第十二話 おままごとのお酒
「いらっしゃいませ。散らかっててすみません」
女性が立ち上がってお辞儀をすると、女の子も一緒にお辞儀をする。大口が皆に紹介した。
「うちの女給の
ハナエは男の子を抱き上げながら言った。
「望、論くんと一緒に隣に行こうか」
「えー、ノリコさんとおままごとしてたのに」
「私が連れて行きます」
しぶる望をなだめようとするハナエに憲子が申し出た。緑色のジャンパースカートに花柄の半袖ブラウスを着ている。
「悪いね、仕事の話はあたしと育美さんで聞いとくからさ」
論を憲子に渡すハナエにかつらは呼びかけた。
「すみません、わたしも一緒に行っていいですか」
「かまわないよ。憲子さんもいいかい」
「ええ」
静かに答える憲子を見ながら、かつらは心でつぶやいた。
(わたしを避けようとするなんて、ノリちゃんに一体何があったのかしら)
「こちらです」
憲子は論を左手で抱くとふすまを開けた。
「おきゃくさん、おのみものは」
かつらを現実に引き戻したのは望の声だった。かつらはかがみ込むと尋ねる。
「何があるのかしら」
「おさけと、しょうちゅうと、ウイスキーがあるよ」
望の「おままごと」が「
「お酒とお水をください」
「ノリちゃん、おさけとおみずいっぱい」
「はーい」
明るく返事すると、憲子は手でお酒をつぐ真似をしながら望に言った。
「私はお客さんの相手をするから、論くんをよろしくね」
かつらは憲子のついだ空のお酒を受け取ってから尋ねる。
「ノリちゃんとは女学校三年の時に転校して以来ね。いつ日本に帰ってきてたの」
憲子は論をあやす望を横目で見ながら小声で言った。
「二十年の冬よ。かつらちゃんこそどうしてここに来たの? もしかして女給になりたいとか」
「違うわ。大口さんにこの間お世話になったので、お店を一度見てみたかったの」
かつらの返事を聞くと、憲子は額の汗を拭いながら言った。
「ごめんなさい。かつらちゃんのことを店長から聞いて会いたいと思ったけど、いざ顔を見たら動転しちゃって。かつらちゃんの知っている私と今の私は違うから」
憲子の寂しそうな眼差しを見たかつらは、酒を飲む真似をしながら話しかけた。
「わたしだって色々あったわ。東京大空襲で家も焼け、家族もほとんど亡くなって、今は一番下の弟を育てながら働いてるの。昼は縫製工場、夜は闇市の食堂。ノリちゃんとそんなに変わらないんじゃないかな」
かつらの語りを聞き、憲子の表情も少し和らいだようだ。自分も酒を飲む真似をしながら話し出す。
「朝鮮で終戦を迎えた後、両親を亡くした私は一人で日本に帰ってきたわ。頼れる人もなく、住み込みの仕事を探して進駐軍の兵隊さん相手の酒場に入ったの。そこでお世話になった先輩の育美さんが、お客さんの兵隊さんとの子どもを妊娠してお店を辞めることになって。幸い、育美さんが昔働いていた『墨田ホープ』のハナエさんが、事情を聞いて一緒に暮らそうと申し出てくださったので、私も育美さんを助けたくて一緒にお店を辞めたのよ」
「じゃあ、論くんのお父さんは」
かつらは望にじゃれついている論を見た。言われてみれば髪の毛が茶色く見える。
「アメリカに帰国したから連絡も取れなくて。せめて手がかりになればと、育美さんがお父さんの名前から『論』とつけたの。私にとってこの店のみんなは新しい家族みたいなものね」
憲子はそう言いながら微笑む。女学校時代の憲子の笑顔をかつらは思い出した。
「そうだったの。ノリちゃんは昔から優しかったから女給さんなんて大変な仕事かな、と思ったんだけど、いい人に巡り会えて良かったね」
「ええ。それに実は私、お酒に強くて。時々お客さんと飲み比べをやって売り上げを上げてたの。酒豪だった父に似たのかな」
憲子は目を細めた。
「ノリちゃんにそんな特技があったなんて、大人になったから分かることね」
「かつらちゃんにも、私の知らない特技があるかもしれないわ。そういえば、女学校のお友達はどうしてるかしら」
かつらは亡くなった
「憲子ちゃん、打ち合わせが終わったよ」
かつらと憲子たちが部屋から出てくると、ハナエと育美が望と論を引き取った。
「それじゃ、月曜からよろしく頼むよ。商品と道具はおとっさんが三輪オートで持っていくからさ」
ナカがうちわで仰ぎながら言う。倉上が話を補足した。
「進駐軍向けの土産物屋に卸すうちわに紙を貼って『お灸ががばっとジャパン』というハンコを押す仕事だよ」
「オキュバイトジャパン。『占領下の日本』って意味」
育美がきれいな発音で訂正する。
「輸出品にはこの表示をしろという進駐軍の命令だ。正直悔しいが飯の種だと思ってみんながんばろう」
大口は発破をかけた。
「今日は本当にありがとうございました」
一礼するかつらに望と憲子が呼びかける。
「またきてね」
「こちらこそかつらちゃんと会えて良かった。がんばってね」
「ありがとう、喫茶店が出来たらまた来るわね」
階段を降りながら、かつらは胸の重荷が少しとれた気がした。
(ノリちゃんにいつか、葵さんを紹介してあげたいな)
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