第三章 繋がる絆
第十四話 カスリーン台風
季節は秋になった。幸いあれから
忙しい日々の中、週に数度「まつり」に訪れる
昭和二十二年九月六日。穏やかな土曜の夜だ。「まつり」の仕事を終えたかつらと隆は厩橋への道を歩いていた。
「昨日は大変だったよ。夜中に突然隣部屋の男が暴れ出してね」
闇市を離れたところで隆が切り出した。隆は
「お酒でも飲んだんですか」
「いや、どうやらヒロポン中毒だったらしい。軍隊にいた頃に戻ってて、敵に突撃しようとしてた。結局病院に運ばれていったよ」
「お店でも、時々ヒロポンを打ったって話してる人がいるわ。最近本当に流行ってるのね」
「仕事仲間にも疲労回復にいいって薦められたけど、ああいうのを見てしまうととても手は出せないな。横澤さんも毎日大変だろうけど、体には気をつけてくれよ」
「わたしはこうやって京極さんと話すだけで、十分回復してますから」
はにかむかつらの横顔を見ながら隆が言った。
「それは私もだよ。『まつり』でうまい夕飯を食べて、君の話を聞く。願わくばもっと来たいんだが、先立つものがね」
「でも、わたしが空襲で焼け出された頃は何もなかったんですよ。それに比べたら」
「空襲か。私はその頃南方にいたから、家族が亡くなったことも知らなかったんだ」
隆は空き地だらけの焼け跡に目をやる。かつらは隆の家族について初めて知った。慌てて話をそらす。
「もうすぐ厩橋ですから、今夜はこの辺で」
「そうだな。ではおやすみ」
二人は軽く手を挙げる。かつらは厩橋を渡り、隆は宿に引き返していった。
九月十四日。現在では「カスリーン台風」と呼ばれている台風が関東地方に接近した。この台風によって刺激された前線のおかげで、数日間雨が降り続いている。
日曜で仕事が休みのかつらは洗濯をしたものの外には干せず、部屋の洗濯ひもに引っかけていた。室内のあちこちで雨漏りがするため、トタンのバケツや洗濯ダライを置いている。お陰で狭いバラックがますます狭くなっていた。
「今日は銭湯は無理ね。濡れて帰ってくるだけだし」
かつらが嘆息しながらちゃぶ台の新聞紙を持ち上げると、梅干し入りのおむすびを載せた皿が現れた。ろくに買い出しにも行けないのでこれが夕食である。
「それじゃ夕飯食べたら早く寝ようよ」
康史郞は一升瓶に入った配給の玄米をついている。こうして白米に仕上げるのは普段家にいる康史郞の仕事だ。
「明日の弁当分でサツマイモも切れちゃうから、帰りに闇市に行って買ってこないとね。それから遅くなるけど銭湯に行きましょ」
かつらはそう言いながらお茶を湯飲みに注いだ。
翌朝、目覚めたかつらは我が目を疑った。干してある洗濯物から水滴が垂れているのだ。水滴はそのままかつらの布団に吸い込まれていく。天井を見上げると、トタン屋根の隙間から勢いよく雨水が降り注いでいる。
「康ちゃん、起きて!」
かつらの声に驚いた康史郞が目を覚ました。かつらは布団をどかし、雨漏り受けに使っていたトタンのバケツを持ってきて洗濯物を必死に絞る。今までバケツがあったところには昨夜のおむすびの皿をとりあえず置いた。
「康ちゃんのシャツは大丈夫?」
かつらに言われた康史郎はあわてて制服のシャツを確かめる。
「ちょっと湿ってるだけだよ」
「ごめん、朝ご飯は間に合わないから、お昼のサツマイモ蒸しといて」
かつらはそれだけ言うのが精一杯だった。
なんとか雨漏りを避けて洗濯物を引っかけ直したかつらだが、着替えは全滅だ。仕方なく寝間着代わりのもんぺの上に割烹着をつけて出勤した。
「それで今日は割烹着なんだ」
その夜「まつり」に夕食をとりに来た隆は、珍しいかつらの割烹着姿を見つめながら言った。
「こんなボロ服でお店には立てませんから」
かつらは割烹着の下から覗く襟の継ぎ当てを気にしている。
「それより、雨漏りは大丈夫かい」
心配する隆に、かつらは味噌汁を出しながら答えた。
「戦後すぐきょうだいみんなで建てたバラックなんです。でも今は直す材料もないし、建てた兄も亡くなってるので、修繕するにもどうしたらよいか」
隆は味噌汁に口を付けるとかつらに申し出た。
「私の職場は印刷工場だから、油紙の端切れくらいなら調達できる。それを天井に貼れば雨漏りは防げると思う。どうかな」
「助かります。そしたらお礼に次回の食事代立て替えますね」
ようやく隆に笑顔を見せたかつらだが、カスリーン台風が引き起こした大雨によって荒川と利根川の上流から洪水が発生し、次第に都内に迫り始めていたことはまだ知るよしもなかった。
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