第5話


 文化祭が終わり、中間テストが近づいていた。しばらく部活は休みだ。顧問の巻島先生からテスト期間中の練習は厳しく禁じられていて、体育館の利用はできない。

 必然的に市民体育館やバスケットゴールのある公園、空き地、個人の家なんかを使う必要が出てくるが、岳斗の通学圏内にはそういった場所がなかった。公園にもブランコや滑り台こそあったが、バスケットゴールまでは備えていない。確か野村先輩は近所にそういう公園があると言っていたから、近ければそちらまで足を伸ばしたいところだ。

 ただ赤点を取るとレギュラーだろうが何だろうが強制的に補習を受けることになり、今月末の県の秋季大会に参加することは難しくなる。

 岳斗は苦手とまではいかないものの、流石に何もしないで合格点が取れるほどではない。だから今まで学校の休み時間に寝ていた分を削り、教科書やノートを開いていた。それでも天気の良いこんな午後ともなると眠くなる。


「どうよ」


 その眠りを妨げたのは吉沢だ。彼もあまり点数が良い方ではなかった覚えがある。


「やりたくなくてもやらなきゃならない、ってところ」

「そうだよなあ。バスケットだけやってりゃいいなら楽なんだけど」


 バスケだけやって暮らしていく。それは小学生の頃ならただ好きなことだけをしていたいという願望、あるいは妄想でしかない。けれど高校生ともなるとプロ、あるいは実業団という選択肢に変わってくる。

 自分の五年後、十年後を考えると、それも一つの将来なのかなと思わなくもないが、プロを目指すほどには才能がないし、体格も恵まれていない。実業団もそう簡単なものではない。仕事の傍ら、街のバスケットボール倶楽部でコーチをしたり、あるいは体育教師の資格を取って、学校で部の顧問に就くといったことも可能性の一つだろう。

 そんな風に考え始めると、やはりそろそろちゃんと目標を立ててそれに向けて取り組むべきなのかなと思えるが、どうにも気が重い。


「何だよ。全然進んでないじゃんか」

「吉沢君はさ、将来とか、どうするの?」

「え? オレ? 何だろう。とりあえず大学だろ。それからどっかの名前のよく知れた企業でスーツ着て、ばりばり働いて……彼女見つけて家庭作る感じか」


 何を想像したのだろう。顔がだらしない。

 でも急に将来のことを言えと言われても普段からしっかり考えている人間なんて少数派だ。大概の同級生は吉沢と同じように、ぼんやりとした、誰もがおそらくこんな感じだろうと想像するものを答えるしかない。


「先輩はどうなんだろう」

「先輩って、野村先輩か?」

「うん。しっかりしてそうだから将来設計も今から考えてそうだなって」


 そう言うと吉沢は鼻をひくつかせて笑う。


「特待生は知らないんだな。地元で野村コンツェルンて言えば泣く子も黙る大財閥様だぜ。その一人息子があの野村源五郎先輩だ。将来なんて考えるまでもなく決まっちゃってるのよ」

「え?」

「社長息子? 御曹司? なんて呼ぶのか知らないが源ちゃん先輩ってそういう身分なのよ。オレらとは違う世界の住人な訳。でもさ、それを口にするとあの源ちゃん先輩も流石にちょっと嫌な顔をするから誰も言わないように注意してるけど、公然の事実で、地元の人間なら誰でも知ってるよ」


 全然知らなかった。そもそも先輩がどんな家柄とか、親が金持ちとか、そんな雰囲気を感じたことはなかった。それは先輩がそういう風に振る舞っていたからかも知れないが、岳斗の小学校の同級生にいた何でも買ってもらえると自慢していた男子とは全然違う。


「どうしたよ?」

「う、うん」


 岳斗は先輩の優しい笑顔を思い返しながら、その裏には何があるのだろうと考え込んでいた。

 その日の夜、寮の部屋に戻ってから岳斗は野村先輩にLINEを送ってみた。テスト勉強の様子を窺うふりをしつつ、本心は吉沢から聞いた家庭事情のことを少し聞きたかったのだ。けれどそのメッセージに既読が付くことはなく、返信もなかった。

 テストが始まると、学校は午前中で終わる。暇な午後を、バスケットボールの練習もなしで過ごすのは、岳斗のような人間にとってはなかなかの苦痛だ。これといった趣味もなく、部屋に戻ってもバスケットボールの雑誌を開いたりしているだけだからだ。

 あれから何度か挨拶程度だけれど、先輩にLINEを送ってみた。一応既読こそ付いたり、挨拶の返事くらいはあったが、肝心の先輩の家庭の事情については一切触れられていないもので、やはり聞かれたくないことなのだろうかと考えると、胸がもやもやとして何とも気持ち悪い。


「やっぱり直接会って聞くしかないか」


 けれど先輩の実家ってどこなんだろう。それ以前にバスケ部以外の先輩の姿を岳斗はよく知らない。普段教室ではどんな風なのか。バスケ以外の趣味は何で、学校以外ではどんな過ごし方をしているのか。誰に対しても優しく振る舞うのは人付き合いが苦手だからとも語っていた。それでも友だちの一人や二人はいるだろう。

 考えれば考えるほど、岳斗は野村先輩について何も知らなかった。

 数学の教科書を開き、明日の最後の試験に備える。けれど、公式も方程式も解決の手順も、何も頭に入ってこなかった。

 


「ああー、駄目だったわ」


 翌日、最後の数学の答案用紙を回収した先生が教室を出ていくと、早速吉沢がやってきて情けない顔を見せる。でもそれは一瞬のことで、


「なあ、今日から体育館、解禁だよな。特待生は行くんだろ、自主練」

「一応顔は出すつもりだけど」

「真面目君だよなあ。テスト試験の地獄を抜けた開放感を満喫しようとは思わないのかよ」

「そういうのも良いと思うよ。ただ」

「ん?」

「ちょっと気になることがあってさ」


 鞄に筆入れを仕舞いながら答えると「はっはーん」と意味深な声を漏らし、吉沢はこう返した。


「先輩だろう?」


 先輩。それがただのバスケ部の任意の先輩のことを示すのではないことは、岳斗でなくても分かった。


「特待生ってさ、野村先輩のこと好き過ぎないか?」

「え?」

「いやだってさ、何かといえば野村先輩だろ? 確かに良い先輩だと思うよ。面倒見もいいし、優しいし、何言っても怒らないし。誰だって好きだと思うわ。けどさ、なーんか特待生の目線って特別っていうか」

「特別……かなあ」

「無自覚なのが一番やばいよ。まあ、二人で仲良くする分にはオレは黙っといてやるけどさ」


 何か引っかかる言い方だったが、それよりもやはり野村先輩の家の事情が気になった。


「あ、でも、その源ちゃん先輩だけどさ、ここだけの話、高校でバスケ辞めるらしい」

「え!」

「何だよ、突然大声出して」


 思わず立ち上がった岳斗に教室に残っていた生徒は目を大きくして見ていたが、それよりも吉沢の今の発言の方がよほど衝撃だった。


「バスケ辞めるってどういうこと? なんで? どうして先輩がバスケ辞めるの? あんなにバスケが好きな先輩なのに」

「知らないけど、色々あんだろ。ほら、家庭の事情とか、御曹司の事情とかさ。オレら庶民には所詮わからん話よ」

「御曹司だって庶民だってバスケ好きは一緒だよ。そんなので辞めなきゃなんないならおかしいって」


 岳斗は鞄を持ち、教室を出る。


「どうすんだよ?」

「先輩に確かめてくる」


 三年生の教室を覗いてみたが野村先輩の姿は既になかった。他の教室や購買部、職員室に保健室と覗いて、結局体育館に最後はやってくる。

 そこには学生服姿のまま、一人黙々とシュートを打つ野村先輩の姿があった。


「先輩!」

「おう、雪見。テストどうだった?」

「それはどうでもいいんです」

「いや、どうでもはよくないだろ?」


 苦笑を浮かべる先輩に向かって小走りに近づくと、岳斗はため息をついてからこう切り出した。


「バスケ、辞めるってどういうことですか」


 そのことか――声にもならない呟きをして、先輩は次のシュートを放つ。


「本当、なんですね?」

「ノーコメント」


 次に放ったシュートは枠に大きく弾かれ、ボールは壁の方まで転がっていってしまった。


「なんでですか。家が金持ちなことと、関係があるんですか」

「金持ちって……誰が言ってたんだよ」


 野村先輩は笑っている。その表現がよほどツボに嵌ったのか、お腹を抱えて大きく肩を揺する。


「みんな知ってるって……吉沢君が」

「吉沢か。あいつ、バスケの腕は別として、割といいやつだろう? みんなあれくらい素直だったら、もうちょっと世界が生きやすいのかもな」


 何を言いたいのかよく分からなかった。

 先輩は岳斗に背を向け、歩いていく。


「先輩?」

「練習、がんばれよ」


 そんな言葉が欲しい訳じゃないのに、それだけ言うと先輩は体育館を出ていってしまった。後を追いかけようと足に力を入れようとしたが、どうにも上手く力が出なくて、結局追いかけそびれたまま、足元に転がっていたボールを拾う。

 一つ、二つ、とドリブルをしながら岳斗はどうすればいいのか考えていた。

 

 翌日のバスケ部の練習に、野村先輩の姿はなかった。主将の大貝先輩からは「私用」だと説明されたが、それがどんな用事なのかについては特に言及されなかった。誰もが「またいつものか」と思っただけだろう。

 これまで岳斗は定期的に野村先輩が部活を休むことを、それほど深く考えたことはなかった。色々忙しい人のようだし、特に体調が悪くない日に早退したりと、何かと私用で抜けることがあった。

 けれどいざ冷静に考察してみると、何故あのバスケットボールに対して真面目な姿勢を持っている先輩が、こんなにも度々部活を休むのだろうか。それはやはり家のことと関係しているのではないだろうか。それこそ高校卒業と同時にバスケを辞めることになるという噂も無関係ではないだろうし、もし関係あるならその信憑性も高くなる。

 岳斗はボール拾いをしながら、ずっと野村先輩について考えていた。

 その日の練習終わり、顧問の巻島先生から週末の秋季大会についてレギュラーとベンチメンバーの発表があった。残念ながら岳斗の名前はその十五名の中には含まれていなかったけれど、補欠として一年から五名、選出された中に「雪見岳斗」の名前があった。

 自分の名前が呼ばれた時には嬉しさもあったが、それよりもレギュラーメンバーに名を連ねる野村先輩がこの場にいないことに対して誰も何も思わないのだろうかと、そちらの方が気になった。

 教室に戻り、鞄を手にしてみんな慌ただしく校門を出る。


「なあ、特待生はどうする?」


 吉沢が聞いたのは、この後、みんなで決起会と称して巻島先生の奢りでラーメンを食べることについてだ。


「今日はちょっと」

「何だよ何だよ。特待生君さ、こういう時は素直に付き合うもんだよ?」

「あ、いや、野村先輩がさ」

「ああ、源ちゃん先輩ならいたとしてもいつも来ないし、なんか外でラーメンとか食うの禁止されてるって聞いた」

「それ、なんで?」

「さあ」


 あまりに付き合いが悪いからそんな風に思われているのだろうか。それなら益々、先輩に話を聞く必要がある。


「それよりさ、吉沢君。野村先輩の家、知ってる?」

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