言われたのだろうと考え始め、すぐに顔が熱くなるのを感じた。


「あ、あの、先輩?」

「俺さ、付き合うってどういうことか全然分からなくて。今までに彼女を作ったこともないし、告白されても断ってきたし、許嫁もいるだろ? だからさ、御崎さんに『彼女の一人くらい作って恋愛してみなさい』って言われてるんだけど、どうすればいいか分からなくてさ。こんなこと、雪見にくらいしか頼めないんだよ。なあ」

「先輩と、付き合う? 僕が?」

「ああ。駄目か?」


 先輩はバナナを前にして、じっと岳斗の表情を伺っている。その先輩の唇が「駄目か」と動いたところに、岳斗はバナナの先を突っ込んだ。


「おい」

「先輩は恥ずかしい気持ちにさせたいんですか、僕を。いいですよ。恋愛ごっこの相手くらい」

「そうか。助かる」


 そのまま三センチほどを口に入れて噛み切り、もぐもぐと口を動かしながら野村先輩は笑った。

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