第三十九話 両国駅西口で
十月八日、水曜日。かつらは出勤前に
「康ちゃん、今夜は遅くなるかもしれないから、夕飯食べたら布団敷いといて」
「もしかして
興味しんしんの康史郞に、かつらは柳行李から取り出した灰色のカーディガンを肩掛けかばんに入れながら答えた。戦時中からずっと着ているもので、すり切れた所を糸で補強している。
「京極さんの家は知らないけど、駅前で待てば会えるかなって。お店は
「分かったよ。会えるといいね」
康史郞の明るい声に、かつらは救われたような気分になった。
夕刻の
(寒くなってきたわね。やっぱりカーディガンを持ってきて正解だったわ)
かつらは「まつり」に近い西口改札の出口で隆を待っていた。ブラウスの上からカーディガンを羽織っている。
(隆さん、わたしのこと分かるかしら)
少し緊張しながら駅の入口を見つめるかつらに、茶色の背広を着た中年男が声をかけてきた。
「あんた、もしかして新顔か」
かつらは言葉の意味が分からず男を見つめる。
「ここで仕事がしたいなら、ショバ代を払ってくれないとな」
男が指差した先を見てかつらにもようやく合点がいった。客待ちらしき女性が壁際に間隔を取って立っている。
「わたしは待ち合わせしてるだけです」
かつらがかぶりを振ったその時、視線の端に無精ひげの男が目に入った。
「おい、今日はあれ、持ってないのか」
「売り切れだ」
廣本はぞんざいに言うと雑貨店の方向へ向かって歩き出そうとしたが、かつらを見て立ち止まった。先日
「京極はいないのか」
かつらには、目の前の廣本が戦場で隆に斬りつけたのだと思うといてもたってもいられなくなった。
「お願いだから、もうあの人をいじめないで下さい」
かつらの言葉を聞いた廣本の目に生気が戻った。
「逆だ。あいつが生きている限り、俺は眠れねえ」
かつらはさらに話しかけようとしたが、隆の手紙の内容を知っていることは秘密にしなければならないことに気づき、自分を押しとどめた。男が代わりに廣本に呼びかける。
「土曜までに準備しないとあれは渡せないと店主に伝えてくれ」
「分かったよ」
廣本は男に答えると、駅を離れていった。男はかつらに向き直る。
「さてと、邪魔が入っちまったが、ショバ代がまだだったよな」
「ですから、わたしは」
必死に釈明するかつらを見て、男のスイッチが入ってしまったようだ。かつらの腕を掴むと低音で凄む。
「ヒロポンの代わりにお前で勘弁してやる」
「やめてください」
かつらは身の危険を感じ必死に逃れようとしたが、男はかつらを力で押さえ込もうとする。その時、男の体勢が突然崩れた。何者かが体当たりしたのだ。よろけた拍子にかつらを掴んでいた男の腕が離れる。
「かつらさん、こっちへ」
男の背後から声が響き、手が延びてきた。かつらはすがりつくようにその手を掴む。
「隆さん、ようやく会えた」
かつらは隆に手を掴まれながら、小走りに駅の人混みを走り抜けていった。
二人がたどり抜いたのは駅前の交番だ。中には警官と背広姿の中年男が立っている。
「すみません、遅くなりまして」
隆は中年男に頭を下げると、かつらに説明した。
「この人が刑事の
「
隆は改めて新田にかつらを紹介した。
「友人の横澤かつらさんです。彼女の情報も刑事さんの参考になると思いますので、同席させていただけませんか」
交番奥の休憩室を借り、隆は新田にここ数日調べたことを説明した。
「ヤミ市でたばこを買っている時にヒロポンの話をしたら、『用意できるよ』と店主から言われたんです。ヒロポンをヤミで売っている人物は複数いるようですが、廣本さんから買っているのはほぼ間違いないと思います。ただ、保管先がどこにあるかは本人を調べないと分からないでしょう」
「そういえば、さっき両国駅で私に絡んできた男の人が、廣本さんと話してたんです」
「なんだって?」
隆は思わずかつらを見るが、新田の表情は変わらない。
「『土曜までに準備しないとあれは渡せない』と言ってました」
「その男は茶色い背広を着てなかったか」
新田がかつらに尋ねる。
「はい。それと、その人もヒロポンを欲しがってました」
新田は手帳を取り出すとメモを取りながらかつらに言った。
「ありがとう。その男は恐らく
「すみません、そのヤクザの人って、家の取り壊しとかもするんですか。実は」
かつらは新田に家が地上げ屋に狙われていること、
「その地図が見てみたいな」
「お隣の
新田のメモを取る手が止まった。口元が緩んでいる。
「その『墨東運送』の場所を教えてくれないか。直接伺おう」
「ありがとうございます」
隼二の推測は当たっていたようだ。かつらは一礼した。
新田との話が終わり、交番を出たかつらと隆は辺りを見回した。ヤクザや廣本の姿は見当たらない。
「ところで、どうしてあんな所に来てたんですか」
隆は改めてかつらに切り出した。かつらは隆を見上げて答える。
「あの手紙を読んで色々話したいことができたのに、隆さんはお店にも来ないし、家も分からないので、駅で待っていれば確実かな、と思ったんです」
「気持ちは嬉しいですけど、かつらさんを危険な目に会わせたくはありません。次から何かあったら私の家に来てください。これから私の家の前を通って、
「特別、なんですね」
かつらは寂しげにつぶやいた。
「君のことはいつも思っています。もう少しの辛抱ですから」
隆はそれだけ言うと歩き出した。
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