第7話 赦免

 酒場を出た俺は、野外生活に必要な道具を回収するために大急ぎで木こり小屋へ取って返した。

 アンガスの手下はあの二人だけではない。

 奴らは当然俺の木こり小屋も知っているから、あの逃げた犬飼いが森の番小屋に逃げ込んだならすぐに俺の小屋にも人が送り込まれるだろう。


 幸いにも小屋にたどり着いた時にはまだ誰も来ていなかった。

 俺は大急ぎで最低限の荷物をかき集め小屋を出た。

 慣れ親しんだ我が家との別れだったが感傷に浸る間もなかった。

 それから、酒場の店主の助言に従い森の中を北に向かう。

 伯爵様の森は広い。

 猟犬をまくため何度か小川をさかのぼり、臭いを消した。

 それから森の中で一夜を過ごし、ようやく街道とやらに出たのは翌日の昼を過ぎた頃だった。


 当初街道は森に沿って進んでいたが、そう歩かないうちに森から離れ、開けた土地へと向かい始めた。

 森を離れることに抵抗はあったが、他に行く当てもなければ仕方がない。


 森の外は俺にとってほとんど未知の世界だ。

 じめじめと暗い森の中とは違い、ここには太陽の光が惜しみなく降り注いでいた。

 風も心地よく爽やかで、陽の光で火照った体を程よく冷やしてくれる。


 だが俺はまったく幸せな気持ちになれなかった。

 何しろ森に住み始めてからこっち、森の外で誰かに歓迎されたことなんて殆どない。

 例外はトムとその妹のマリーぐらいなものだが、彼らに会うことはもうないだろう。

 まして、今の俺は人殺しの逃亡者。あらゆる法の外に置かれた無法者だ。

 歓迎される道理がないし、それどころかいつ追手が姿を現してもおかしくない。

 楽しい気持ちになんてなれるわけがなかった。


 案の定、森から離れて丘を一つ越えたところで背後から蹄の音が響いて来た。

 俺は隠れるところがないかとあたりを見回したが、この開けた土地には小さな藪一つ見つからなかった。

 どの道、相手はもうこちらを見つけているに違いなく、藪なんかに隠れたところですぐに見つかってしまうだろう。

 騎手から隠れて逃げ切るには広い森が必要だ。

 ここにはそれがない。


 俺は観念して素知らぬ顔で歩き続けることにした。

 そうとも、あいつが追手とは限らないのだ。

 追手だったとしてもまだ俺をただの旅人と認識している可能性もある。

 だったら不審な態度をとるのは得策ではない。


 蹄の音がだんだんと近づいてくる。

 そのペースが少しずつ遅くなっていき、やがて少しばかり離れた場所から声がかかった。


「そこのお若いの、しばし待たれよ」


 ついに来たか。

 だがその声は思いの外穏やかで、まったくと言っていいほど敵意が感じられなかった。

 もしかしたら、本当に追手ではないのかもしれない。

 俺は緊張を悟られぬようにしながら、慎重に振り向く。

 そこにいたのは、柔和な笑みを浮かべた初老の男だった。


 その服は着古されてはいたが、元は上等な仕立てだったのは間違いない。

 おそらくは騎士だろう。

 白髪交じりの髭を短く刈り込んでおり、顔に刻まれたいくつもの傷跡が歴戦の猛者であることをうかがわせる。

 武装といえば腰に剣を佩いているばかりで、防具一つ身に着けていない。

 その穏やかな物腰といい、お尋ね者を追ってきたという感じじゃなかった。


「へえ、騎士様。何かご用でございましょうか?」


 俺は騎士の機嫌を損ねぬよう遜って応じた。

 彼はどういうわけかわざわざ馬から降りると、特に警戒するそぶりも見せずにニコニコと口を開いた。


「其方、木こりのジャックで相違ないな?」


 やっぱり追手だったか。

 逃げるか? いや、騎手を相手に追いかけっこをしても無駄だ。

 この場で殺してしまうしかない。

 俺は男の次の動きに備えて身構えた。

 斧はまだ出さない。

 斧は背中の雑嚢にしまっているが、俺はいつでも瞬時にこれを取り出すことができる。

 相手は騎士だ。

 それも場数を踏んだ本物の戦士に違いない。

 俺のような素人が真正面から攻めかかっても勝てっこない。

 だから殴りかかると見せて直前に斧を出し、不意打ちする。

 それしか勝ち筋はない。


 ところが、俺の殺気を察しているに違いないのに騎士殿は身構えもしない。

 それどころかわざとらしく驚いて見せると、戦う気はないとばかりに両手を上げて数歩下がった。


「待て待て、お若いの。

 そう結論を急ぐもんじゃない。

 まずはわしの話を聞いてみないかね」


 木こりのジャックを探してはいるが、かといって捕まえる気もないらしい。

 いったいどういうつもりなんだろうか?


「……何の用だ」


「安心するがいい。

 それがしは其方を討ち取りに来たのではない。

 逆だ。

 其方に罪の減免を伝えに来たのだ」


 あまりに意外なその言葉を聞いて、俺は全身から力が抜けその場にへたり込みそうになった。

 騎士はそんな俺の様子を見て、満足気な笑みを浮かべた。


「其方、良き友に恵まれたな。

 実は昨晩、我が主の館に駆け込んできた者たちがおってな。

 マウルベリーの村の名主に、酒場の主、それから若い小作人が一人だったかの。

 そこで彼らは伯爵様に『殺された森番は長年に渡りジャックの給与を着服し、その上粗雑な扱いをしていた。

 この件はその積年の恨みによるものであり、殺された者に大いに非がある』と訴えたのだ。

 友人らに感謝するがよい。これは大変に危険なことなのだぞ。

 しかし寛大なる我が主はすぐに調査をお命じになられてな。

 確かに森の木こりには森番を通じて二人分の給与が支払われていたこと。

 其方に渡っていたのは半人前分の給与だけであったこと。

 そして、其方がそれでも真面目に薪を納め続けていたことを確認なされた。

 我が主は、其方の長年の労苦と忠勤、森番の非道をお認めになり、

 罪科一等級の軽減をご決断くださったのだ」


「そ、それじゃあ俺、森に戻れるんですか?」


「そうだとも」


 騎士はにこやかに頷いた。


「だが、一等減じられたとはいえ役人殺しの罪は重い。

 其方にはきちんと罪を償ってもらわねばならぬ」


「へえ、何をすればいいんでしょうか?」


「本来なら死罪ではあるが、この度のことは特別である。

 利き腕を切り落とすだけでよい」


 騎士はそれを顔色一つ変えずに言ってのけた。

 緩みかけていた心が一瞬でまた凍り付く。


「どうしたというのかね。

 本来なら吊るし首になるところを腕一本で済むのだ。

 もっと喜ぶがいい」


「そ、それで……そのあとはどうなるんで」


「木こりとして勤めることは難しかろうが、仕方あるまい。

 だが罰を受ければ其方はもう誰に追われることもない自由の身だ。

 どこへなりとも望む所へ行くがよかろう」


 望む所へだって?

 こちとら天涯孤独の身だ。行く当てなんてどこにもありゃしない。


「ふざけんなよ! 何が寛大だ!

 そんなの死ねと言われるのとほとんど変わらないだろうが!」


 だったら、こいつを殺して逃げ出した方が腕が残るだけ幾分かましだ。


「フフフ、若いだけあって威勢が良いのう。

 しかしお若いの、実際に死と相まみえても同じことが言えるかな?

 それがしとて長らく戦場に身を置いてきたからな、命の大切さは身に染みておるよ。

 命と引き換えられるならば、手足や誇りなど皆喜んで差し出すぞ。

 無論、それがしとて同じだ。

 悪いことは言わん。大人しくそれがしについてくるがいい。

 せっかく拾った命を無駄にすることもあるまい」


 騎士殿が心底の善意から言っているのは間違いなかった。

 だが、この善意は受取れない。

 俺はこれ見よがしに腕を振り上げて騎士に殴り掛かかった。

 すると彼は剣を抜きすらせずに半身になって身構える。

 この善良そうな騎士殿であれば、こちらが素手ならそうするだろうと踏んでいた。

 だがその善良さが命取りだ。

 拳を振り下ろす直前、俺は金の斧を手の内に出現させた。


「死ね!」


 その瞬間、騎士の眼がギラリと光る。

 直後、世界がぐるりと回転し、俺は柄を握る拳を掴まれたまま地面に背中を打ち付けていた。

 何が起こったのかさっぱり分からなかった。

 混乱している俺の頭上から騎士殿の楽しげな声が降ってきた。


「ククク、単純そうに見えて詐術も使うのだな。

 だが、根本的に鍛錬が足りておらん。

 それではそれがしを倒すことはできんぞ?」


 騎士殿は俺の腕から手を離し、数歩離れたところにゆるりと立つ。

 彼は俺がよろよろと立ち上がるのを見計らって剣を抜くと、もう一度口を開いた。


「さあ、どうする?

 大人しくそれがしについてくればよし。

 さもなければこの場でその首を斬り落としてくれる」


 口調こそ先ほどまでと変わらないが、今は全身からすさまじいまでの殺気を放っている。

 以前の俺であればこれだけでへたり込んでしまっていたかもしれない。

 だが、俺は森の泉でもっとずっと恐ろしいモノに出会っている。

 俺は騎士を睨み返すと、視線を外さぬよう気を付けながらゆっくりと立ち上がり、斧を構えた。

 騎士の眼付きの鋭さが増し、口端が笑うように歪む。


「実力差が分からぬほどの愚者でもあるまい。

 なるほど、口先だけではないようだな」


 騎士はそう言いながら切っ先をこちらに向け、構えをとった。


「よかろう。お若いの、チャンスをくれてやる。

 それがしに参ったと言わせてみろ」


「言わせたらどうなるんだ」


「この場は見逃してやる。

 我が主には……そうだな、抵抗されたので討ち取ったとでも伝えておこう。

 死者はもう追われぬ。

 どうだ? 悪い条件ではなかろう」


 この騎士殿が約束を守る保証はない。

 だが、こいつが嘘つきであろうとこの場でやることに変わりはない。


「受けて立つぜ!」


 そう叫ぶが早いか、俺は斧を振りかぶって斬りかかった。

 騎士がそれに応じて剣を上げる。

 馬鹿め。剣で受けようたって無駄だ。

 まとめてぶった切ってやる!


 ガキン!


 かん高い金属音が響き、何もかもを切り裂くはずの斧が止まった。

 騎士は斧の柄に剣を当てて受け止めたのだ。

 驚く間もなく騎士が柄に沿って刃を滑らせてくる。


 俺は慌てて斧から手を放し後ろに飛びのいた。

 騎士は落ちた斧を踏みながらこちらとの距離を詰めてくる。


 止めとばかりに振り下ろされた剣を、再び手元に出現させた斧でかろうじて受けた。

 折れた剣先が俺の耳をかすめて飛んでいく。

 これには流石の騎士殿も驚いたらしく一瞬だけ動きが止まる。


 チャンスだ。

 俺が横なぎに斧を振り抜くと、今度は騎士が後ろへ飛びのいた。

 俺は距離を詰めて追撃に移る。

 あいつの剣が折れたとて俺が有利になったわけじゃない。

 奴に立ち直る隙を与えれば、俺は再び投げ飛ばされて終わりだ。

 だが、初老の騎士はまるで年齢を感じさせない身軽さで俺の追撃をひょいひょいと躱しながら軽口をたたく。


「森番の死体を検分させてもらったぞ。

 あまりにも見事な斬り口で革鎧ごと叩き斬られておったからまさかとは思ったが、やはり魔法がかかっていたか。

 おい、それをどこで手に入れた?

 あの森の魔女から盗んだか?」


「婆ぁは関係ねえ!」


 そう叫び返した瞬間、再び視界が回転した。


「ぐふぉっ!」


 今度は背中を強かに打ち付けてしまった。

 俺が再び立ち上がった時には、相手は既に数歩先で短剣を抜いて身構えていた。


「さて、こう見えてもなかなかに忙しい身の上でな。

 あまり時間をかけるわけにもいかん。

 もう一度聞くぞ。

 腕を落として生き延びるか、この場で死ぬか。選べ」


 俺はこれ以上抵抗する意思がないことを示すため、黙って両腕を上げた。

 斧は手にしたままだ。


「よろしい。ではこちらに背を向けて、それから武器を捨てろ」


 騎士殿の言葉に従い、彼に背を向け、それから誤解を招かぬようゆっくりとした動作で斧をあさっての方向に放り投げる。


「よし、ではそのまま頭の後ろで手を組み、両膝をつくのだ」


 言うとおりにした。

 直後、銀の斧が回転しながら俺の頭をかすめ飛んでいく。

 そうとも、銀の斧は必ず獲物に命中する。たとえどちらに向かって投げようともだ!


 背後から「ギャッ」っという悲鳴が聞こえると同時に、俺は斧を手元に呼び戻して振り返った。

 すぐに初老の騎士が右手首を抑えながらうずくまっているのが目に入ってきた。


 そのすぐそばに短剣を握ったままの右手が落ちている。


「ぐ……ぬかったわ。

 まだかような奥の手を隠していたとは……」


 俺は油断なく身構えながら騎士ににじり寄る。

 それを見て騎士は慌てたように叫んだ。


「ま、待て!

 参った! 降参する!」


 さて、どうしたものか。

 生かしておいたところで約束を守る保証はない。

 それどころか復讐のために執拗に追跡される可能性もある。

 今日の勝利はこいつが油断していればこそだ。

 だが、次は油断するまい。奥の手も見られてしまった。

 複数の助っ人を連れてくるかもしれないし、そうなれば勝ち目はない。


 俺の思考を読んだらしい騎士が矢継ぎ早に言葉を重ねる。


「落ち着け、ジャックとやら!

 生きて帰せば必ず約束は守る!

 其方は死んだと報告する。これ以上の追及は止もうぞ!

 だがそれがしを殺してしまえば其方には騎士殺しの罪状が加わる。

 そうなれば追及はますます厳しくなる!

 他領に逃げたところでもはや安寧はあるまい!

 騎士の名誉にかけて誓おうぞ! だから――」


「騎士の名誉というがな、そうやって命乞いをするのは騎士にふさわしい振舞いなのか?」


 騎士はそれを聞いて、苦痛に顔を歪ませながらも口端を持ち上げた。


「さっきも言っただろう。

 命と引き換えられるなら手足も名誉も安いもの、喜んで差し出そうとな。

 それがしは今まさにその状況に置かれているわけだ。

 不自然はあるまい」


 なるほど、筋は通っているらしい。

 俺は構えていた斧を下ろした。


「いいだろう。

 くれぐれも約束は守ってくれよな」


 そう言ってクルリと騎士に背を向ける。

 ところが向けた背に騎士の声が飛んできた。


「待て、ジャック殿。

 二つばかり頼みがある」


「なんだ?」


 俺は振り返って答える。


「まず一つ、此度の事、誰にも口外せぬようお願いする」


「木こりごときに負けちゃ評判が落ちるか?」


「それもあるが、何より嘘がバレる。

 それがしはここで其方を討ち取り、死体は森に打ち捨てたことにする故な」


 なるほど、もっともだ。


「分かったよ。それでもう一つは?」


「止血するのを手伝ってほしい。

 片腕では傷を縛るも一苦労」


「そこまでしてやる義理はねえだろ。

 大体、近づいたところをズブリとやられちゃたまらねえ」


「だが、このまま失血死すれば其方との約束も守れなくなるぞ?

 それがしに死なれては其方も勝ったかいがなかろうて」


 これまたもっともだったが、どうにも気に入らない。

 勝ったはずなのに、まるであいつの手のひらの上で転がされているような気分になる。

 仕方がないので傷を縛ってやったが、そのついでに森婆からもらった軟膏を騎士の傷口にたっぷりと塗り込んでやった。

 この軟膏、あの森婆が作っただけはあって効果は覿面だが大変に傷にしみるのだ。


 騎士の顔が今日一番に苦痛で歪んだのを見て、俺は少しだけ留飲を下げた。

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