第3話 森婆

 小屋の中はいつも薄暗く、目が慣れるまではほとんど何も見えない。

 その一番奥の暗がりの中から、不機嫌なしわがれ声が響いて来た。


「なんだ、ジャックかい。

 いったいこの森婆になんの用だ。

 くだらん用事だったらお前さんを蝦蟇蛙に変えてやるからね!」


 蝦蟇にされるとはずいぶんだが恐れる必要はない。

 これは婆さんのいつもの挨拶だ。

 実際の所、犬も食わないような痴話喧嘩を持ち込んだって蝦蟇にされたりはしない。

 なんだかんだで面倒見のいいこの婆さんは、どんな馬鹿な相談でもよくよく話を聞いた上で親身になって進むべき道を示してくれる。


 目が慣れてくるに従い、うっすらと内部の様子が見えてきた。

 小屋の中はいつも通り雑然としていた。

 端の方には鍋や薪、動物の頭蓋骨、その他用途の分からない謎の道具やらがゴチャゴチャと積み上げられている。

 それから頭ほどの高さに何本もの縄が張り渡されていて、薬草の束が所狭しと吊り下げられている。

 森婆は頭付きの熊皮を被っていつも通り小屋の一番奥に鎮座し、不機嫌な顔でこちらを睨みつけていた。


「おお、いたいた。

 今日も元気そうで嬉しいよ」


 俺は小屋の奥に進みながら、森をぶらついている間に摘んできた手土産代わりの薬草やキノコを雑嚢からとり出した。


「世辞はいいからさっさと用件を言いな」


 森婆はそう言いながら俺の手からそれらをむしり取ると、鼻の所に持って行ってクンクンと匂いを嗅いだ。


「……血の匂いがするね。

 その上妙な気配も……ジャックや、こりゃ一体何があったね」


 血の匂いは一緒に袋に入れていた斧から移ったものだろう。

 妙な気配とやらも多分そうだ。

 森婆に聞かれたので、俺はさっき泉で起きた事をかいつまんで話した。

 それを聞いて森婆はフムと頷いた。


「なるほど、それはいたずら好きの妖精の仕業に違いあるまいて。

 奴らは戯れに人間に様々な夢を見せてその反応を楽しむことがあるのじゃ。

 トムが見たという裸の女も、大方妖精が見せた幻じゃろう」


 それを聞いて俺は激しい憤りを覚えた。

 トムにばっかりいい夢を見させて、俺には爺の悪夢とは。

 全く酷い妖精だ。


「しかし、斧に血がついていたというのは少し気になるの。

 何か悪いまじないでもかけられているといかん。

 どれ、一つその斧をワシに見せてみよ」


 森婆に促されて俺が雑嚢から斧を取り出したその途端、婆さんは「あびゃああああ!」と奇声を上げながら仰向けにひっくり返った。


「お、お前……! このどあほうが!

 なんちゅうもんを……! いきなりなんちゅうもんを見せるんじゃ!

 この馬鹿たれ! 目が潰れるかと思うたわい!

 このおいぼれを殺す気か!」


 言われた通りに斧を見せようとしただけなのに酷い剣幕で叱られてしまった。

 それにしても、森婆がこんなに驚くのを見るのはこれが初めてだ。

 なにしろ子供の時分にいたずらで蛇を投げつけてもピクリとも驚かなかったのがこの森婆だ。


 手にした斧を改めて眺めてみたが、取り立てておかしなところはない。

 確かにベッタリと血がついてはいるが、元よりそんなものを怖がるような婆さんじゃないはずだ。

 一体何に驚いたのかと首をひねっていると、森婆が呆れたように言った。


「この溢れんばかりの神気が見えんのか。

 まあ、お前さんは正真正銘のただ人であるから仕方がないがの。

 それにしても知らぬというのは本当に幸せなことじゃのう。

 こりゃあ妖精なんぞの仕業じゃあないぞ。

 ほれ、もう一度さっきの話を聞かせてみい。

 詳しくじゃぞ。お前さんの見聞きしたものを一つ残らずこの婆に聞かせるんじゃ」


 俺は斧を雑嚢に戻すと、もう一度最初から話を始めた。


「だからさ、トムが水の精が裸で踊ってたなんていうからさ、俺も見たくなって泉の所に行ったわけよ。

 ところが待っても待っても一向に出てこないもんだからついウトウトしちまったんだろうな。

 それで夢の中に爺が出てきて――」


「あほたれが!

 それは夢ではないぞ。

 夢であったとしても、その斧が残されたのならもはや現実と同じ。

 お前さんは本当に神と相まみえたのじゃ。

 それも余程の大神に違いあるまい。

 どのようなお姿をしていたか、そして何をおっしゃたのかを詳しく聞かせよ。

 その御名が分かれば、どのように振る舞うべきかも自ずとわかろうて」


 俺は夢の中で起きたことをさっきよりも詳しく聞かせた。

 腹立ちまぎれに斧で祠をぶん殴ろうとしたこと。

 その時手からすっぽ抜けた斧が泉に飛び込んでしまったこと。

 すると、頭に斧が刺さった老人が泉から立ち現れたこと。

 それはそれは恐ろしい姿をしていたこと。

 久々の人間の訪問に喜んでいたこと。

 斧を探そうとしてくれたこと。

 金の斧と銀の斧を差し出されたこと。

 受け取りを拒否したらものすごい威圧感で死にかけたこと。

 それでも婆さんの言葉を思い出し、どうにか正直に斧のありかを伝えたこと。

 どうやらそれが爺さんのお気に召したらしいこと。

 最後に笑いながら斧を振り下ろしてきたこと。


 俺の話を聞き終わった婆さんはフームと唸りながら天井を見上げた。

 俺も一緒になって見上げると、天井に空いた煙穴から差し込んだ光が埃っぽい小屋の空気を照らし、光の帯を造り上げていた。

 その光の先にはカエルの干物がぶら下がっていて、まるで祭壇に捧げられた生贄の様に神々しく輝いている。

 まあ実際には婆さんのオヤツなんだが。


「輝かんばかりの禿頭に長く白い髭、猛き肉体を持つ憤怒の形相を浮かべた老爺か……フム、なるほどなるほど」


 森婆はそう呟くと、得心がいったとばかりにウンウンと一人頷いた。


「なあ、あいつはなんて神様だったんだ?」


「まったく分からぬ」


 何か解決の糸口がつかめたのかと前のめりになっていた俺は、婆さんの回答に思わず脱力してつんのめった。


「なんだよ。思わせぶりに頷きやがって」


「分からぬということが分かったのよ」


「なんだそりゃ」


 森婆は居住まいをただすと、俺にも同じように姿勢を改めるよう命じた。

 その不思議な迫力に飲まれて俺はそれに従った。


「よいかジャックよ。

 人が遷ろえば神々もまた遷ろう。

 ワシらがこの地に居着いた時、この森には古き人々が住んでおり、彼らが崇める異形の神々が闊歩していた。

 古き人々が去ると異形も神々も去り、ワシらのよく知る神々が姿を現した。

 新たな人々がやってくるたびに、神々は姿を消し、あるいは変容していった。

 ワシらがこの地に居ついてから随分とたつ。

 ワシらは多くの神々に出会い、また見送ってきた。

 だが、お前さんが今言ったような神はワシらの知る限りこの地にはおらぬ。

 おそらくは古き人々よりさらに古い時代、原初の神々の一柱であろう」


 まるで婆さんがひどく長生きをしているかのような口ぶりじゃないか?

 だが、俺には子供の頃に婆さんに歳をたずねてひどい目に遭わされた経験がある。

 だから俺はその疑問にそっと蓋をして神妙な顔で頷いた。


「でも婆さん。古い神々は消えちまったんじゃないのか?」


「神々は消えぬ。この世界から遠ざかるだけじゃ。

 だが、遠ざかった神々も時折懐かしさからか現世に顔を出すことがある。

 お前が会うたのもそうした気まぐれを起こしたモノだろうて。

 どれ、もう一度斧を見せてみよ」


 また叱りつけられてはたまらないので、俺は柄の方からゆっくりと斧を取り出した。

 婆さんは眩しそうに眼を眇めながら斧に顔を近づける。


「なんという! なんという神々しさよ!

 さぞや力のあるお方だったに違いない。

 その御名が失われているのが惜しうてならぬ。

 おい、ジャック。なんぞ聞いておらぬか?」


 俺が首を横に振ると婆さんは大げさに嘆いた。


「それにしてもまったく不幸な巡りあわせよ!

 よりによってジャックの阿呆の前においでになられてしまうとは!

 この婆の所においでくだされば……」


 さてそれはどうだろう。

 婆さんときたら斧を見ただけでこの有様なのだ。

 あの爺に直接出会った日にゃ神気とやらにあてられて消滅してしまうんじゃなかろうか。

 だがそんなことはどうでもいい。

 あの爺さんの正体よりももっと大事なことが俺にはあった。


「で、結局この斧は大丈夫なのか?」


「う~む、わからぬ。

 だが、何かの加護がかかっているのは間違いない」


「加護ってこたあ、この斧はこのまま持っててもいいってことか?

 お祓いもいらない?」


 俺はホッと胸をなでおろした。

 何しろ大事な商売道具だ。

 呪われているから捨てろ、なんてことになったら途方に暮れてしまう。


「こんなもの祓いたくとも祓えぬわい。

 それよりも、一つ気がかりなことがある」


「なんだ?」


「お前さん、正直さを誉められてこれを授かったと言うとったな?」


「たぶん、そうだと思うけど……」


「だったらもう二度と嘘はつかん方がええ。

 この加護がお前さんの正直さへの褒美だとしたら、嘘をついた途端それが裏返ってしまうやもしれぬ」


 そんな馬鹿なと言いかけて、ふと先ほどの森番とのやり取りが脳裏をよぎった。

 あの時、さぼっていたことの言い訳に適当なことを言おうとした瞬間、ひどく嫌な予感に襲われたのを思い出す。


「……心当たりがあるようだの」


「ああ、まあ。

 嘘をつこうとすると、滅茶苦茶嫌な感じがするんだよな。

 なあ、これ本当に加護なのか?

 呪いの間違いじゃないよな?」


「いかにも、加護と呪いは表と裏よ。

 加護が裏返れば呪いとなる。

 逆もまた然り、呪いも裏返れば加護となろうよ。

 だがまあよいではないか。

 嘘なぞついたところで何にもいいことはあるまい。

 正直に生きろ、ジャック。

 さすれば、その斧はきっとお前を助けてくれるであろう」


 森婆がしみじみと、諭すようにいう。

 何の解決にもならないいかにも老人らしい説教だったが、その様子は同時にいかにも人間臭くもあって俺の心を落ち着かせてくれた。

 婆さんはやっぱり婆さんだ。


 ホッとしたところで森婆が眩しそうに眼を眇めたままなことに気づき、俺は慌てて斧を袋に戻した。

 それから腰を上げて婆さんに礼を言った。


「ありがとよ婆さん。

 今度来るときはもっとまともな土産を用意するから」


「いらんいらん。

 お前が来ると騒がしゅうてかなわん。

 二度と顔を見せるな」


 いつもの悪態を背に小屋の出口へと向かう。

 すると、森婆がよろよろと立ち上がってきた。

 珍しく見送りでもしてくれるのかと思ったがそうではなかったようだ。


 婆さんは見た目からは予想もできない機敏さで俺をグイと押しのけるとさっさと外に出ていってしまった。

 いったい何事かと思いながら小屋から頭を出してみれば、そこは先ほど爺と遭遇した泉だった。

 いつの間にやら婆さんは小屋の入り口をここへと繋げ変えていたらしい。


「なあ、婆さん。

 どうせなら木こり小屋の近くにつなげてくれよ。

 ここからじゃ遠いんだよ」


「歩け。若いうちから横着するものではないぞ」


 婆さんは振り返りもせずにそう言うと、そこら辺に落ちていた石やら枝やらを次々と泉の中へ投げ込みはじめた。

 罰当たりめ。

 あれを目にして目が潰れても知らんぞ。


 あの爺に二度も会うなんて俺は御免だ。

 だから婆さんをその場において早々にその場を立ち去ることにした。

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