第十一話 「墨田ホープ」へ
八月十五日、金曜日。かつらが「まつり」に入ると、カウンターで
「
「お姉さん、お酒のおかわりよろしく」
倉上が升を掲げる。かつらは戸祭に呼びかけた。
「おじさん、お酒一杯」
酒をつぎに来た戸祭に、倉上ははげ頭を撫でながらしんみりと話しかけた。
「うちの長男の
いつも明るい倉上がなぜここで酒を飲むのか、かつらには少し分かった気がした。
「あんたにはナカさんという連れ合いと、店を頼りにしてくれるお客さんがいるんだ。ここで少しでも元気になって、皆の助けになってくれ」
「分かってるって。ところで大口さん、頼みって何だい」
「店の改装中は女給さんたちへの給料が払えないんで困ってるんです。何か店の二階でもできるような仕事はありませんか」
「それなら、うちのおっかさんに相談してみよう。良かったら部屋の大きさがどれくらいか見たいんだが、明日の昼間にでも案内してくれんか」
「分かりました。十五時に『まつり』の前で待ち合わせましょう」
倉上と大口の話がまとまったのを見て、かつらは声をかけた。
「大口さん、良かったら私も明日『墨田ホープ』におじゃましてもいいですか。
「かまわないが、昼間の仕事は大丈夫なのかい」
「工場は土曜までお盆休みなんです」
大口の問いにかつらは笑顔で答えた。倉上が升を持ちながら言う。
「そうか、今日で玉音放送から二年経ったんだな。せめてこいつで息子や亡くなった人たちに献杯するか」
倉上は大口に目配せすると、酒を一息に飲み干した。
翌日、かつらは午前中に家事を済ませ、
「お嬢さん、下駄の具合はどうだい」
「まだ大丈夫です」
かつらは丁寧に断ったが、八馬はさらに呼びかける。
「下駄の鼻緒もあるよ。予備に一ついかが」
「今日は買い物の予定があるので、また今度」
かつらはそう言い残すと、足早に「まつり」へ向かう。後には渋い顔の八馬が残された。
営業中の「まつり」の前では、袖まくりしたワイシャツにズボン姿の大口と半袖シャツに国民服のズボン姿の倉上義巳、妻のナカが待っていた。義巳よりも大柄なナカはもんぺ姿が暑いのか、しきりにうちわで顔をあおいでいる。
「今日はよろしくお願いします」
挨拶するかつらに大口が呼びかける。
「横澤さんも来たから早速向かいましょう」
四人は大口の案内で
「ところで横澤さん、
大口にいきなり尋ねられたかつらは、戸惑いながら答えた。
「確かに幼なじみで同じ名前の方がいましたが、女学校三年の時にお父さんの転勤で朝鮮に行かれたんです。もしかして引き上げてこられたんですか」
「今うちで女給をしているんだ。君たちが来ることを昨日話したら、幼なじみと同じ名前だと驚いててね。顔を合わせたら分かるだろうって言ったんだ」
「そうだったんですか。卒業後は女学校時代の友人とも縁遠くなってしまったので、もし本当なら嬉しいですわ」
かつらはそう答えながら、女学校時代の憲子を思い出していた。前髪を上げ、肩までの髪を後ろで二つ縛りにしていた憲子はおとなしく、とても酒場で女給をするようなイメージではなかった。
「そういえば大口さん、女給さんは何人いるんだい」
後ろで倉上義巳と並んで歩くナカが尋ねる。
「今住んでいるのは二人だけど、俺と妻のハナエも入れて四人で働きます。ほら、そこがうちの店ですよ」
大口は通りの先を指さした。空襲に備えて黒く塗られた木造二階建ての建物に、「
「カフェーが入ってた建物は空襲で焼けてしまったんでね。ハナエが自宅兼女給の寮だったこの家を改装して店にしたんです」
大口はそう言いながら通りを渡るとドアを開けた。
「みんな、今帰ったよ」
「いらっしゃいませ。話は聞いてますので二階へどうぞ」
ハナエが出迎える。今日はもんぺではなくクリーム色のワンピースを着ている。
かつらは十畳ほどの広さの店内を見回した。壁際に台所があり、中央にはテーブルを囲んで背もたれのある椅子が並べてある。
「もしかして台所をお店にしたんですか」
かつらの問いに大口が答えた。
「ああ、ここは台所兼家族と女給さんたちの食事室だった。店の看板は閉店時に物置にしまってたのを使ってるんだ」
「皆さん、横の階段から上がってくださいね」
ハナエが階段の横にある勝手口のドアを指し示した。下駄箱の横に、サンダルや子ども用の靴が並べられている。
「それじゃ、おじゃまするよ」
倉上が挨拶する。皆は靴を脱いでから狭い階段を上った。
二階には廊下を挟んで引き違いのふすまがあり、二つの部屋に別れているようだ。廊下の右奥には便所らしき扉、正面奥には物干し台に続くガラス戸が見える。後ろから上がってきた大口が説明する。
「左が女給さんたちの部屋、右が大口家の部屋です。とりあえず置いてある布団を右に移して昼の仕事部屋にしようかと」
大口がふすまを叩くと、引き違いのふすまが半分ほど開き、前髪を上げたまとめ髪の女性が顔を出した。年頃はかつらと同じくらいだろうか。
「憲子さん、中を見たいんだけどいいかな」
大口の呼びかけに女性は頷く。その名前を聞いた時、かつらの奥底にあった記憶と女性の顔が結びついた。
「もしかして、ノリちゃん?」
女性の眉が上がり、そのままふすまを閉める。ややあってふすまの向こうから返事が帰ってきた。
「かつらちゃん、なの?」
「そう、横澤かつら。朝鮮に行った柏憲子ちゃんよね」
ふすまがもう一度、おずおずと開いた。
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