第3話


 ただの風邪で三日も学校を休んでしまった、という罪悪感を抱えながら学生寮から高校までの道のりを三十分掛けて歩く。足取りはそれなりに回復していたけれど、また元のような学校生活が始まると思うと少し憂鬱だと岳斗は感じていた。

 校門の前にはいつも教師が立って生徒に「おはよう」と声掛けをしているのだけれど、今日はその担当が担任でバスケ部顧問の巻島先生だった。それがまた余計に岳斗の心理的プレッシャーを後押しする。


「おう、雪見。もう大丈夫か」

「あ、はい。お陰様で」

「ま、無理しすぎるな。何かあったら言うんだぞ?」

「ありがとうございます」


 いつもなら「風邪ぐらいで休むな」と言いそうな先生が意外に優しくて驚いた。岳斗は頭を深々と下げながら校門を潜ると、登校する生徒の群れに飲まれるようにして生徒用玄関へと向かっていった。

 下駄箱で上履きに履き替えるが、他の生徒たちは互いに見知った顔を見つけるとあれこれと声を掛け「今日の数学、宿題まだなんだ」等と友だち特有のノリを披露している。岳斗にはそういったものは一切なかった。中学の頃が少し懐かしい、と思うのはこういう瞬間だ。もっと自分から何かアクションをする必要があるのだろうが、なかなかその緒は掴めないままでいる。

 階段を上り、二階に向かう。廊下には生徒たちの姿があり、楽しそうに喋っているが、その生徒たちと何となく視線が合ってしまうと微妙な気まずさが生じてしまう。別に互いに他意はないけれど、声に出さず会釈だけして二組の教室に急いだ。

 入口の席のところにいつも数人が集まっていて、その後ろをすり抜けるようにして教室に入る。既に半分程度の生徒が登校していて、思い思いの時間を過ごしていた。大抵は仲の良い連中で島を作り、アニメや漫画、スポーツの話、昨日見たテレビや配信について語り合っている。

 岳斗の席は窓側の三列目で、そこに向かおうとしたところで「おい」と声を掛けられた。同じバスケ部の吉沢だ。左目が隠れそうなほど前髪が垂れているがいつも全く気にする様子がない。


「ひどい風邪だったって聞いたぜ。大丈夫か?」

「あ、うん。ありがとう」


 何度か挨拶くらいはしたことがあるけれど、今までこんな風に声を掛けられたことはない。どういう意図があるのだろうかと顔色を伺いながら岳斗は自分の席に座ると、それに呼応したように吉沢も友だちの島から離れてやってきて、空いていた前の椅子に反対向きに腰を下ろす。


「特待生も大変だよな」

「え?」

「いや、あの、源ちゃん先輩に言われてさ、なんかこう、いつも一人で真面目にこつこつ練習してる姿見ててこっちも勝手にスポーツ強豪校のエリート部員みたいなの想像してて、オレらもなーんか近寄りがたいっつーか、そういう雰囲気感じ取ってあまり声掛けないようにってなってたんだわ。けどよく考えたら地方の学校から一人でこっち来て、周りに友だちとかもいないし、寮とはいえ一人暮らしみたいなもんだろう? そりゃいつかは倒れるわなって話よ」


 吉沢は照れくさそうに鼻の頭を掻いて笑う。彼の言葉の中の情報量の多さに目眩がしたが、それでも野村先輩が何か言ってくれたんだということだけは伝わった。


「特待生ってさ、実家を離れて一人暮らしなんだよな」

「うん、そうだけど」

「料理とか洗濯とか、どうしてんだ。やっぱ、自分でやんなきゃなのか?」

「食事は朝と夜は寮母さんがいて、みんなに同じものを作ってくれるけど……」

「寮母さん! いい響きだなあ」


 きっと吉沢の頭の中のでは彼の理想の優しく美人な女性が思い浮かんでいることだろう。何とも緩んだ表情をしている。だから津森さんがどんな人なのかについて話すことは控えておこうと思った。


「まあ、なんだ。そういうことで、これからも遠慮なく、何かあったらお互いに色々助け合おうってことだ。源ちゃん先輩もそう言ってた」


 吉沢は右手を差し出し、強引に握手をすると、満足したのか、自分の席へと戻っていった。

 岳斗はその右手の慣れない感覚が残るのを何度か握り締めながら、野村先輩が言っていたことを思い出す。バスケは一人じゃできない。チームスポーツで、一人だけで戦ってる訳じゃない。今はまだそれが実感としてよく分からないけれど、助け合うってことを少し考えられるようになると、もっと変わるのだろう。

 先輩の優しい眼鏡の表情を浮かべ、岳斗はそっと感謝した。

 

 小学校や中学校と違い、高校は給食なんてものはない。昼休みともなれば、それぞれ持ってきた弁当だったり、購買部やコンビニで買ってきたパンやパスタ、カップ麺なんかの、様々な臭いが教室に流れる。それを思い思いの友人たちと一緒に食べるのだけれど、岳斗には当然、そんな同級生の一人もいない。

 そのはずだった。


「特待生はいっつもそのクリームパンだな。好きなのか?」


 吉沢が弁当を広げ、岳斗の席の前で、こちらを向いて座っている。


「五個入りで、安いし」

「アンパンも同じだろ?」

「あんこ、苦手で」


 そう答えると吉沢は岳斗の顔を覗き込むようにしてから、ぷっと吹き出した。


「何かおかしい?」

「クリームもあんこも甘いのは同じだろ? 全然違いが分からねえ」

「いや、クリームは滑らかだし甘い以外にも満足感ていうか、そういうのがあるけど、あんこはパサパサして、なんかそういう煮物を食べている気になるから」

「煮物? カボチャとか、ああいうのか。へえ。そんなこと言う奴はじめてだよ」


 感心したように頷きながら吉沢は弁当箱から肉巻きを摘んで、それを一口で食べる。他にも胡麻和えやキンピラ、卵焼きと、何とも和風な内容の弁当だ。それを見ながら岳斗は中学時代、土日に部活がある時に母親が作ってくれたものを思い出す。大きな弁当箱にこれでもかと白米が詰め込まれ、そこに海苔や鮭のフレーク、梅干しにおかか、高菜漬け、そんなものが並べてあるのが常だった。美味しくてお腹がいっぱいになったけれど、忙しい中で弁当用のおかずをいちいち準備できない母親の苦肉の策だった。だから他の人の弁当箱に並ぶ綺麗なおかずたちを、いつも羨ましく見ていた、その感情を、思い出していた。


「ほら」


 と、吉沢が卵焼きを一つ、岳斗のクリームパンの袋の上に置いた。


「え? いいの?」

「それだけじゃ力出ないだろ? 病気明けだし」

「ありがとう」


 指で摘んで口に運ぶ。ほろりと解け、優しい甘さが広がった。


「うちの、少し砂糖が多いんだよ。オレはさ、こういうのじゃなくて塩胡椒くらいで純粋に卵の味が楽しめる方が好きなんだけど」

「おいしいよ?」

「そうか。なら、良かった」


 どうして急に一緒に昼食を食べる気になったのか。それを尋ねようと思ったけれど、その考えをやめた。きっとそれは無粋というものだ。野村先輩に言われたこともあるだろうし、吉沢自身、何か思ってのこともあるだろう。何より卵焼きは美味しかったし、いつも味気ないクリームパンをさっさと口に入れてしまって眠ったふりをするだけだった昼食の時間が、少しだけ楽しいと感じたのだから。

 

 その日のバスケ部の練習は、岳斗が顔を出したところで同じ一年の部員たちが一斉に「大丈夫か?」「風邪、つらいよな」「大量管理大事だからなあ」等と言ってきてくれて、これは本当に野村先輩の一声の偉大さだと感じた。


「もう、大丈夫です。色々心配していただいて、ありがとうございます」


 岳斗はみんなの前で頭を下げる。なんだか背中がむず痒い。


「まあ、俺たちも倒れるまでとはいわないけど、雪見君みたいにがんばらないといけないんだけどな」


 確か竹村という名だったと思う。長身でひょろっとした彼が苦笑を浮かべた。岳斗もそれに合わせるようによく分からない苦笑を浮かべたが、それで労いの輪はバラバラになり、思い思いにバスケットボールを手に取り、シュート練習やドリブル練習を始めた。岳斗も手にしていたモップで最後のコーナーを拭き終えると、用具入れに戻し、急いでボールを手に取る。

 と、そこに野村先輩がいた。


「調子は、悪くなさそうだな」

「はい。パン粥のお陰です」

「あれ、俺が作ったので、大丈夫だったか?」

「はい。とても美味しかったですし、何より、染みました」

「染みた?」

「ええ。先輩の優しさが、温かさが、何より、自分は一人きりじゃないんだなっていう安堵感が、助けてくれました」

「お、おう」


 岳斗が正直な気持ちを告白すると、珍しく先輩は視線が彷徨い、後頭部を掻きながら俯いた。


「ま、一人でがんばりすぎんなよ」

「はい」


 先輩と見つめ合い、互いに照れくさそうな笑みを浮かべ合った。その間、二秒ほどだろうか。すぐに先輩は別の後輩に呼ばれ、行ってしまった。

 岳斗は籠からボールを取り出し、何度かドリブルをする。四日も練習を休んだことがなかったから床に跳ねたボールが何だかうまく手に馴染まない。それでも、そのままゴールまで少し近づいていって、一度ボールをホールドしてから、軽くジャンプした。その頂点近くで右手首に力を入れ、ボールをリリースする。放物線を描いたボールはゴールの後ろ、バックボードにぶつかって大きく跳ね、枠にすら触れないまま床に落下した。

 それでも、何故か嬉しかった。またバスケットボールの練習が出来る。


「おい、これ」

「ありがとうございます」


 二年生の先輩が転がったボールをパスしてくれた。

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