第2話歪み姉ぇ

「ただいま……」




 下校してスーパーに立ち寄り、その日の晩に食べる予定のボロネーゼの材料を満載したビニール袋を持った俺が御厨家の玄関に入ると、「あら、おかえり」という鈴を転がす声が聞こえてきた。


 その巨大な栗色の髪の、三編みの後頭部は――この家の次女、御厨林音りんねのものだった。


 林音はブレザー姿のまま、居間に膝をついたままテレビを見ていたようだった。




「ああリン、今日は生徒会なしか?」

「ええ、色々大変な時期だからね。密は危険だって」

「そうか……大変だな生徒会も」

「それはそうと、ジン君は買い物の帰り?」

「ああ、フーに今日はパスタがいいって言われたから」

「あら、悪いわね。フー姉さんにはあんまり好き嫌いするなって後で言っとくから」

「いや、それはそうなんだけどな……」




 そう言うぐらいならアンタたちが積極的に家事をしてくれればいいんだけどな……。


 俺は喉元まで出かかった憎まれ口を飲み込んだ。


 この人にはおそらくどんな皮肉も通じない、という、今までの確信がある。ただ――年齢に不相応に妖艶な笑みで微笑まれて、それで終わりなのだ。



 この人は御厨林音りんね。俺たちが通う御厨高校の二年生で、御厨四姉妹の次女だ。


 品行方正、成績優秀、生徒会副会長も務めていて人望もあり、その誰彼にも優しく、年齢に不相応の物腰の柔らかさを知られる才媛である。




 だが――曲者度なら、この人もなかなかの曲者、いや、曲者度なら四姉妹の中で一番タチが悪いとさえ言える女だ。この物腰と身体の柔らかさに決して騙されてはいけない。



 俺はなるべく林音の方を見ないで家に上がり込んだ。




「さて、そろそろ台所貸してもらうからな」

「はーい」

「さっきも言ったけど今夜はパスタで」

「はい」




 俺がビニール袋を持って御厨家に上がり込むと――林音がテレビを消してこちらに向き直った。




「ねぇジン君。疲れてない?」

「は――?」

「なんだか元気なさそう……ちょっとここ来て休みなさい」




 おいで? と林音は自分の膝をポンポンと叩いた。


 その所作に、来た――と、俺は背筋に走る怖気を感じた。




「あ、いや……いい、大丈夫だから」

「何を言ってるの。私が疲れてるというんだからジン君は疲れてるの。ね? 少しでいいから」

「ホント……ホントいいって。あの、俺、最近の俺は睡眠もよく摂れてるし、ちゃんと食ってるし……!」

「そんなことは自分じゃわからないものなの」




 なんだか眠そうな、間延びした声ではあったけど、その林音の言葉には有無を言わせない響きがあった。




「さぁ、休んでいきなさい。生徒会副会長の言うことは聞くものよ?」




 林音は両手を広げ、まるで俺を受け止めるかのように微笑んだ。


 それは、それはまるで迷える子羊たちを癒やし、庇い護ろうとする女神のような表情で――。




 全く――林音の子供の頃からの悪い病気が、これだった。


 とにかく――無闇矢鱈に人を甘やかそうとするのである。


 それはもう、妹や姉だけにとどまらず、友達や教師でも。


 そして特に、最近では集中的に俺を――。


 とにかく、そのやたら肉付きのいい身体、女子高生のそれとは思えぬ妖しい色香と包容力で籠絡してはデロデロに甘やかして溶かし、肥え太らせ、罪なき人々を迷える子羊に変えてしまう、癖のある厄介な人なのだ。




 その厄介なからかい癖のせいで、姉妹と俺の間でついた名前が「歪み姉ぇ」――。


 まるでサキュバスのように人々を誘惑し堕落させる歪んだ性癖を持ったこの姉は、その妖しい色香と圧倒的な手練手管とを、他の生徒にだけではなく、己の姉妹にすら恐れられているのだ。




 俺は断固として首を振り、さっさと台所に向き直った。




「あ、あの――リン、ホントいいから! 後で纏めてたっぷり甘えさせてもらうからな! あの、俺、パスタ作るから――!」

「課金」




 ――その一言は、まるで雷のように響き渡った。


 俺がぎくしゃくと振り返ると、林音の勝ち誇ったような笑みがあった。




「ジン君に『課金』スるわ。だから休みなさい。少しでいいから――ね?」




 林音は、人差し指を唇に当てながら蠱惑的にそう言った。


 赤いリップグロスの塗られた、赤く腫れたようにな、蠱惑的な唇が、俺の一切を飲み込まんとするかのように視界に飛び込んでくる。




 ぞぞっ――と、俺の背筋にさらなる悪寒が走った。


 課金つきで――しかも膝枕してくれるというのか。


 否、この人は違う。この人の真意は明確だ。


 この人は、この人という人は、膝枕した上で更に俺の唇を貪ろうというのだ――。




「あの、ホント勘弁してくれ! もうすぐカーとかも帰ってくるだろうし、あの、幼馴染相手とはいえホントそういうのは……!」

「課金要らないの? あーあガッカリ。ジン君は結構意気地なしなんだね。最近は少し男の子らしくなってきたと思ってたけど、まだ毛も生え揃ってないのかな?」

「うぐ……!」

「私にとってジン君やみんなを甘やかすのは人生のカンフル剤なの、課金してでもたまに摂取しないと人生に張り合いがなくなるから――ね? そーれっそれ、課金♪ 課金♪ 課金♪」




 林音は小馬鹿にするかのように手を叩いて歌い始めた。


 これは――もう覚悟を決めるしかあるまい。


 俺はビニール袋を投げ出すかのように廊下に起き、のしのしと林音に歩み寄った。




「……そこまで言われて引き下がれるかよ。どうせ断ったならその三百倍ぐらいコケにしてくるのがお前なんだからな。――やってもらおうか、膝枕」

「あら、やっとその気になった? 本当にいいの?」

「リンの方こそ、途中で気が変わるなよ?」

「うふふ、その心配は無用よ。――さーさ、ここに頭をどうぞ?」

「しっ、失礼します……」




 俺は畳敷きの上にごろりと横になり、林音の膝に頭を載せた。


 最初――林音の方を向いていたけど、これはいけない。


 この人からは年齢不相応の、幼馴染の俺からしても何か性的としか言えない匂いがする。


 俺が慌てて壁の方に寝返りを打つと――そっ、と、林音が頭を撫でてきた。




「ほら、やっぱり疲れてる――髪にハリがないもの」

「……もとからだよ。これでも結構剛毛なの、お前らなら知ってるだろ」

「そうかなぁ、小さい頃、一緒にお風呂入ってた時は結構猫っ毛だと思ったんだけどなぁ」

「……そんな昔のこと思い出さないでくれ――」




 俺はたぶん、耳まで真っ赤になりながらその拷問に耐えた。


 林音はそれから十分近く、何がそんなに楽しいのか、子守唄のような鼻歌を歌いながら俺の頭を撫でた。


 膝の感触、髪を撫でる掌の暖かさ、耳に心地いい鼻歌――。


 それはまさに極上の癒やしと言えたが、あまりここで骨抜きにされてはいけない。この癒やしに耐えて身体を起こさないと、今後の行動に差し障る。




「あの――もういいよな?」




 俺はそう宣言し、上半身を起こして壁際を向いた。


 背中に、うふふ、という蠱惑的な笑い声が聞こえた。




「あら、遠慮しなくていいのに」

「遠慮なんか――最初からしてねぇよ。課金シてもらってリンのお願いを聞いたってだけだ。俺に下心はない」

「あらあら、きょうだい同然の私にそんなに課金シてほしいの? ジン君はイケない子ねぇ」

「それは――リンがそうしたいって言ったから――!」




 俺が振り向きざまにそう言ったときだった。


 のけぞりそうになるほど既に近くにあった林音の顔が、ほぼ一瞬と間を置かずに、俺のと重なった。




「ジン君――」




 ほう、という甘いため息とともに、俺は林音に唇を奪われた。


 まるでそれは女神が祝福を授けるような、優しく、甘いもの――。


 脳髄を蕩けさせるような、一番淫らで、男女の営みすらをも想像させる、それは正しく淫魔の「課金」だった。




 しばらくして、ちゅ――と、淫猥な音をわざと立てて、林音は俺から唇を離した。



 

 あまりに突然な「課金」に、俺は咄嗟に物が言えずに口元を手の甲で押さえた。


 そんな俺を、うふふ、と林音はからかうように笑った。




「相変わらずウブねぇ、ジン君は。課金する度に真っ赤になって」

「すっ――するならするって言ってから『課金』しろよ! ああ、び、びっくりした――!」

「する、って言ってからしたら、ジン君のその顔が見れないもの。あはは、不意打ち成功だ♪」




 悪魔は、ぺろり、と舌先で唇を舐めながらそう言った。


 まるで肉食獣が味をしめたかのようなその所作に、頭に音を立てて登る血潮の音が聞こえた気がした。


 おそらく真っ赤っ赤になっているのだろう俺の顔を、まるで愛し児を愛でるように眺めて――林音は満足そうに笑った。




「さーさ、課金もシたし、充電もできたし。ご飯の前に宿題しよっと♪」




 そう言って林音は立ち上がり、まるでワルツを踊るかのような足取りでトントンと階段を昇っていってしまった。




 くそっ! と俺は心の中で毒づいた。


 この人はどっちなんだ。女神なのか――それとも悪魔なのか。




 子供の頃から相変わらず蠱惑的で得体が知れない、魔性の課金女。


 それが御厨林音という人なのだと、俺は改めて恐ろしく感じた。




◆◆◆




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