第4話
その日は居残り練習を早めに切り上げ、いつもより一時間も早くアパートへと戻ってきた。少し時間帯が違うだけで景色まで違って見える。
寮の玄関を潜ると賑やかな声が聞こえてきて、おそらくちょうど食堂で特待生の野球部員たちが晩ご飯を食べているところなのだろう。以前ならそれを聞きながら自室に引きこもり、彼らの声が去ってしまってから食堂に顔を出していた。
けれど今日はそんなことよりも早くご飯が食べたくて、急いで部屋に荷物を置いてくると、真っ直ぐに食堂に向かった。
「あら、今日は早いのね」
入ったところで目が合った津森さんが岳斗の姿に少し驚いている。彼女は二つ並んだ大きな炊飯ジャーから野球部の連中の茶碗にお替りを入れているところだ。
長机には十五名の、おそらくは全員野球部と思われる髪の短い生徒たちがケタケタと笑いながら雇用のメニューのソースカツを頬張っていた。彼らは一瞬岳斗を見たが、すぐにまた話の続きをして笑う。内容はテレビの芸人についてのようだ。岳斗は部屋にテレビがなく、それ以前に元々あまり見ない方だったので、名前を聞いてもよく分からない。
プレートを手に取り、準備された皿や容器を一つ一つ載せていく。ご飯と味噌汁のお替りは自由だ。
ただこうやって並べてあるところから手に取って準備をするのは久しぶりで、いつも最後になる岳斗の分はプレートに全てセットされた上にラップが雑に掛けられていた。
一番端の席に座り、手を合わせる。
いつもより運動量は少ないはずなのに体は食べることを求めていた。こんな気分、高校に入ってからはなかったものだ。
味噌汁を啜る。湯気で目の前が真っ白になるくらい熱々で、いつもは冷えてしまったものを我慢して飲んでいた。中身は小さなワカメや揚げ、椎茸が申し訳程度に入っているだけだけれど、それでもコンビニでたまに買うインスタントのものに比べるとやはりこちらの方が旨い。
続いてソースカツにかぶりつく。肉は鶏肉で、けれどソースの味がよく絡んでいるからパサパサしていても全然気にならない。沢山の食べざかりの学生に食わすのだから、これで充分だ、という大量のソースだけれど、それがまた美味しい。何杯でもご飯が食べられそうだ。
「もう、大丈夫なのかい?」
津森さんだった。
「はい。お陰様で」
「あの、野村とかって、あんたたちの先輩がさ、たまには良いもの食わせてやって欲しいってすき焼き用の肉を届けてくれたんだけどさ、使ってもいいかしらね」
どこまであの先輩は気が利くのだろう。
「使ってあげた方が先輩も喜ぶと思うんで、是非」
「そうかい。一応、あんたには聞いた方がいいかなって思ってたから。じゃあ、明日は期待して、早く帰っておいでね」
「はい。ありがとうございます」
その後、珍しく津森さんの方から空いたご飯茶碗を見て「お替りいるかい?」と声を掛けてくれた。「じゃあ、少しだけ」と照れくさそうに岳斗は茶碗を差し出したが、先輩が来てくれたことでこんなにも自分の生活が変わるなんて想像すら出来ず、尊敬や憧れを超えて、まるで神様のように両手を合わせて拝んでしまった。
風呂も他の野球部の人たちと同じ時間帯になったが、特に何を言われることもなく(最初の頃はもっと異物を見るような視線を向けられたように感じた)、ゆっくりと熱い湯船に浸かり、疲れを癒やした。
この日は体も心もぽかぽかとして、寝付きも早かった。
だからだろうか。夢を見た。懐かしい中学の体育館。そこであの頃やっていたように一人残ってひたすらスリーポイントシュートを打っている。転がったボールをキャスター付きの籠に放り込んで回収すると、またスリーポイントシュートを練習する。
そのボールが綺麗に孤を描いてゴールネットを揺らした時だった。拍手が背後から聞こえた。振り返ると、野村先輩だ。先輩はユニフォーム姿で微笑みながら何か言っている。けれど声は聞こえず、よく分からない。それでも夢の中の岳斗は分かっているのか、近づいてきた先輩にボールをパスし、そこから一対一を始める。
当然先輩のドリブルは上手くて、手を伸ばしても足を伸ばしても止められず、何本もレイアップシュートを決められてしまうのだけれど、逆に自分が攻撃する側に回ると距離の取り方や体の角度、何よりも普段は優しく見える先輩の対峙した時に初めて分かる威圧感が、岳斗のドリブルを鈍らせ、カットされてしまう。
現実では一度として先輩とワン・オン・ワンはしたことがない。
全然敵わないし、一年経ってもそのレベルになれるとは思えなかったけれど、一緒に練習が出来るのは嬉しかった。たとえそれが夢の中でも、一つのボールを奪い合い、時には体をぶつけながらゴールを狙う。
以前はそういう接触プレイやディフェンスの時間、そういうものが嫌いだった。
それなのに、先輩と一緒だと楽しい。楽しくて、いつまでもこの時間が続けばいいと思った。
明け方、まだ日が昇ったばかりの時間帯に目覚めてしまって、思わず自分の体に触れる。何だか熱くて、また風邪がぶり返したのかと思ったけれど、体温は普通だった。テーブルの上のスマートフォンが光っていたので見てみると、野村先輩からLINEが届いていた。そういえば見舞いに来た日に連絡先を交換しておくとか言われたような気がしないでもないが、本物だろうか。
メッセージは単純で「明日の朝練、ちょっと顔出す」だけだった。
毎日朝練をしていた訳ではなかったけれど、そんな風に言われたら行かないという選択肢はない。
一番に食堂に顔を出し、津森さんに苦笑されながら朝食を終えると、手早く準備をして寮を出る。
まだ七時を過ぎたところで、それでも公園やバス停に小学生や中学生の姿がちらほら見える。早めに通勤する会社員が足早に歩いていて、ゴミ置き場にゴミ出しをしているおばさんや家の前の掃き掃除をしているおばあさん、ジョギングをするおじさん等、活動的な朝の空気を感じながら、軽快な足取りで学校に向かった。
気分が良かったからか、いつもより五分以上早く学校に着いてしまった。校門は開けられておらず、警備員に言って隣の通用口から中に入らせてもらう。顔馴染みの警備員は、名前を知らないものの、いつもニコニコと対応してくれる良いおじさんだ。
ジャージ姿のままだったので、教室に鞄だけ置いて、急いで体育館に向かった。
重い扉を開けると、中でボールを突く音だけが響いていて、それが一瞬消えたと思ったら、次の瞬間にはゴールネットのパシュという綺麗な音に変わった。
野村先輩だ。スリーポイントシュートラインより遥かに遠く、センターライン近くからゴールを狙っている。
「ああ、雪見。来たのか」
「おはようございます。先輩が朝練って珍しくないですか?」
結構な頻度で朝の自主練習をしているが、そこに野村先輩の姿があったことはない。
「いつもは途中の公園でやってるからな。それに二年になってから色々忙しくて、二学期は今日が初めてだ」
「そうだったんですか」
岳斗は道中の公園にバスケットゴールがあったかどうか思い出そうとしたが、記憶が曖昧であったともなかったとも言えない。そもそも先輩の家はどこなのだろう。少なくとも岳斗のように遠方からこの高校に入学した訳じゃないから、やはりどこか近所に家があるのだろうけれど。
「あの、LINE見ましたけど、一緒に朝練しようってことですか?」
「まあ、そうでもあるし、そうでないとも言えるが」
先輩は奥歯に物が挟まったような口ぶりでシュートを放つ。だがボールはゴールの枠に弾かれ、岳斗の足元へと転がってきた。それを拾い上げると、先輩はふっと力が抜けたように笑い、岳斗の方へと歩いてくる。
「雪見、ちょっとそこからシュートしてみてくれないか」
そこ、と指差したのはスリーポイントラインだ。ゴールに向かって四十五度。確か先輩が一番得意とする角度だった。
「は、はい」
一度呼吸を落ち着け、それから手にしたボールを額の上に構える。ゴールを見て、ゆっくりと飛び上がり、リリースした。自分ではいつも通りにやったつもりだったけれど、やはり先輩の視線が気になったのだろう。余計な力が入ったようで、真っ直ぐには向かわず、やや左側に逸れていった。
「その打ち方、自分で練習している時は無意識だろう?」
「打ち方?」
そんなに変わったシュートフォームをしているつもりはないし、中学、高校でも誰かに指摘されたことはなかった。けれど先輩はまじまじと岳斗の体を見て「もう一度やってみろ」と言う。怪訝に感じつつも、同じように軽くジャンプしてシュートを放つ。今度は真っ直ぐゴールに向かっていったが枠に弾かれて入らなかった。
「もう一本」
先輩はそう言ってから岳斗の背後に移動した。真後ろから見るらしい。背中に何とも言えない緊張感が走る。同じように、と心がけてシュートを打つが、とても平常心ではいられない。
「もう一本だ」
何が目的なのだろう。フォームも何も無茶苦茶で、それなのに今回だけはボールがゴールに吸い込まれた。
「わかった」
「あの……何なんですか」
「まあ、見てろ。これが最初の雪見のシュート」
そう言うと、先輩は足元のボールを拾い上げ、派手に飛び上がってシュートを放つ。放物線は大きくてバックボードに当たってからゴールの枠の端に跳ね、ボールは落ちてしまう。
「次が最後のシュート」
一番不格好だと思ったやつだ。先輩は笑みを浮かべ、それから軽く飛び、シュートを放った。それはいつも先輩が放っている放物線に近く、綺麗にゴールへと吸い込まれていった。
「分かるか?」
「いえ」
「考える気ないだろ。もう一度見てみるか?」
そう言うなり、また二つのやや異なるフォームでシュートを打った。岳斗は先輩が何を伝えようとしているのか必死に読み取ろうとその背を、腕を、表情を見つめたけれど、何度も見ているうちに顔の高さが変わっていることに気づいた。顎の位置、というべきか。
「頭の位置が、違う?」
「頭というか、もっと分かりやすく言うと、ジャンプだよ」
その一言で目の前がすっと開けた。確かに一本目は思い切りジャンプし、その頂点でボールを離していた。対して二本目は緩いジャンプで飛び上がる勢いと同時にボールが離れていた。
「今やったのは大げさだが、いつも見てて感じてたのは雪見、お前ちょっとがんばりすぎなんだよ。ジャンプを高く、その頂点でシュートを打とうとしている。たぶん一人で誰の指導も受けずに練習を続けてきたから自然と身についたんだろうが、ジャンプをし切ってから打つと体が伸びてしまっていて、腕が上手く動かない。それこそ手首のスナップだけでゴールを狙うことになる。よほどリストが強いならそれでもいいが、雪見はそういうタイプじゃないだろう?」
「ええ」
「ジャンプシュートになっているのは肩の力を補う為だ。だとすればそのジャンプの力もボールに上手く乗せた方がいい」
先輩は自分の手にしたボールを渡すと「やってみろ」と言う。
岳斗は自分の手にあるボールを一度見つめ、それからふっと息を抜いてからゴールに顔を向ける。ボールを右手に乗せて持ち上げ、ゆっくりと飛び上がり、そのまま右手をリフトさせる。ずっと見ていた野村先輩のフォームを思い描きながら、ボールをリリースした。
その瞬間だけ、音が消える。
ボールがゴールネットを揺らして落ちると、遅れて先輩の拍手が響いた。
「今のだ。良かったと思う」
「あの」
「ん?」
「ありがとうございます。ずっと、見ててくれてたんですね」
「あ、いや。俺は別に」
別に、何だろう。岳斗は先輩の表情を覗き込むようにしたが、先輩は視線を逸らすと「さあ、今の感覚忘れないうちに練習しとけよ」そう言って、新しいボールをパスし、体育館を出て行った。
わざわざアドバイスをする為に朝練に付き合ってくれたのだろうか。
そんな先輩の優しさによく分からない涙が滲み、岳斗はシュート練習に戻った。
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