第2話 森の番人
目を覚ますと、木々の梢を丸く切り取ったような青空が見えた。
耳をくすぐるのは涼やかな水のせせらぎ。
背中からは柔らかい苔の、少し湿った感触がひんやりと伝わってくる。
どうやら俺は泉のほとりで眠ってしまっていたらしい。
なんだか酷い夢を見ていた気がする。
泉の中から現れた爺さんに斧で切り殺される夢だ。
やれやれと思いながら上半身を起こし周囲を見回す。
もちろん金や銀でできた斧なんてどこにもなかった。
やっぱりあれは夢だったんだろう。
どうやら思っていたよりも疲れがたまっていたらしい。
それで泉の精を待っている内につい眠り込んでしまったのだ。
俺はもう一度の寝転んで空を見上げた。
森に遮られた小さな青空を、チチチと鳴きながら小鳥が横切っていく。
実に平和だ。
夢なんて大抵奇妙なものだが、今回はとびぬけておかしな夢だった。
こんな平穏な場所にあんな恐ろしいモノがいるわけないじゃないか。
そういえば、俺の斧はどこに行った?
俺はもう一度上半身を起こすと、斧を探して視線を巡らせた。
俺の商売道具はすぐに見つかった。
少し離れた古い古い石の祠――何を祀っていたのかはあの森婆ですら知らないという――の前に、まるで供え物か何かの様に転がっていた。
奇妙に思いながらも俺は斧を拾いに行き、すぐにギョッとして足を止めた。
俺の大事な斧がベッタリと血で汚れていたからだ。
ここで何があったかは分からない。
……まあ正直なところうっすらと見当はついているけれど、できるなら認めたくない。
さてどうするべきか。
さしあたりこの血を洗い流すべきかとも思ったが、すぐに考え直した。
こういったことは、なにはともあれ森婆に相談するのがいいだろう。
だったら、血がついたままの方が話が通りやすそうだ。
俺は斧を拾い上げると血の付いた斧をそのまま仕事道具を入れる雑嚢にぶち込んだ。
それから泉に背を向けて、婆さんの棲家に向かうべく歩き始めた。
*
森婆とは、この森の奥深くに古くから棲みついている怪人の名である。
本当の名前は誰も知らない。
その名のごとく皺くちゃヨボヨボの老婆の姿をしてはいるが、一昨年死んだハンス爺さんが若い時分には既に婆さんだったという話だから本当に人間なのかも怪しい。
もっとも本物の怪異を目にした今となっては、そんなことはどうでもよくなってしまっていた。
仮に森婆が妖怪の類だったとしても、さっきのアレに比べれば限りなく人間に近い存在だろう。
ともかく、年の功とでも言うべきか大変に物知りな婆さんで、森に生えている薬草の種類やその扱い方、天候の予知に怪しげなまじない、果ては痴話喧嘩の解決方法に至るまで様々な事柄に精通している。
近くの村の奴らも森婆のことを気味悪く思ってはいるようだが、それでも何か困ったことがあればちょっとした手土産を持参して森に相談にやってくるのが常だった。
奇妙なことにこの森婆の棲家の正確な場所は誰にも知られてない。
誰も知らないのにどうして相談に行けるのかと言えば、森婆に会いたいと念じながら森の中を適当にうろついていると突然目の前に木と草でできた奇妙な小屋が現れるんである。
とは言え必ず辿り着けるわけではなく、会えるかどうかは婆さんの気分次第だ。
村の連中に言わせれば、十度探しに出て一度会えればいい方だという。
ちなみに俺は三度に一度はあの小屋にたどり着ける。
あまり実感はないが、どうやら俺はあの婆さんに気に入られているらしかった。
多分、森婆は俺のことをかわいらしい森の小動物か何かと勘違いしているのだろう。
そんなことを考えながら森をぶらついていると、アンガスと出くわしてしまった。
アンガスは森番の長で、いつもの通り手下を二人従えてズシズシと森の中を進んでくる。
森番というのは読んで字のごとく森の番人である。
伯爵様の狩場であるこの森は本来人の出入りが禁じられている。
さりとて森がもたらす恵みは近隣の住民には必要不可欠なものだ。
立ち入りを禁じられたからと言ってはいそうですかというわけにはいかない。
決まりを破って森の中に侵入しようとする者も出てくる。
そんな不埒な密猟者どもを取り締まり、狩場を管理するのが彼ら森番の仕事だ。
そうしたわけで森番と言えば大抵の場合、森の外の住民からは蛇蝎のごとくに嫌われている。
これについてはこのアンガスも例外ではない。
その上コイツときたら森に侵入した村人をとっ捕まえては賄賂を強請って私腹を肥やしているのだからなおのことだ。
俺は伯爵様の館で使う薪を作るために雇われている身であるから、森の中で出くわしたとて強請られる心配はない。
だがそれでも顔を合わせて愉快になる相手ではなかった。
なにしろこいつは俺の仕事の監督役を兼ねていて、俺が仕事を放って森をぶらついているとネチネチ嫌味を言ってくるのだ。
その上、今の俺は血塗れの斧なんてものを持っている。
森に住む許可を得ているとはいえ、密猟なんぞをしていると疑われればきっと面倒なことになるはずだ。
俺はさりげなく木の陰に隠れてやり過ごそうとしたがすでに手遅れだった。
こちらを認めたアンガスは不機嫌な声で俺を呼び止めた。
「おい、ジャック。
こんなところで何をしている」
俺は隠れるのを諦めて、 愛想笑いを浮かべながらアンガスに向き直った。
しかし何と答えたものか。
泉に裸の美女を見に行った帰りだなどと答えればまた嫌味を言われてしまう。
適当なことを言ってごまかそうと口を開きかけた瞬間、ゾワリとした奇妙な感覚に襲われた。
誰かに見られている。
出かかっていた言葉を慌てて飲み込んで、口を閉じる。
おかげで奇妙な間が開いてしまった。
俺が言葉に詰まったのを見てアンガスは顔をしかめた。
「ふん、また怠けてんのか。
今月分の薪の準備はもうできてるんだろうな?」
「へえ、そりゃもう森番の旦那」
俺はアンガスの機嫌を損なわないよう遜りながら答えた。
なにしろ俺のお給金はこいつを通じて支払われているので、下手に口答えをするとお給金を取り上げられてしまう可能性がある。
そんな無法がまかり通るのかと思うかもしれないが、驚くなかれこの森の中では通ってしまうのだ。
何しろ相手は森番。伯爵様から森の支配権を預かった管理人だ。
ここではこいつが法律であり、正義なんである。
「今月分の薪はもう割り終わってますんで。
今はもう来月分に取り掛かってるところです」
正確には半年後に納める分の薪だ。
月に一度、伯爵様の館から荷馬車がやってきて、俺が寝起きしている木こり小屋から乾燥済みの薪を持ち去っていく。
そうしてできた隙間に薪を詰めなおすのが俺の仕事というわけだ。
「それならいいがな。
おい、給金分はきっちり働けよ」
何が給金分だ。俺は心の中で毒づいた。
確認したわけではないが、俺はこいつが給金をピンハネしているのではないかと疑っている。
俺が木こり見習いとしてハンス爺さんの弟子になった日から一度も給金が上がっていないのがその理由だ。
今ではそのハンス爺さんもいなくなり、俺が一人で仕事をこなしているにもかかわらずだ。
ついでに言えば、ハンス爺さんの代わりがいつまでたっても来ないのもおかしい。
おそらくだが、アンガスの奴は爺さんが死んだことをまだ伯爵様に伝えていないのだろう。
そうしてハンス爺さんの分の給金も自分のポケットにしまい込んでいるのだ。
おかげで俺は半人前の給料で二人分の仕事をこなす羽目になっている。
内心は腸が煮えかえるようだが、極力それを表に出さないようにしながら慎重に答える。
「へえ、もちろんです旦那。
お給金分、一生懸命働かせていただきます」
答えながら頭を深々と下げたのは表情を見られないようにするためだ。
お前はすぐ顔に出るから気をつけろ、とハンス爺さんにも何度か注意されていた。
するとアンガスの後ろで退屈そうにしていた手下の一人が妙なことを言い出した。
「なあ、親分。
面倒くせえしコイツでいいんじゃねえか?」
何が俺でいいんだって?
なんだか嫌な予感がしたので、俺は顔を伏せたまま慎重に聞き耳を立てた。
「ダメだ。こいつはこいつであれだ……まあなんだ、なんだかんだで役に立つんだよ。
それともあれか? 明日からお前が代わりに木こりになるか?」
「いやいや、それはご勘弁を……」
手下はアンガスに睨まれて、もごもごと言い訳をしながら引き下がった。
よくわからないが何かの危機を回避できたらしい。
とは言え、なんにも分からないままというのも少しばかり気が揉める。
「あの、旦那。一体何があったんで?」
俺が恐る恐る顔を上げて尋ねてみると、アンガスは面白くなさそうな顔をしながらも教えてくれた。
「ほら、先日伯爵様が狩りにお見えになっただろう。
ところが獲物がさっぱり見つからなかったもんだからたいそうご機嫌斜めでな。
間の悪いことに、ようやく鹿が見つかったと思ったらそいつに矢が刺さってたもんだから伯爵様もカンカンよ。
『獲物が見つからないのは密猟者どものせいだ! 何としてでも捕まえて来い!』
と、そう仰せになられてな。
それでこの俺様もこうして見回りを強化してるわけだ」
言われてみれば手下どものさらに後に猟犬を連れた男が一人控えている。
確かあれは伯爵様のところの犬飼いだったはずだ。
どうやら伯爵様がお怒りというのは本当らしい。
よく見れば、アンガス達もいつもの毛皮の下に革鎧なんぞを着込んでいる。
武器だって普段なら弓と鉈だけなのに、今日は槍やら盾やらも背負いこんで随分と物々しいいでたちだ。
犯人が誰かは知らないが、アンガスは次に見つけた奴を問答無用で引っ立てるつもりに違いない。
なんともまあ面倒なことになったものだ。
今度ばかりは賄賂も通用しないだろう。
鹿の密猟は両目を刳りぬかれるのが正式な処罰だというんだから恐ろしい話である。
「俺だって正直、気が進まねえんだがな。
やれと言われちゃしょうがねえ。
おい、ジャック。森の中で誰か見かけたら俺に教えろ。
もちろんタダでとは言わん。
そうしてくれりゃしばらく酒には困らねえ程度の小遣いをやるからよ」
「へえ、分かりました。
誰か見かけたら必ずお伝えします」
そう答えながら俺は内心で舌を出す。
まったく冗談じゃない。
告げ口なんてしたら間違いなく村の連中に恨まれる。
今でさえ村にいけば肩身が狭いってのに、余計な怨みまで買おうものなら出入りすらできなくなってしまう。
そうなったら最後、いったい金が何になるってんだ。
「そんじゃあよろしく頼むぜ」
俺の内心を知ってか知らずか、アンガスは俺の肩をドンと叩くと手下どもを率いて去っていった。
その背を見送りながら俺は大きくため息をついた。
本当に今日という日は何から何までついてない。
これじゃあ森婆に会えるかどうかも怪しくなってきた。
そう思いながら一歩踏み出したところで突然、草で葺かれた屋根をそのまま地面に置いたようなみすぼらしい小屋が目の前に現れた。
……ったく、あの婆さんときたら。
いつもこうやって俺を驚かしてきやがるんだから。
小屋の入り口はすだれで覆われており、中の様子は窺い知れない。
俺は腰をかがめてすだれを持ち上げると、狭くて背の低いウサギ穴みたいな入口に顔を突っ込んだ。
同時に薬草やらなにやらが混じった独特の臭気が鼻をつく。
「よう、婆さん。いるかい?」
声をかけてみたものの小屋の中はいつも薄暗く、目が慣れるまではほとんど何も見えない。
その一番奥の暗がりの中から、不機嫌なしわがれ声が響いて来た。
「なんだ、ジャックかい。
いったいこの森婆になんの用だ。
くだらん用事だったらお前さんを蝦蟇蛙に変えてやるからね」
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