第2話


 おそらく風邪だろう。全身の気だるさにこの熱。体温計で測ってみると三十八度近くある。昨夜シャワーをしたまま髪も乾かさずに寝てしまったのがいけなかったのだろうか。そうでなくても最近帰ってきて何とか食事だけ貰い、そのまま寝てしまうことも多かった。体調管理に気をつけないといけないと、一人暮らしをすることが決まった時に両親や姉、兄たちから口うるさく言われたものだが、少しくらい無理をしても大丈夫だろうと高を括っていたのがいけなかった。

 今日は一日寝ているしかないだろう。でもどうせ体調崩すならせめて明日まで待ってくれれば良かったのに、何故よりによって今朝なのだろうと、岳斗は自分の不運を少しばかり呪った。

 今日は大事なレギュラーメンバー選考会がある。バスケットが好きで練習だけしていればいいという人もいない訳じゃないだろうが、やはり選手として試合に出て活躍したいというのは誰しもが持つ思いだ。岳斗だってベンチメンバーでもいいから、試合に参加したい。何よりシュートを決める快感は練習のそれよりも遥かに試合本番でのものの方が圧倒的だ。ボールがゴールに吸い込まれる、あの瞬間。ネットとボールが擦れ合うしゅっとした音が響き、観客席から歓声が上がる。それを耳にすると体中の血が騒ぎ出して、自然と笑顔が溢れてしまう。

 あの瞬間を経験したくてバスケットボールを続けているようなものだと、岳斗は思っている。

 登校時間は既に終わり、学校ではそろそろ授業が始まる頃だ。担任の巻島先生に連絡を入れないといけないだろうが、テーブルの上に置いたスマートフォンまでの距離がどうにも遠い。岳斗は目を瞑り、熱っぽい息を吐き出して仰向けになった。

 

 どれくらい寝ていたのだろう。ドアがノックされる音で目覚めた。

 頭だけ動かして入口に視線を向けると微かに開いたところから寮母の津森さんのむすっとした顔が見え、続いて彼女のものではない声がした。


「ええ、後はこちらでやりますから。ありがとうございます」


 入ってきたのは野村先輩だった。制服姿で、手にしていた鞄を足元に置くと「大丈夫か?」と、いつになく優しい声を掛けてくれた。


「どう、して」

「ん? 風邪なんだろ?」

「けど、誰にも……」


 言ってないのに――という言葉は声にならない。熱が上がってきたのか、岳斗は目蓋が重くなり、胸が苦しいと感じていた。


「見てれば分かるよ。最近体調崩してただろう? 昨日だって声がおかしかった」

「そんなこと、で?」

「そんなことかも知れないが、そういう些細な変化っていうのが一番気をつけなきゃいけないんだ。いつも言ってるだろう? 体調管理は自己管理の第一歩だって。若いから無茶が通じるなんてのは昭和までの話で、俺らはそんな時代錯誤な感覚持たなくていいんだよ。辛い時は辛いし、苦しい時は苦しいし、泣きたかったら男でも女でも関係なく泣けばいい」


 どうしてそんなに優しく出来るのだろう。岳斗は泣くつもりなんてなかったのに、自然と視界が滲んでくるのを感じていた。


「あ、そうだ。これ置いとくけど、ちょっと待ってろ」


 置いておく、と言ったのはコンビニの袋に入ったものだ。何か買ってきてくれたのだろう。部屋には一人暮らし用の小さな冷蔵庫があるが、ほとんど何も入っていない。辛うじてスポーツ飲料とお茶のペットボトルがあるくらいだ。

 先輩が出て行くと、岳斗はようやくひと心地ついて、落ち着いて考えることが出来るようになった。

 何故野村先輩が来たのだろう。何故岳斗の住んでいる場所が分かったのだろう。何故部屋に入って来られたのだろう。そもそも何をしにやってきたのだろう。

 先輩がここを訪ねてくる、と思っていないからそんな単純な疑問が次々と浮かんできては消えていく。思考もままならない。けれど一つ一つを丁寧に考えてみると、誰もに優しい野村先輩なら部の後輩が風邪を引いたかも知れないという情報さえ耳に入れば、これくらいのことはするのかも知れない。特待生としてこの高校に入ったことは知っているし、特待生用の学生寮の場所だって聞けばすぐに分かる。寮母の津森さんに会えば岳斗の部屋だって教えてもらえるだろう。守秘義務があったとしても同じ学校の生徒、それも人当たりの良い野村先輩に対してあれこれ教えてはいけない、とは思わないだろうし、そういうことを合わせれば野村先輩が岳斗の見舞いに訪れたとしても何も不思議はない。

 いや、不思議だ。今までこんな風にあれこれと声を掛けてもらったことなんてないし、同じ部とはいえ、近くで話したこともない。いつも岳斗が一方的に憧れて遠くから見つめているだけの関係なのに、わざわざ見舞いに訪れるのは優しいという言葉ではとても説明出来ない。

 そんな風に岳斗があれこれと考えながら更に熱を上げていると、


「おまたせ」


 先輩が肩でドアを開けながら入ってきた。両手で小型の土鍋を持っている。鍋掴みはクマになっていて、何だかそれが可愛らしい。


「寮とはいえ、ちゃんと食ってるかどうかは別だしな。お腹、空いてるか?」

「え、ええ。たぶん」

「熱は?」

「まだ測ってません……」

「じゃあ先に測るか」

「でも体温計、なくて」


 先輩は苦笑して岳斗を見ると「ちょっと待ってろ」と、再び部屋を出ていく。土鍋はテーブルの上に置かれていたが、蓋の隙間から湯気が立ち昇っていた。一体何を作ってきたのだろう。病気の時というとお粥が定番な気がする。


「借りてきた」


 部屋に戻った先輩の手には十センチほどの小型のデジタル体温計があり、ベッドの傍まで来ると「ほら、脇」と先輩は岳斗のパジャマの襟首を引っ張り、その間から体温計を突っ込んだ。


「冷たっ」

「測り終えたら、食わしてやるから」


 体温計を挟んだところが、何だかどくんどくんと脈打つのを感じた。

 どうしてそんな風に優しく微笑んでくれるのだろう。


「それ、何ですか」

「小さい頃な、俺もよく体調崩して風邪で寝込むこと多くてさ、その時に唯一母親が作ってくれたものだよ」


 学生服の上からでは分からないけれど、先輩の胸筋や背筋、上腕筋などはかなり鍛えられていて、太くはないが実用的なマッチョさがある。岳斗も少しくらいは鍛えないといけないと思いつつも、バスケットの練習でいっぱいだった。

 小さな電子音が鳴り、体温計を引き抜くと「見せてみろ」と先輩は毟るようにそれを岳斗から取った。


「三十七度八分。これで今日、どうするつもりだったんだ?」

「寝てれば治るかなって」

「何も食べずに? 薬は?」

「全然。持ち合わせ、なくて」


 先輩は大きなため息に続き、こう尋ねた。


「誰かいないのか。こういう時に頼れる奴」

「友だち、いなくて。こっちに」

「もう九月だぞ……って。俺もお前のこと言えた義理じゃないか」

「そんなこと。先輩はいっぱいるでしょう、お友達」

「さあ、どうかな」


 意味深な笑みを見せながら先輩は鍋の蓋を取ると、その中身を小皿に取った。白くどろりとした、何かだ。ただご飯とは違うのは分かった。


「パン粥。食べたことあるか?」

「パンのお粥ですか。いえ」

「これがな、上手いんだ」


 そう言うと先輩はベッドの傍までやってきて「食え」とばかりにスプーンで掬ったその湯気を立てる白いものを差し出す。岳斗は「猫舌なんです」とも言えずに、どうしたものかと戸惑っていると、


「食欲ないか?」

「あ、いえ、そういう訳では……少し、熱そうだなって」


 折角作ってくれたのにそんなこと言って申し訳ないと感じつつも小声で言うと、野村先輩は珍しく大きな声を上げて笑った。


「何だよ。食べたくないもの作っちゃったかと思ったじゃないか。それなら最初から言ってくれれば」


 そう言うなり、唇を少し尖らせ、スプーンの上のものに息を吹きかけた。ふう、ふう。ふう、ふう、とやる度、湯気が岳斗の顔の方へと揺らぐ。


「べ、別にいいですよ。自分でやれます」

「病人なんだから無理すんな。いいから」


 けれど先輩は岳斗が言うのも気にせず、何度も吹いて、それからゆっくりとスプーンの先を岳斗の唇に近づけた。


「食べてみろ」

「あ、はい」


 言っても聞かないだろうと思い、岳斗は素直に言われるがまま、乾き気味の唇を開けてそれを受け入れた。舌先に熱が伝わる。


「まだ熱かったか?」

「あ、いえ」


 大丈夫です――という声は続かなかった。口内に入ってきた甘みと温もりが鼻まで抜けて広がり、岳斗の体に染み渡る。ゆっくりと口を動かして咀嚼し、それを飲み込むと、


「うまい」


 と自然と言葉になっていた。


「だろう?」


 その言葉に先輩は嬉しそうに次の一杯を掬う。また同じように吹き冷まして食べさせてくれようとしたので、岳斗は今度こそ「自分でやれます」と主張して、先輩からそのスプーンを受け取った。何度か吹き、唇に近づけて適温になったと分かったら、口に入れる。ご飯のお粥とは異なり、こういうどろりとした触感のお菓子を食べている気分だ。それが美味しい。甘みも甘すぎず、優しい甘さで、それこそまるで野村先輩そのものを食べているようにも思える。


「いつも一人で居残りシュート練やってただろう。練習するのはいいんだ。寧ろ他の一年ももっと自主練した方がいいと俺は思ってる。地道な練習が技術向上には一番だからな。けど、無理はしちゃいけない。無理は自分にもそうだが、最終的にチームに迷惑を掛けることになる。ほんとは俺がもうちょっと早くに声を掛けてやれてたら良かったんだろうけど、どうにも人が苦手でな」

「先輩が、人が苦手?」

「笑うなよ。これでも結構頑張ってるんだよ。小さい頃なんてほんと笑顔を知らないんじゃないかと思うくらい、常にむすっとしてたぞ」


 仏頂面の少年を想像して、岳斗は含み笑いをしてしまう。


「だから笑うなって」

「あ、すみません」

「いや、そこまで恐縮しなくてもいいよ。ほんとさ、今でこそみんながよく思ってくれるように振る舞っているけど、そうなれたのもバスケがあったからなんだ。バスケ、好きだろ?」

「ええ」


 あまりに当たり前の質問すぎて何が言いたいのか分からなかったが、とりあえず頷いておく。


「俺もさ、バスケ好きでさ、でも始めた頃はシュートが入るとか、ドリブルができるとか、一人抜いたとか、そんなことが楽しくてさ、バスケットボールというスポーツそのものが好きって訳じゃなかったんだよな、今思うと。バスケってさ、一人じゃ出来ないんだよ。ワンオンワンでもスリーオンでも何でもいいけどさ、やっぱり誰かと、あるいはチームとやるスポーツなんだ。一人でいくら上手くたってそれはバスケが上手い訳じゃない。本当に上手い奴らは二人ついてても抜いていったり、そこ? ってところにパス出して得点に繋げちまう」


 ええ、と相槌を打つのがやっとで、けれど先輩は岳斗の戸惑いなんて気に掛けず、一気呵成に捲し立てる。


「自分一人でシュート決めた時もそりゃ嬉しいけど、やっぱりさ、味方と連携で相手を崩して決めた得点っていうのは喜びが一入で、その先にある勝利っていうのがまた格別なんだ。雪見だって、そういう勝利、中学の時に経験したんだろう?」


 興奮気味に話す先輩の、眼鏡越しの瞳がキラキラとしていて、普段遠くから見つめている先輩ってこんな風にバスケについて語るんだとか思いながらパン粥を食べていると、突然自分に話題が振られたので答えようとして噎せてしまった。


「大丈夫か?」

「え、ええ。先輩が言うその気持ち、みたいなもの、分からなくはないです。でも、まだそこまでは考えられなくて。自分のことばかり、必死で……」


 中学の頃だって「チームで」という気持ちは湧かなかった。仲間とバスケをやる楽しさはあったが、それと自分が得点を決める楽しさは同等か寧ろ自分が決めた時の方が勝っていて、同意したものの、どこか嘘をついたような気もして、素直に喜べない。


「まあ、まだそうかもな。けど雪見もそのうち分かる時が来るよ。うちも、県内のトップクラスと比べたら全然だけど、それでも粒揃いだし、俺だってもっと上手くなる。でも上手い奴らなんて本当に山ほどいて、自分一人じゃどうにもならないって感じる瞬間が必ずあって、そういう時にさ、チーム力っていうのを感じるんだ。ああ、一人じゃない。自分だけで戦ってるんじゃないって」


 先輩とそんな関係になれたらいい、という思いはあった。けれど今の岳斗の実力ではまだまだ一緒に出場するに足りないだろう。そもそもレギュラーどころかベンチ入りすら出来ていない。

 だからこそ今日の仮メンバー選定会にはどうしても出て結果を得たかった。それなのに、何故自分の部屋で先輩に作ってもらったパン粥を食べているのだろう。

 考えたら涙が滲んできた。


「雪見。俺、語りすぎた。バスケのことになるとつい熱くなっちまうんだ。今のお前が苦しい立場だって分かってるから、余計に何か言わなきゃって思っちゃってさ。でもそういうの、重荷だよな」

「いえ、いいんです。言ってもらえるだけでありがたいですから。それに応えるか応えられないかは、ぼく自身の問題ですから」

「まあ、とにかくさ、言いたいのは、もっと俺たちを頼れってことだ。一人で頑張るのは限界がある。でも助け合って頑張るのは一人でやれることを超えていける。そういうことだ」


 はい――という呟きは声にならなかった。先輩の温かく優しい声に、岳斗は溢れるものを止められず、鼻を啜り啜り泣いた。男だとか、みっともないとか、そんなこと考えられずに、体を震わせて泣いた。

 パン粥を半分ほど食べ終えると、先輩は「後でプリンも食べていいから。今はゆっくり休め」と言い、部屋の隅で丸まっていた洗濯物たちを洗濯機へと放り込んできてくれて、更には床に置いたままだった教科書や文庫本、マンガなんかも棚に整理して、クリーナーを借りてきて簡単に部屋の掃除までしていってくれた。空腹も心の隙間も満たされた岳斗はその全てを見届ける前に眠くなり、ベッドの上で寝てしまっていたけれど、夕方になって目覚めるとテーブルの上に『片付けておいた』というメモ書きを発見して、それが判明した。

 そのカードの隣に置かれていた風邪薬を開けると、冷たくなったパン粥の残りを幾らか小皿に入れて、食堂の電子レンジを借りて温めた。時間の経ったパン粥はそれでもやはり甘くて美味しく、プリンまでご馳走になってから薬を飲み、その日は入浴することなく就寝した。

 こんなにも温かい気持ちで布団に潜り込めたのはいつ以来だろう。

 岳斗はそれから三日間、ゆっくりと体と心を休ませた。

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