第6話 旅立ち

「そういやジャック。

 あの後森で誰か密猟してるやつを見なかったか?」


 アンガスだって俺がまともに答えるなんて期待しちゃいなかったに違いない。

 だが、俺の心臓はドキリとはねた。

 同時に凄まじいプレッシャーが俺を包み込む。

 先ほどのトムの質問を回避した時のように、黙って話題をそらせばいいんじゃないかという考えが頭をちらとよぎったが、甘かった。

 俺はあの時『誰か見かけたら必ずお伝えします』と答えた。

 だから、問われて答えないこと自体が約束への違反となり、嘘となるのだろう。


 それでも、俺は抗おうと試みた。

 あの爺さん本人の放つプレッシャーに比べればどうということはない。

 はずだった。


「いや、誰も……だ、だれ……も……」


 言葉を続けようとするごとに俺を押し包んでいた気配はますますその重みを増し、もはや抗いがたい圧力と化していた。

 俺は本当に甘かった。

 あの爺さんは、俺の目の前にいたあの時ですら本当の力を見せていなかったに違いない。

 今度こそ俺は本物の恐怖という奴を思い知らされていた。


「あ、あの……その……」


「なんだ、勿体ぶるな。

 さっさと教えろ」


 アンガスのいらだった声が、再度強制力を持って俺に襲い掛かる。

 恐怖に抗うために固く握りしめていたはずの拳が緩み、人差し指がゆっくりと前に出始める。

 指を引っ込めようと力を入れたが、人差し指はまるで別の生き物になったかのように言うことを聞かなかった。

 慌てて親指を前に握ってその動きを抑えたが、流れ出る手汗が滑りその動きを阻止できない。

 曲げようとする意志と、伸びようとする力の間で指がブルブルと震える。

 しかし抵抗むなしく、ついに指が伸びきった。

 抗いがたい恐怖に突き動かされて腕が持ち上がっていく。

 その先にはトムがポカンと間抜け面をさらしていた。


 何が起きたのか、この場の誰もが把握しかねている様子だ。

 アンガスですら怪訝そうな顔で俺をじっと見つめている。


「……おい、ジャック。

 それは本気で言ってるのか?」


 アンガスの問いに、俺は目を逸らしながら小さくこくりと頷いた。

 もう、抵抗する気力は欠片も残っていなかった。


「ったく、面倒くせえ……」


 アンガスはそう小さく呟き、ため息をついた。


「お前らに何があったかは知らないがな、まあいい。

 仕事は仕事だ」


 アンガスは振り返って、手下どもに指示を出した。


「おい、トムを拘束しろ。

 このまま伯爵様のところへ引っ立てるぞ」


「へ? だって今日はもう酒を……」


 すっかり酒盛りの気分になっていたらしい彼らは、しかしアンガスの一睨みで渋々と仕事にとりかかった。


「ま、待てよ!」


 手下たちに両脇を抱えられたところでようやくトムが声を上げた。


「こんなのおかしいだろ!

 なあ、ジャック! 今のは冗談だよな!?」


 俺は顔を上げることができなかった。

 俯いたまま黙りこくる俺を見てアンガスは何かを思い出したらしかった。


「ああ、そうだ。

 小遣いをやる約束だったな。ほら、受け取れ」


 アンガスgそう言いながら俺の目の前に大判銀貨を一枚置く。


「う、嘘だろ……。

 おい! ジャック! 何とか言ってくれよ!

 今のは間違いだって! なあ、頼むよジャック!」


 トムの悲痛な声が酒場中に響き渡り、騒ぎを聞きつけた店主が店の奥から現れた。


「おい、森番! 何のつもりだ?

 如何に伯爵様の家来とはいえ、村内で狼藉を働いてただで済むと思うなよ」


「こっちは仕事だ。密猟者を逮捕しただけだ」


「トムが? 真面目な青年だ。そんなことをするわけがなかろう。

 証拠はあるんだろうな?

 こちらは名主様を証人に呼んでも構わんのだぞ」


「証拠なんざこいつの家を漁ればいくらでも出てくるだろ。

 こいつが密猟の常習犯だってことぐらいとっくに把握してんだよ。

 なんせ何度も見逃してやってんだからな。

 おい、お前が密猟者から肉を買い取ってるのも知ってるぞ。

 なんならついでに告発してやろうか?」


 店主が悔し気に呻く声が聞こえた。


「ま、文句ならそこのジャックに言うんだな。

 俺だってこの村で面倒は起こしたかないんだがよ。

 告発があったんじゃ仕方がねえよなあ?」


 店主の視線がこちらに向くのを感じた。

 親友が連れ去られようとしているのに、俺はうなだれたまま身動き一つしていない。

 店主の眼にはさぞ奇妙に映ることだろう。

 そして机の上には大きな銀貨が一枚。言い逃れのしようがない。


「ジャック! 貴様……!」


 顔を上げずとも、店主が今どんな顔をしているのかが手に取るように分かる。

 トムが浮かべているであろう絶望の色も、アンガスの侮蔑するような目つきも。


「村の奴らが集まってくると面倒だ。

 さっさと行くぞ」


 アンガスの合図で、手下たちがトムの両脇を抱え込むようにして席から立たせた。

 トムが暴れる。

 机が揺れ、椅子の倒れる乱暴な音が耳を打つ。


「み、見逃してくれ!

 金なら払うから! こう見えて結構貯めてるんだ。

 本当だ! 全部やるから、頼む!」


「いいかトム、今回は金の問題じゃねえんだ。

 伯爵様直々のご命令でな、なんとしてでも密猟者を引っ立てて来いって言われてんだよ。

 そしてお前は密猟者だ。

 違うか?」


 俯く俺の視界の端で、トムの足が後ろ向きに引きずられていく。


「おい、暴れんな。

 何も命を取られるわけじゃねえ。

 ちっと両目をえぐられるだけさ」


「いやだ! やめてくれ!

 そんなことになったらマリーはどうなる!?

 なあ、頼むから見逃してくれよ! 頼むから……」


「妹の事なら心配するな。

 俺たちが面倒見てやるよ。

 森の番小屋に連れ込んでたっぷりかわいがってやらあ」


 手下たちがそう言って下卑た笑い声をあげた。


「ジャック! 助けてくれよ、ジャック……!」


 トムが俺の名を呼んだ。

 思わず立ち上がり、手を伸ばす。


 トムも同じように手を伸ばしていた。


 ――正直に生きろ、ジャック。さすれば、その斧はきっとお前を助けてくれるであろう……。


 不意に、森婆の言葉が脳裏をよぎる。

 正直に答えた結果がこれだ。

 何が加護だ。チクショウ! やっぱり呪いじゃないか!


 そのくせ、斧は手元にはなく何の役にも立たない。

 せめて今、斧がここにあれば――


 そう思ったとたん、伸ばしたのとは逆の手の内にずしりとした重みが生じた。

 慣れ親しんだ、いつもの感触。

 斧だ。俺の商売道具だ。それが今、俺の手の中にあった。

 視線を落とすと、鉄の刃が鈍い輝きを放っていた。


 ――よくぞ約束を守った。さて、次はどうする?


 その光がそんな風に語りかけてきたような気がした。

 斧が手元にあれば――斧があれば何ができる?


「待て!」


 俺は声を上げた。

 アンガスが振り向き、俺の斧を見て顔をしかめる。


「ジャック、てめえ、何の真似だ?」


 それは俺にも分からなかった。

 だがこのまま放っておけば、俺のたった一人の友達が生きたまま地獄に落ちることだけはわかっていた。


「手を放せ。トムを解放しろ」


「今更なに言ってやがる。

 お前が言い出したことだろうが」


 手の中の斧が黄金色の輝きを放つ。

 途端に長年連れ添ってきた鉄の斧がその姿を変えた。

 太陽のようにまぶしく輝く黄金の斧だ。

 斧腹には精緻な彫刻が施されており、ところどころに色とりどりの宝石まで嵌め込まれている。


「うおおおおお!」


 俺は声を張り上げながら斧を振り上げると、アンガスに向かって突進した。

 アンガスは腰の大ナタを引き抜いて構える。

 構うものか。俺はこの斧に何ができるかを本能的に理解していた。

 アンガス目掛けて一息に斧を振り下ろす。

 アンガスは大ナタでそれを防ごうとしたが無駄だった。

 黄金斧は鉈の分厚い刀身を容易くへし折ると、そのままの勢いでアンガスの胴体を革鎧ごと引き裂いた。


 手下の一人がひいと悲鳴を上げて逃げ出す。

 俺の手の内で斧がその輝きを銀色に変え、逃げるその背に向けて投げつけられた。

 銀の斧は狙い過たず、逃げ出した手下の脹脛――防具で守られていなかった場所――に命中し、そいつを転倒させる。

 その次の瞬間にはもう斧は俺の手元に戻ってきていた。

 俺はなおも這って逃げようとするそいつに近づくと、金の刃を振り下ろして止めを刺した。

 俺の視線が最後の一人を捉える。

 まだトムの腕を掴んでいたそいつは、慌ててトムを突き飛ばして背に負っていた盾を構えた。

 そのまま武器に手を伸ばすでもなく、盾の陰でブルブル震えている。

 既に戦意を喪失しているらしい。

 俺は無造作にそいつのところに歩み寄り、盾ごとその頭をカチ割った。


 これですべての脅威は排除したはずだ。

 俺は一息ついて店内を見回した。


「……滅茶苦茶だな」


「滅茶苦茶なのはお前だよ!」


 トムが俺に突っ込みを入れる。

 そのまますごい剣幕で俺につっかかってきた。


「いきなり何してくれてるんだよ!」


「い、いや……お前を助けようと思って……」


「助けるんだったら『誰も見てない』って言えば済んだ話だろうが!

 それをおい、みんな殺しちまいやがって!

 伯爵様のお役人だぞ!」


「他にしょうがなかったんだよ」


「しょうがないで殺す奴があるか!

 あぁ……もう、どうしようもないじゃないか……」


 トムが頭を抱えながら崩れ落ちる。


 その時、酒場のドアが勢い良く開いた。

 顔を出したのは、昼間アンガスが連れていた伯爵様の犬飼いだった。


「おい、アンガス。酒のついでに犬のエサも――」


 そう言いかけたところで男の口があんぐりと開いた。

 店内は血の海。その中にアンガスと二人の手下が横たわっている。

 そして、その真ん中には血塗れの手に斧を握りしめた俺。

 この一寸も誤解の余地がない光景を眼にした犬飼いは大声を上げながら店外に逃げていく。


「お、おい! 逃げちまったぞ!

 追わなくていいのか!?」


 トムが焦りの声を上げながら俺の裾を引く。


「大丈夫、あいつは追わなくていいんだ」


 あの男は、俺とアンガスのやり取りを一切知らないはずだ。

 そして今見たこの光景だけを伯爵様に伝えるだろう。

 それでいい。


「ああ、もう! 勝手にしろ!」


 トムはそう叫ぶと、一目散に店から逃げ出していった。

 再び閉じた店の扉をぼんやりと眺めていると、背後から大きなため息が聞こえてきた。


「おい、随分と暴れてくれたじゃねえか」


 店主がこちらを睨みつけている。

 言い訳のしようがなかった。


「あ、あのすみません。

 これ、少ないですが迷惑料ということで……」


 俺は先ほどアンガスから渡された銀貨を差し出した。


「いらん。そんなはした金貰ったって屁ほども役に立たねえ」


 ですよねえ……。


「あの、迷惑ついでに一つ……」


「なんだ」


「あの、アンガスの奴、俺の給金を着服してやがったんですよ……」


「……そういうことにしろと?」


 俺は何一つ嘘にならないよう慎重に言葉を選ぶ。


「しろっていうか、その、着服は事実だと思ってます。少なくとも、俺は」


 店主はもう一度大げさにため息をついた。


「お前なあ。そういう気遣いができるんなら最初から揉め事を起こさんでおいてもらえないか?」


「すみません」


 情け容赦無い正論を前に、俺は頭を下げるしかなかった。


「まあいい。

 逃げるんだろう? あてはあるのか?」


「いえ、まったく」


 俺は村と伯爵様の森以外の場所を全く知らない。

 正直なところ、どの方角に逃げればいいのかさえ全く見当がつかなかった。


「ふん。

 森を北に突っ切ると街道に出るのは知ってるな?

 そこを西に進め。それが伯爵領を抜ける最短ルートだ。

 丸一日歩けば橋が見えてくるだろう。だが迂闊に近づくな。関所がある。

 通行証を持たない奴は通して貰えない。暗くなるのを待って泳いで渡れ。

 川向うはもう伯爵領じゃない。一息つけるはずだ。

 そこから街道沿いに歩いていけば数日で大きな街に出る。

 後はまあ、出来るだけ遠くへ行くことだな。

 流石の伯爵様も領地の外には直接手出しできないが、

 場合によってはお前に賞金を懸けるかもしれん」


「あ、ありがとうございます」


「分かったらさっさと出ていけ」


「は、はい」


 その時、酒場の扉がまた勢い良く開いた。

 今度は誰が来たのかと振り返ってみたらトムだった。

 よほど急いで走ってきたのか肩で息をしている。


「よ、よかった。まだいた……」


 トムは荒い息をつきながらつかつかと俺の前にやってきて、ボロい皮袋をズイと突き出した。

 じゃらりと重い金属音がする。

 俺はこの袋の中身を知っている。何度も何度も、トムに話を聞かされてきたからだ。


「なんだよ」


「逃げるんなら路銀がいるだろ。持ってけ」


「いらねえよ」


「いいから持ってけ!」


 俺が受け取りを拒否すると、トムは俺の襟首をひっつかんで袋を無理やり服の中に押し込もうとしてきた。


「な、なんだよ!

 おい、もしかして気に病んでんのか?

 だったら気にするな――」


「気にするわけねえだろ!

 全部お前がやらかしたんじゃねえか!」


「だったらどうして……」


「お前がダチだからに決まってるだろ!」


 思わず泣きそうになってしまった。


「分かったなら持ってけ!」


 トムはそう言って、もう一度俺の眼前に袋を突き出してきた。


「すまねえ……」


「いいってことよ」


 トムが、いつもの愛嬌のある顔で笑う。

 俺はその横っ面を思い切りぶん殴った。


「な、なにすんだよ!」


 トムが尻もちをついたまま怒鳴る。


「いや、アザの一つも必要かと思って……すまん」


 俺は謝りながらトムの手から袋をひったくった。

 アザがあれば、万が一俺がとっ捕まって逃走資金の出所を追及されたとしても、トムは殴られて奪われたと言い訳できる。

 そしてそれは俺も同じだ。

 持ち上げてみると、革袋は見た目以上にずっしりとしていた。

 そして、こいつが実際の目方よりもずっと重いということも俺は知っている。


「そういう気遣いはいいんだよ!

 さっさと行け!」


「お、おう」


「二度と戻ってくんな!」


 トムの激励を背に、俺は今度こそ酒場を飛び出した。

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