第七章 寄り添う心
第四十八話 指のぬくもり
十月十三日、月曜。
日曜の約束通り、かつらは「まつり」の仕事が終わった後、
六号室の戸を叩くと隆が戸を開けた。昨日かつらが繕った作業服を着ている。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
かつらは室内に上がった。隆が言っていたとおり狭い部屋だ。たばこの臭いもする。だが、初めて隆の暮らしぶりをみられたことにかつらは喜びを覚えていた。
隆は薬局の袋をカバンから取り出すと言った。
「これが傷薬と替えのガーゼです。さっき銭湯に行ってきたのですが、背中を流すこともできなくて。捕虜になった時のことを久々に思い出しましたよ」
隆は苦笑するとかつらに背中を向け、作業服を脱いだ。ランニングシャツの破れた所から、傷にあてがったガーゼが覗いている。
「隆さんの手ぬぐいを貸していただけますか。背中を拭いてから手当てしますね」
かつらは隆から渡された手ぬぐいを水筒の水で濡らすと、そのまま隆のランニングシャツをめくり上げ、ガーゼをはがし始めた。肩甲骨のそばに赤く盛り上がった刀傷の跡があり、その上に新しい切り傷が開いている。手紙では聞いていたものの、今でも生々しい傷跡にかつらは驚いた。それでも表面は冷静を装って呼びかける。
「痛かったらすみません」
傷薬を塗るかつらの指先が、隆の傷跡に触れる。自分の指のぬくもりが隆に届くよう願いながらかつらは傷薬を塗り込んだ。
「もう服を着て大丈夫ですよ」
かつらが声をかけると、隆はゆっくりと立ち上がる。その仕草がまるで名残を惜しむようにかつらには見えた。
「隆さん、夕ご飯は食べたんですか」
自分の手ぬぐいで指を拭きながらかつらが尋ねる。隆は文机の上にある新聞紙包みを指差した。
「夕飯と朝ご飯用にコッペパンを買ってあるよ」
「お好きなんですか」
かつらの問いに隆は苦笑した。
「会社の近くにパン屋があって夕方は値引きしてるんだ。昼は外食券で食べてるけど、『まつり』に行かないときは食費も節約しないといけないからね」
「それじゃ、隆さんの好きな食べ物は何ですか」
「どうしてそんなことを」
作業服を着た隆が向き直る。かつらははにかんだ。
「わたし、隆さんのことまだまだ知らないんだな、って手紙を読んだ後思ったんです。だからもっといろんなことを知りたい、そしてわたしのことも隆さんに知って欲しいなって」
「そうだったんだ」
隆は立ち上がった。
「厩橋まで送るから、もっとたくさん話そう」
隆の話し方がフランクになる。かつらは二人の距離が以前のように近くなったことを感じていた。
かつらは隆と久し振りに穏やかな気持ちで厩橋への道を歩いていた。
「好きな食べ物か。捕虜になっていた時は日本食が恋しくて。特にお餅が食べたかったな」
「今はとても手に入らないけど、わたしも大好きです。海苔を巻いた焼き餅、いいですよね」
「私はお汁粉がいいね。甘いあんことお餅、子どもの頃は何個でも食べられたな」
隆の目が眼鏡の中で細くなる。かつらがつぶやくように言った。
「闇市に頼らなくても、昔のようにお店で何でも手に入るような時代に早く戻って欲しいわね」
「進駐軍がいる間は無理だろうけど、頑張って少しでもお金を貯めようと思うんだ。もっと広い部屋に引っ越したいからね」
「またたばこを節約するんですか」
「それが一番手っ取り早いかな」
隆はそう答えると左手を差し出した。
「かつらさん、寒いから手をつなごうか」
「えっ」
かつらは隆の顔を見る。真剣な表情だ。
「さっき手当てしてくれた時の君の指、とても優しくて暖かかった。もう少し触れていたくなったんだ」
頬が上気するのを感じながら、かつらも右手を差し出した。
「こんなゆっくり手をつなぐの、初めてかしら」
「そうだね」
隆がかつらの手を握ると、指のぬくもりがかつらの手を通して伝わってくる。
「隆さんの指、あったかいです」
かつらはしみじみとつぶやいた。
それからかつらは毎日、隆の部屋を訪ねると背中のガーゼを取り替え、薬を塗った。事情を聞いた
隆は土曜日に病院に寄り、新しい薬をもらってくる。三週間目には傷口にもかさぶたができ、ガーゼを当てなくても良くなった。その間、二人は手をつないで厩橋まで歩き、様々な話をした。
十月三十一日の夜、かつらと隆はいつものように手を繋ぎながら厩橋へと歩いていた。隆が話を切り出す。
「今日 、帰りに雑貨店に寄って
「
「康史郞君は本当に友達思いだね」
隆はしみじみと言う。かつらが改めて切り出した。
「隆さんの傷もかなり良くなりましたし、十一月二日の日曜に上野に行こうと思うんですが、どうですか」
「給料日の後だから靴を買えるお金もあると思うし、大丈夫だよ」
「ありがとうございます」
かつらは隆の手を改めて握り直した。
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