第49話 温かい食事

 夜の闇に乗じて、あらかじめ目星をつけていた次の潜伏地点に移動した。

 昼間に身を潜めていたのと同じような、道沿いに広がる森の中である。


 ようやく一息ついた俺達は、なにはともあれ飯を食べることにした。

 俺はようやく白み始めた空の薄明かりを頼りにパンにナイフで切り込みを入れると、そこに厚く切り取ったベーコンを押し込んでそのままかぶりついた。

 火も使えないのだから、切って齧る以外に調理法はないのだ。

 行儀が悪いのは確かだが、今の俺たちが気にするようなことじゃない。

 水気の足りない食事をモサモサと噛みしめながら俺はため息をついた。

 昼間の戦果のおかげで素材だけは上等だが、これではどうにも味気ない。


 姫様へと目をやれば、彼女も似たようなパンを手に浮かない顔をしていた。

 どうやら、あまり食事が進んでいないらしい。

 俺は食べ物を詰め込んだ背負い袋から新鮮な玉ねぎを一つ取り出すと、丁寧に皮をむいてから姫様に差し出した。


「それだけじゃ、モサモサして食いにくいだろう。

 これを一緒にかじるといいぜ」


「あ、ありがとう……」


 姫様が玉ねぎにおずおずと手を伸ばしかけたところで師匠がさっとそれを横取りしてしまった。

 それからどこからともなく取り出したまな板の上でそれを薄切りにし、姫様のパンに優しい手つきで挟みなおす。


「こちらの方がお食べになりやすいでしょう」


 なるほど、さすがは長年姫様にお仕えしているだけのことはある。

 俺とは気づかいの年季が違う。


「二人とも、ありがとう」


 姫様は俺たちににっこり微笑むと食事を再開した。

 そうしてどうにか全てのパンを飲み下してから、ポツリとつぶやいた。


「やっぱり、温かいスープが恋しいわね」


 それについては俺も同意見だった。

 なにせ、今は日の出前の一番冷え込む時間帯である。

 体はくたくたで、腰を下ろした地面は芯から凍えそうな冷気を放っている。


 その上メイン伯領に入ってからこっち、俺たちは一切温かい食事というものをとっていないのだ。

 さっき食べたベーコンにしたって、表面をカリッと炙っただけでどれだけ美味しくいただけたことか。

 だが、それは今この場においては望むべくもない贅沢であった。


「悪いが、火を使うわけにはいかないんだ。

 敵に見つかっちまう」


 敵に見つからずとも、近所の住人に煙を見られるだけでもまずいのだ。

 領主への忠誠心、あるいは報酬を目当てに敵勢に通報されないとも限らない。

 そうでなくとも、自分の近所に怪しい武装集団が居れば不安になって当然だ。


「分かってるわよ。

 ちょっと愚痴を言ってみただけ」


 姫様はそう言って、拗ねたようにそっぽを向いた。

 実のところ、この姫様はこれまで想像以上の忍耐を発揮してくれていた。

 天幕すら張らない野宿の日々を過ごしながら、愚痴らしい愚痴を言ったのもこれが初めてなんである。 

 どうにかしてやりたい気もするが、安全には代えられない。

 すると、師匠が遠慮がちに口を開いた。


「ジャック殿、もしよろしければ、煙を上げずに火を焚く方法を伝授することもできます」


 その言葉に周囲の兄弟たちが少しばかり反応した。

 彼らも暖かい食べ物に飢えているのだ。


「ただし、結構な重労働が必要になるのが難点ではありますが」


「重労働ってどのぐらいです?」


「そうですね……まずここからあのあたりまで溝を掘っていただかなくてはなりません。

 深さは大人の膝上、幅は肩幅より狭いぐらいでいいでしょう」


 そう言って師匠が指した先は二十歩は離れていた。

 これにはさすがの俺も呻めかざるを得なかった。

 

 温かい食事は確かに魅力的だ。

 しかしここは森の中。

 固い木の根が方々に這い、そこら中に埋まった石が鋤を欠けさせる。


 畑のような柔らかい地面を掘るのとは必要な労力が比較にならないのだ。

 そんな時間があるなら兄弟たちを休ませておきたい。


「残念ですが、現在の状況を考えますと、そこまでの労力は――」


 俺が後ろ髪を引かれながらも断りの言葉を述べようとしたその時である。


「お、お頭! 待って下せえ!」


 慌てた様子で会話に割り込んできたのは兄弟団で一番の力持ちの〈熊〉だった。


「どうした」


「あ、あ、温かい食い物!」


「正気か? 今日もこの後戦いになるかもしれないんだぞ」


「だからこそでさあ!

 温かいスープが飲めるなら、おらぁ死んでも構わんので」


「俺は死なれたくないんだよ。

 大人しく休んどけ。生きてりゃスープぐらい飲む機会もあるだろう」


「そう言って貰えるなあ嬉しいですがね……」


 〈熊〉があんまりしょんぼりするので、俺は何とも心苦しい気持ちになった。


「気持ちは分かるがな。

 俺がいいって言ったって、お前一人じゃどうにもならないだろ。

 だから諦めて――」


 そう言った途端、俺たちのやり取りをじっとうかがっていたらしい兄弟たちがわっと群がってきた。


「人手があればいいんでしょう!?」


「〈熊〉一人にやらせるなんてそんな薄情なことしやしません!」


「あったかいものが食えるってんなら俺だってもうひと踏ん張りしまさあ!」


 どうにも俺が思っていた以上に皆は暖かい食い物に飢えていたらしい。


「分かった、分かったから」


 収拾がつかなくなってきたので、俺は折れることにした。

 群がってくる兄弟たちを押し返しながら師匠に声をかける。


「それじゃあ、煙の上がらないやり方ってのをご教授いただけますか」


 俺の申し出に彼女はにっこりと答えた。


「もちろんでございます。

 それでは先ほど言いました通り、あそこまで溝を。

 それから、溝のこちらの端にはしゃがんだ男が二人、すっぽり入れる程度の穴を掘ってください。

 反対側の端には――」


 師匠の指示に従って、疲れ切っていたはずの兄弟たちがテキパキと動き始める。

 おいおい、俺が指示を出す時よりも動きがよくないか?


 しかしまあ、殺しの準備をするよりも飯の準備の方が楽しかろう。

 これはこれで人間らしくていい。



 見張りを除いた総出で取り掛かったおかげか、思ったよりも早く完成した。

 それでも炉の準備が出来上がる頃にはすっかり日が登ってしまっていた。


 歓声を上げる元気もなくグッタリと転がっている兄弟たちに、師匠が呼び掛けた。


「皆様お疲れ様でした。料理の支度は私がしておきますからどうぞおやすみなさい」


「へーい……」


 皆は気の抜けた声で返事をして、そのままグウグウとイビキをかきはじめる。

 まったく、普段の稽古でこんな態度をとろうものならどうなることか。

 しかし師匠は気にした様子もなく、ニコニコと枯れ枝を土で固めた炉の中に放り込み始めた。


 地面を掘った穴の中に作られたその炉の背面は、長く掘られた溝につながっている。

 溝の上には葉の付いた木の枝を被せ、その上を湿らせた土で煙が逃げぬよう覆っていた。

 どうやらこれが煙突の役目を果たしているらしい。


 師匠が慣れた手つきで火をおこし、炉の中の枯れ枝がぱちぱちと音をたてはじめた。

 さて煙はどうなるだろう。


 溝の反対側に目をやれば、そこからモクモクと噴き出した煙が立ち上ることなく地面に沿って広がっていくのが見えた。


 それは何とも言えない魔法じみた光景だった。

 さてはこの老婆、実は森婆の同類なのではないか。


「魔法などではありませんよ」


 まるで俺の心を読み取ったかのように師匠は言った。


「ただの生活の知恵です。

 世にある数多の道具の類と同じように、神々が定めたもうたこの世の仕組みを利用しているにすぎません」


「どこでそれをお学びになったのですか?」


「知っての通り、私どもの北方宣教修道会では、その名の通り北方での布教活動を行っておりました。

 とは言え、異教の地で神の教えを説くことは容易なことではございません。

 人里近い野山に潜み、異教の神官や王たちの眼を盗んでこっそりと人々に教え広めて回ったものでした。

 そのような時、この炉が大変役に立ったのです。

 北の凍える冬に、雪を溶かして飲む白湯がどれだけ身に染みたことか。

 歳をとり、良いお酒を飲む機会にも恵まれましたが、あれほどの美味にはついぞ出会えておりませんとも。

 されどあの味を覚えているのも、今や私一人……」


 師匠は、懐かしむような目つきで炉の上の水を張った鍋を見つめた。

 鍋の底に生じた小さな泡がしゅるりと浮かび上がって、水面を微かに揺らす。

 彼女は再び顔を上げて言った。

 

「まあ、ジャック殿の様に若いお方が老人の思い出話に付き合う必要はありません。

 貴方も一寝なさるがよいでしょう。

 お目覚めになったら、飛び切りのスープをごちそういたしますから」


「先程のお話にあった白湯よりですか?」


 俺の軽口に、師匠はクスリと笑って応えた。


「まさか。

 しかし、いつか貴方もそうした味に出会えることでしょう」


 俺は師匠に一礼し、手近な木にもたれかかって目を閉じた。


 結局その日の待ち伏せは空振りに終わった。

 どうやら敵の徴発隊は違うルートを通ったようだ。

 不慣れな土地であればこういうこともあるだろう。


 その晩になってもう一度湯気の立つスープを食べた俺たちは、元気いっぱいになって次の待ち伏せ地点に移動した。

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