第十六話 康史郞を捜して
時計は五時半を回り、日もかなり落ちている。「まつり」はカスリーン台風による洪水の話で持ちきりだった。
「ラジオのニュースじゃ、洪水は埼玉と東京の境にある
「下流の浄水場にも洪水が押し寄せるだろうし、そしたらこの辺の水道は全滅だ。明日はうちも休むしかないな」
戸祭も不安を隠せないようだ。
「洪水はこっちにもくるんでしょうか」
かつらは尋ねる。
「距離もあるし、間に
戸祭が答えたその時、
「京極さん、今日は早いんですね」
かつらは白湯を出しながら話しかける。
「私の仕事場にも洪水がくるかもしれないっていうんで、今日は一日防水対策をしてたんだ。ついでにこの間言ってた油紙を少し持ってきたよ」
「ありがとうございます。今日の食事代は私が持ちますよ」
「すまないな」
「でも、あまり高い物を頼まないでくださいね」
かつらは小声で付け加えた。
隆がメニューを見始めた時、店内に学生服の少年が駆け込んできた。
「康ちゃんのお姉さん、すぐ家に帰って」
「おい、裏に回れ」
戸祭が声を荒げたので、征一は店の裏に回った。
「失礼します」
かつらは慌てて裏に下がる。隆もベンチから立ち上がった。
征一に
「すみません、今日は帰らせてください」
「仕方ないな。洪水のこともあるし、今日は早じまいするか。征一は残ってかつらさんの代わりをやってくれ」
「分かったよ、父ちゃん」
「ここでは『おやじ』と言え」
なんとも言えない顔をする戸祭に一礼すると、かつらはカバンを肩にかけて店を出た。表通りに回ろうとすると、手提げカバンを持った隆が立っている。
「横澤さん、私に手伝えることはないですか」
かつらは一瞬ためらったが、隆の真剣な眼差しに押されるように答えた。
「弟が隅田川に流されたズックを探しに行ったんです。早く見つけないと」
「それなら
「はい」
二人は蔵前橋に向かって走り出した。
「弟さんの特徴は」
隆の問いに橋を早足で歩きながらかつらは答えた。
「学生服を着て、釣り竿を持ってったそうです」
「では厩橋へさかのぼりつつ探しますか」
「ええ。それにしても、どうしてこんなことに」
かつらは押し寄せる不安を振り払うようにつぶやいた。
蔵前橋を降りたかつらは、康史郞がいないかと橋の近辺を見回した。既にかなり暗くなっており見通しがきかない。その時、隆が声を上げた。
「あそこに釣り竿が!」
隆の指先は蔵前橋を支えるアーチを差していた。そこから釣り竿が出ている。
「康ちゃーん!」
かつらは両手をメガホンの形にして呼ばわった。その声に反応したのか、釣り竿が大きく揺れる。次の瞬間、隅田川に水煙が上がった。思わず口元を手で覆うかつらの足下に、カバンが転がる。隆が川に入ったのだ。
「今行くぞ!」
隆は康史郞と一緒に水に落ちた釣り竿を掴むと康史郞を引っ張り上げようとしたが、隆自身も腰まで水に入っている上、川の流れもありかなり苦戦している。かつらは我に返ると自分の肩掛けカバンを投げ捨て、下駄を脱いで川に入った。そのまま隆の持つ釣り竿を支えると叫ぶ。
「康ちゃん! こっちよ!」
二人は釣り竿を掴んだ康史郞をなんとか引き寄せることができた。康史郞はそのまま川岸に倒れ込む。水を飲んでいるが、幸い意識に別状はないようだ。隆は四つん這いになり肩で息をしている。時間にすれば数分の出来事だったが、かつらには何時間も経ったように感じられた。
「康ちゃん!」
かつらは倒れた康史郞の傍らに膝をつき、そのまま抱きしめた。
「ズックなんかどうでもいい。もうわたしには、あなたしかいないのよ」
総武線の列車が下流の鉄橋を渡る音が、暗い水面に響き渡っていった。
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