婚約破棄された者同士ちょうど良いと思ったら、恋に落ちました。

三歩ミチ

婚約破棄された者同士ちょうど良いと思ったら、恋に落ちました。

「フランシェスカ・レノール公爵令嬢! あなたは、公平性に欠ける。将来の王妃には相応しくない。あなたとの婚約は、ここに破棄させてもらう!」

「あら」


 朗々とした口上が、卒業パーティの会場に響き渡る。フランシェスカはぱちんとひとつ、瞬きをして済ませた。


「……何か申し開きはないのか」

「私の『公平性に欠ける』行為とは何を指すのか、お伺いしても宜しいでしょうか」


 フランシェスカは一応、そう尋ねた。王太子は、自身の隣にいる女性の腰を引き、側に寄せる。

 彼女のことは、見たことがあった。最近王太子と随分親しげにしていたので、気になっていた女性だ。


「それは無論、こちらにいる、リセット・サラマドール伯爵令嬢への差別である」

「差別とは……?」


 心当たりがないので首を傾げると、リセット嬢は、「ひっ」と声を上げた。王太子は、リセットの髪を優しく撫でる。


「心配いらないよ、リセ。僕がちゃんとするからね」


 フランシェスカに向ける厳しい顔とは違う、優しく甘い目つき。

 そんな顔もできるのね、とフランシェスカは思った。王太子は、冷淡なイメージだったけれど。どんな風に取り入ったら、あの冷静な王太子を、ここまで夢中にさせられるのだろう。


「レノール嬢。あなたは、将来の王妃という身分でありながら、伯爵令嬢という身分だけを見て、サラマドール嬢を排斥しただろう。彼女がお茶会に招待したのに、無視するなど言語道断だ」

「……なるほど?」


 あの伯爵令嬢は、突然フランシェスカをお茶会に招待したり、手紙を送りつけて来たりした。正当な手段を踏まずに行われたものだったので、無視していたのだけれど。

 王太子には、無視した部分だけが伝わっているらしい。

 確かに、礼を尽くしたお誘いがあったのに、相手が「伯爵だから」という理由だけで拒絶するのは、将来王家に入る人間として相応しくない。


 無実だと訴え、実際に、礼を失した手紙を見せるのは簡単だ。しかし。


 ──そんな必要、あるのかしら?


 フランシェスカはこの王太子を、あまり信用できなかった。今回の件だって、本当に気にかかるのなら、個人的に言えばいいのだ。こんな風に衆目の前で婚約破棄を宣言するなんて、フランシェスカを辱めようとしているとしか思えない。

 ほら、彼の腕に抱かれた伯爵令嬢は、薄く笑っている。おおかた、彼女に乗せられて、こんなことを引き起こしたのではないか。


「うーん……」

「何だ。何とか言え」

「婚約破棄のご意志は、固いのですね?」

「もちろんだ!」


 王太子は、えっへん、と胸を張る。

 その様は、滑稽だ。


 フランシェスカは、将来の王妃としての研鑽を積んできた。内政、外交の際には、王だけでなく、王妃による情報収集も肝要なのである。国内の隅々までの地域の特徴や特産物。外国の言葉や、文化。そういったものを、婚約が結ばれた幼少期から学んできた。

 例え王太子が婚約を破棄したがっても、王妃が許さないだろう。王妃のことを、フランシェスカはよく知っている。どんな手を使ってでも、婚約を継続させようとするはずだ。今まで行ってきた王妃教育を、今更引き継げる令嬢など、この国にはいない。


 だから、このまま王妃になるのが当然だと思っていたけれど。

 これは、チャンスなのでは?


 フランシェスカは、はっとして周囲を見渡した。辺りには、心配そうにこちらを見る、学友たち。皆、学園に通う貴族の子弟たちだ。子供とはいえ、証人としては十分である。


 王妃にならない道。

 そんなものがあるとは、今の今まで、思ったことはなかった。


 将来の王妃というのは、窮屈な立場である。一言の重みがありすぎて、迂闊に物も言えない。「これが好きだ」と言えばそれが流行り、「これは苦手」と言えば廃れる。好き嫌いすら、ろくに口に出すことはできなかった。

 もし、それから解放されるのなら。

 もしかしたら、のんびりゆったり、好きなことをして暮らせるかもしれない。


 肩のあたりが、ふわっと軽くなるのを感じた。

 フランシェスカの体は、既に王妃の責務から解放されたつもりになっている。


 将来の王妃でなくなったら、こんなに身軽に暮らせるのね。


「わかりましたわ。その婚約破棄、確かに受け入れます。ここにいらっしゃる学友の皆様が、証人となってくださるでしょう」

「ああ。そうしてくれ」


 ここに、あっさりと、王太子との婚約破棄は成立した。彼の両親は止めるかもしれないが、これだけたくさんの人が聞いているのだ。今更、撤回はできないだろう。


 あの聡明な王妃がどう出るか、フランシェスカは想像した。王太子を叱責し、浮気相手である伯爵令嬢を排除し、そのあと──もしかしたらフランシェスカの両親に頭を下げ、再度婚約を結ぼうとするかもしれない。今まで受けて来た王妃教育には、そのくらいの価値はある。

 ならばその前に、新たな婚約を結んでしまえば良い。


 フランシェスカはまた、辺りを見回す。

 その時初めて、自分の隣で、あんぐりと口を開けている青年の存在に気づいた。黒い目が落ちてしまいそうなほど、見開かれている。どこかで見たような顔だ。


「あの、あなたは──」

「ジャック・ニメシスと申します」


 ジャック・ニメシス。

 毎度の試験で、フランシェスカに次ぐ、二位の成績を叩き出していた人物だ。クラスが違うから、顔は知らなかったが、名前はよく知っている。

 確か、ニメシス侯爵家の跡取りではなかったか。侯爵家の者なのに、フランシェスカと張り合えるほどの成果を出すとは、よほど本人の才と努力があるのだと感心していた。


「実は、あのサラマドール嬢の、婚約者だったのですが」

「あら、そうでしたか。では、婚約は白紙ですわね」

「やはり、そうですよね……」


 ジャックは、まだ困惑した顔をしている。愛する婚約者に裏切られ、事実が受け入れられないのだろう。


 そんな表情を見ながら、フランシェスカは違うことを考えていた。


 ニメシス侯爵家の治める領は外国との境界にあり、他国との交易で利益を上げている。そこでなら、フランシェスカが学んだことは大いに役立つだろう。しかも、ジャックは素晴らしい才覚を持っている。彼ほどの人が跡取りになるのなら、しばらくは安泰だ。

 ジャックと婚約し、侯爵家に入る。それは、かなり良い案なのではなかろうか。


「ねえ、あなた」


 思いついた時には、口から言葉が出ていた。将来の王妃という立場で自重していたが、フランシェスカは元来、衝動的な性質なのだ。


「……はい?」


 訝しげなジャック。そんな彼に、フランシェスカは満面の笑みで続けた。


「私と婚約すれば、丸く収まらない? 婚約破棄された者同士、仲良くしましょうよ」

「え、何を仰るんですか」

「そうと決まれば、早速、お父様に頼んで書面を送るわね。やることがあるから失礼するわ、また会いましょう!」


 もうフランシェスカは、王太子のことなんてすっかり頭の外にあった。彼と浮気相手がどうなるかなんて、一切興味がない。


「ねえ、お父様!」

「おや、早かったね。卒業パーティはどうだった?」

「それよりも、お願いがあるのよ」


 飛ぶように帰るなり、フランシェスカは事の次第を父に報告した。穏やかな笑顔で聞いていた父の顔が徐々に赤く、青く変わっていく。ぴきぴきとこめかみに青筋が立ち始めた頃、漸くフランシェスカの話は、ジャックにまで及んだ。


「……新しい婚約を、結びたいのか?」

「ええ! ジャック様は、素晴らしい才覚がおありだわ。それに、せっかく教わった国内や他国の知識は、ニメシス侯爵領なら役立つと思うの」

「うーむ。フランシェスカ、婚約というのはそう簡単なものでは」

「それにニメシス侯爵領は、羽馬で有名でしょう? あれに乗ったら、うちまで毎週帰って来られるわ」

「よし、それで行こう」


 レノール公爵は、娘をできるだけ手から離したくない、溺愛父であった。国王夫妻からの要請を受け、フランシェスカを王太子の婚約者としたのも、王城に住んでいればすぐに会えるからである。

 可愛い娘を粗雑に扱った王太子など、いかなる理由があっても、婚約者に据えておきたくはない。


「では、お父様は手配をするよ。王太子との婚約破棄と、ニメシス侯爵令息との婚約でいいんだね?」

「ええ!」


 仕事のできる父は、娘の願いを叶えるため、その日のうちに全ての仕事を成し遂げたのであった。


***


「本当に良いのでしょうか。我が領に、レノール公爵令嬢が嫁いでくださるなんて」

「何、それが我が娘の願いなのです。お引き受け頂き、感謝しておりますよ。それで、結納品ですが……」


 両家の顔合わせは、即座に行われた。レノール公爵からの婚約打診は、ニメシス侯爵家を大いに驚かせたらしい。羽馬に乗って真意を確認しに来たニメシス侯爵は、その婚約が間違いではないと知り、一度ひっくり返った。

 何しろ、レノール公爵家は、本来ならば王太子と婚約を結ぶほどの名家。いかにニメシス侯爵家が貿易で栄えていようとも、縁を結ぶなんてあり得ないのだ。

 名家との縁は、今後の領経営にも益として働く。公爵の気が変わらないうちにと、直ぐに婚約が結ばれたのである。


「本当に良いのですか、僕で」

「勿論です。あなたの才と努力は、学園生活でよく存じておりますわ。定期試験では、いつも良い成果を上げておられましたね」

「しかし……フランシェスカ様には、ついぞ及ばぬままでした」


 親同士が大人の社交をしている間、向かい合ったフランシェスカとジャックは、そんな言葉を交わしていた。


「それに、サラマドール嬢……女性から婚約破棄されたなんて醜聞付きです。不甲斐ない、甲斐性のない男ですよ」

「私だって同じことですわ。脛に傷持つ者同士、丁度良いじゃありませんか」

「そんな風に割り切れるものですか? 王太子殿下とレノール嬢は、仲睦まじいと評判でしたのに」

「仲睦まじい……? そう見えていたのねえ」


 王太子とフランシェスカの関係は、親に決められた婚約者以上ではなかった。幼い頃から決められた婚約者だったので、誘われたパーティや舞踏会には、王太子がエスコートとして参加した。周囲の人々にはその様子が「睦まじい」と見えていた訳だが、王太子にもフランシェスカにも、特別な感情はなかったのである。


「そうですよ。優秀な王太子殿下と、レノール嬢。美男美女で、皆憧れていました」

「本当に? 今年に入ってからは、サラマドール伯爵令嬢が隣にいらっしゃることの方が多かったじゃない」

「確かにそうですが、お似合いだと、思っていたのです。……本当は、まだ殿下にお気持ちがあるのではないかと」

「ええ? ありえないわ」


 そもそも、最初から気持ちなんてない。フランシェスカが鼻で笑うと、ジャックは、眉尻を垂らした。


 フランシェスカと王太子の関係はともかく、眉尻を垂らすジャックは、まだ元婚約者との関係を割り切れていないらしい。フランシェスカには、そんな風に見えた。愛していた婚約者に裏切られた彼は、落ち込んでいるのだろう。

 新しい婚約など考えられない時期に、フランシェスカの都合で、強引に婚約をねじ込んだ形になった。

 申し訳ないわね、と思いながら、フランシェスカは紅茶を飲む。申し訳なくても、取りやめる気はない。条件が合った相手と婚約するのは、当たり前のことである。


 王太子から婚約破棄されたフランシェスカは、扱いにくい存在であるのは間違いない。同じ立場のジャックは、互いにとって良い相手だ。

 今は割り切れなくても、そのうち、これしかなかったと理解できるはず。婚約とは、そういうものだ。


***


 婚約のお披露目は、知人を呼んで行うものだ。フランシェスカとジャックは、顔を突き合わせて計画を立てていた。

 互いに、お披露目式は一度経験したことがある。幼い頃に結ばれた婚約だったので、支度は両親の手が入ったが、どんなものかはよくわかっている。

 そのせいで、お披露目式の支度はずいぶんとスムーズに進んだ。


「どんなドレスにしようかしら」


 フランシェスカは、布地の色見本を眺めながら、独り言を呟いた。


「……フランシェスカ様のドレスは、僕に贈らせてくださいませんか」

「え?」


 提案があって、驚く。フランシェスカにとって、ドレスは自分で選ぶものだった。確かに世の女性は、自分のドレスを相手に贈ってもらっていたが、王太子はそんなことしてくれなかったからだ。


「あ、申し訳ありません。差し出がましいことを」

「いえ。驚いただけよ。お願いしても良いの?」

「勿論です。その……僕の全力で、フランシェスカ様に似合うものをご用意しますので」


 黒い瞳には、妙に力が込もっている。その熱量に、フランシェスカは少したじろいだ。


「お願いするわ。それなら私は、あなたの服を用意するのが筋ね」

「いえっ、僕は自分のことを、自分でやりますので」

「どうして? 憧れていたのよ、服を贈り合うのに」


 学友はパーティの度に恋人と衣装を贈り合うなどして、幸せそうにしていた。自分には関係ないと思っていたけれど、機会があるのなら、経験してみたいことの一つだった。

 フランシェスカがそう言うと、ジャックはなぜか頬を赤くしながら、「お願いします」と了承した。


 その後とフランシェスカとジャックは、式の支度を適当に進ませながら、一緒の時間を過ごした。

 二人だけでのお茶会を催したり、招待客への贈り物を選びに街へ出かけたり。王太子とはしたことのない一つ一つの出来事は、フランシェスカが憧れていたものであった。

 ジャックはどこに行っても、爽やかに笑っていた。「二人で歩くなんて恥ずかしい」と言って、フランシェスカと二人の時間など取らなかった王太子とは、全然違った。

 いつしかフランシェスカは、ジャックとの時間を楽しみにするようになった。次はどこへ行こう。次は何を食べよう。そんなことを考えるのが楽しかったし、ジャックとなら、その想像は実現できるのだった。


***


 婚約のお披露目式。その日の朝、公爵家には、ジャックからの贈り物が届いた。フランシェスカはドレスとアクセサリーを纏い、鏡に姿を映す。


「まあ……これは、熱烈ね」


 驚いたことに、ドレスは青の布をふんだんに用いて作られていた。青は、ジャックの髪の色である。

 恋人が身につけるものに、自分の色を入れる。それは、愛の証明であった。


「素敵ですわ、お嬢様」

「よくお似合いです」


 着替えを手伝った侍女が、口々に褒め称える。確かにその鮮烈な青は、フランシェスカの白い肌によく映えていた。


 単に似合うから、選んだのかもしれないわ。

 フランシェスカは、そう納得した。ジャックは、まだ元婚約者への気持ちを捨てられないでいる。そんな気持ちで、フランシェスカへの愛を表すはずがない。


 思わせぶりで、罪なひとだわ。

 贈られたネックレスには深い黒の宝石が入っていて、さすがにフランシェスカは苦笑した。黒は、彼の目の色である。こんなことをしたら、普通の関係なら、熱烈な愛だと思ってしまうだろう。


 フランシェスカとジャックは、婚約破棄された者同士、丁度良いから婚約したのだ。その間に、気持ちなんてない。

 王太子との婚約と同じ政略結婚なのに、そのことを思うと、フランシェスカの胸はちくりと傷んだ。


***


「……フランシェスカ様。よくお似合いです」

「ありがとう、ジャック。あなたもよく似合っているわ」


 フランシェスカは、ジャックに淡い水色の衣装を送った。彼の髪や肌の色によく合うと思ったのだが、まさにそうだった。

 胸元に、金色のハンカチーフを差し込んでいる。あれは、フランシェスカが贈ったものではない。

 フランシェスカの髪色と同じ、金のハンカチを用意したのだ。淡い水色なんて、自分と関係のない色を選んだことを、フランシェスカは後悔した。


 式は、つつがなく始まった。フランシェスカの父が挨拶をし、続いてジャックの父が挨拶をする。その次は、ジャックが来客に挨拶をする番だ。緊張して深呼吸するジャックの隣で、フランシェスカは招待客を見回す。

 婚約破棄の一件があったので、王家の人々は呼んでいない。テーブルには、互いの両親の知人と、親しい学友が並んでいる。皆、ジャックの挨拶を待っている。


 会場の奥にある、扉がばたんと開いた。

 水色の髪をした、細身の青年が駆け込む。

 あの衣装は、王家のものではないか? フランシェスカは、我が目を疑った。


「待ってくれ、フランシェスカ!」


 朗々とした声は、聞き覚えがあるものだった。


「お待ちください、王太子殿下!」

「使用人風情が、僕に触れるな!」


 扉の警備に当たっていた公爵家の使用人を振り切り、駆け込んでくるのは王太子、その人であった。


「フランシェスカ。僕のフランシェスカ、そんな男との婚約はしないでくれ」


 駆け込んできた王太子は、唖然とする招待客の間を駆け抜け、流れるように足元に跪いた。


「僕は反省しているよ。あんな女の色仕掛けに引っかかって、フランシェスカという素晴らしい婚約者を手放してしまうなんて。母様に言われて、あの女とは縁を切ったんだ。なあフランシェスカ、君は将来の王妃に相応しい。そうだっただろ? 僕と、もう一度婚約してくれ」


 片膝を立て、誓いを立てる騎士の姿勢。王太子が、こんなにへりくだった態度を取るなんて余程のことだ。

 確かに、余程のことである。一度破棄した婚約を、再度結んでくれと言いに来ているのだから。


 ──まさかここで、強引な手を取ってくるとは……。


 フランシェスカは、制御しきれずに渋い表情をした。


 実のところ国王夫妻からは、あの後何度も打診があった。どうにか王太子を許してくれないか、こちらでしっかりと叱るから、と。

 その度公爵家からは、断りを入れていた。そもそも王太子の気持ちがないのに、婚約を結び直したところで、同じことが繰り返されるだけだと。そしてフランシェスカの希望で、新たな婚約を結び直すのだ、と。

 一度王太子本人からも謝罪の申し入れがあった。あの有能な王妃の差金であることはすぐに分かった。父からそのことを知らされたフランシェスカは、丁重にお断りしてもらった。


 フランシェスカに直接気持ちを伝えるには、婚約の披露式に乗り込むしかない。

 あの短慮な王太子がそう考えたことは、想像に難くない。


 王妃がそれを許すはずがないから、また勝手に行動したのだろう。大事なことを相談せずに独断で行うから、失敗するのに。変わっていないな、とフランシェスカは思った。


「お願いだ、フランシェスカ。君がいれば、僕は王になれる。王妃の座を、君は欲していただろう? なあ、何でもする。今度こそ君を裏切らないから、僕の隣に戻ってきてくれ」


 その綺麗な瞳に涙を滲ませ、王太子は懇願した。

 招待客の中から、「殿下は本当の愛に目覚めたのね」という囁きが聞こえる。そう思わせるのに相応しいほどの、熱烈な態度であった。

 何しろ王太子は、見目麗しい。そんな彼が全力で謝罪する哀れな姿は、人心を動かすのには充分であった。


 困ったわね。どう断ろうかしら。


 フランシェスカは、そんな周囲の空気を感じ取って、小さく溜息をついた。招待客のムードが、自尊心を捨てて謝罪する王太子を擁護する雰囲気に傾いている。まさに、彼の思うままだ。

 別に本心でそう思っているはずがない。先程の発言から類推するに、フランシェスカが戻ってこなければ、王太子の座が別の兄弟に移るのだろう。国王夫妻は、その決意を固めていることも想像できる。

 王太子の座に座り続けるために、この演技をしているのだ。自身の全てを用いて人心を得て、周囲の気持ちを思うがままに動かす。そんな人心掌握術に長けている点では、この王太子は、王に向いているとも言える。


「フランシェスカ様」


 何か言う前に、隣から、囁きが飛んできた。ジャックである。その眉尻を垂らして、切なそうな表情をしていた。

 どうしてそんな顔をするのだろう。

 王太子は来たのに、元婚約者であったサラマドール嬢は来ていないことが哀しいのだろうか。厳重に警備されている会場に、呼ばれていない伯爵令嬢が入れるはずはない。王太子が特別なだけである。


「あなたが望むのなら、僕は身を引きますよ」

「身を引く、って……?」


 予想外の発言に、返す言葉がなかった。


「フランシェスカ様は、本当は王太子殿下を想っておられるのですよね? 僕の衣装も、彼を思わせる水色です。その……お望みならば、僕は、足蹴にして頂いて構いません。婚約破棄なんて、一度も二度も変わりませんから」

「そうか! 物分かりの良い婚約者だな。さあフランシェスカ、僕の元においで」


 なぜかジャックは、フランシェスカが、王太子に思いがあると誤解している。

 正さなくちゃ。

 フランシェスカは、逸る気持ちに押され、立ち上がった。


「何を仰るの? 身を引く、なんて。私は、あなたとの婚約を望んでいるのに」

「ありがとうございます、フランシェスカ様。本心を言ってくださって良いのですよ。あの時みたいに、ここにいらっしゃる皆さんが、証人になってくれます。この状況では、僕との婚約を破棄したって、誰もフランシェスカ様を責めません」

「そういうことじゃないわ。王太子殿下との婚約は、破棄されたの。私は、あなたとの婚約を披露するために、ここにいるのよ」


 かっ、と頭に熱が上った。なぜだかフランシェスカは、必死になっていた。


「あなたの色をした服を着たとき、嬉しかったのよ。私も次の舞踏会では、自分の色の衣装を贈ろうと思ったのよ。最初は……最初は、婚約破棄された者同士丁度良いかと思ったけれど、あなたとは、憧れていた色々なことができて、それが嬉しかったのよ」


 フランシェスカの目には、困惑するジャックしか見えない。こんなこと、招待客の前で言うことじゃない。わかっているのに、どこからか溢れてくる熱情が、止まらなかった。


「あなたこそ、本当は、元婚約者の彼女に気持ちがあるのでしょう? 王太子殿下がここにいらっしゃるなら、彼女もあなたとの復縁を望んでいるはずだわ。本当は、本当は、そちらに行きたいのよね?」


 婚約を続けたいはずなのに、なぜこんなことを口走っているのか。自分の言葉に従って、本当にジャックがいなくなったらどうする気なのか。自分で自分を咎めながら、でも口は止まらなかった。


「フランシェスカ様……そんな風に、言ってくださるのですね」


 ジャックの黒い瞳が、目の前にあった。いきなり立ち上がった彼に驚き、フランシェスカの言葉が止まる。


「僕が、あの元婚約者に気持ちがあると思っていたのですか?」

「そうよ。婚約破棄の話題になる度に、辛そうなお顔をしていたでしょう」

「フランシェスカ様が、本当は殿下にお気持ちがあるのではないかと思うと、苦しくて。そんな顔をしていたかもしれません」


 まさに今、ジャックはその苦しい顔をしていた。

 この顔は、あの伯爵令嬢を思うからではなく、フランシェスカの気持ちを慮ってのものだった。驚きの告白に、ぱちぱち、と瞬きしかできない。


「王妃教育を受けてきたフランシェスカ様は、もしその座に戻れるなら、その方が都合が良い。ですから、殿下のお言葉を、受け入れるおつもりでしょう?」

「都合が良いなんて。そんな理由で、今更、婚約を破棄したりしないわ……」


 質問に答えながら、フランシェスカは不思議に思った。都合が良いから、ジャックとの婚約を望んだはずである。

 そしてフランシェスカは、もうあの息苦しい「未来の王妃」という立場に戻りたくはない。だからジャックとの婚約は、都合が良いはずで。

 しかし、フランシェスカは今、そんなことを言いたいのではなかった。


「それよりも。……あなたが、幸せになれるのなら、あの伯爵令嬢との婚約を望むのなら、この婚約を破棄した方が良いと思っているわ」

「僕が、望まなかったらどうなのですか? フランシェスカ様のおそばにいることが、幸せだと言ったら」

「それは……」


 ジャックの手が、フランシェスカの腰に回される。

 ああ、この人は答えをわかっているのだ。

 フランシェスカは自分から、ジャックに身を寄せた。


「私のそばで、あなたが幸せになるのが、一番嬉しいわ」

「僕もです。フランシェスカ様が望むのなら、僕はあなたと共に過ごしたい」


 何だ、両思いじゃないですか。

 ジャックの言葉を、フランシェスカは、どこか夢見心地で聞いていた。

 柔らかな唇の感触が、額に触れる。


 拍手の音ではっとした。フランシェスカ達の両親が、大きな音で拍手をしている。やがてその波は、招待客に広がった。

 そもそもが、フランシェスカとジャックの婚約を祝うための式だ。二人の初々しいやりとりを、祝福しない者はなかった。


「な、なんだよ……」


 ただ一人、熟れた果実のような顔で、床に手を突く王太子を除いては。


「い、いいのかお前たち!」


 さりとて、王太子は王太子である。彼の大声に、拍手の音は収まった。


「わが父母は、僕とフランシェスカの婚約をお望みなのだぞ! そうでなければ、王太子とは認めないと、僕に言ったのだから! この二人の婚約を祝福するのなら、ここにいる者は──皆、王家の敵だ!」


 王家の敵。

 それは、非常に重い言葉である。

 本来であれば反逆者に使われるべき、その後の処刑を示唆する言葉。どんな事情があれど、王家の者が、脅しに使って良いものではない。


「ならばそのように、両陛下にお伝えくださいませ。殿下の仰る通りなら、両陛下から、我々にお言葉があるはずですから」


 ジャックの胸に抱かれたまま、フランシェスカはそう言った。言外に、「そうなるはずはない」という気持ちが込められていることは、良識ある貴族たちには充分伝わることである。


「そ、そうだな。覚悟しておけよ!」


 しかし、この王太子は違った。本気にしたようで、早足で会場を出ていく。


「愚かな浮気相手の影響を受けたのかしら」


 どこかのご婦人の呟きが、妙に響く。失笑が広がり、場の空気は、一気にフランシェスカ達の元に帰ってきた。


***


「陛下は第二王子殿下を、王太子に指名なされたのですって」


 日の当たるテラスでカップを持ち上げ、フランシェスカは先程聞いた噂話を持ち出した。


「安心だね。フランの妹が、婚約者になったのだろう?」

「ええ。殿下は誠実な方だし、昔から妹と親しかったから安心だわ」


 向かいには、ジャックが腰掛けている。婚約披露の準備から恒例となった二人でのお茶会は、今日も優雅に、穏やかに執り行われていた。


「前王太子殿下は、リンデル辺境伯に婿入りなさるそうよ。あそこは腕っ節の強い方が多いから、性根から叩き直すって乗り気みたいで」

「情報がよく入るね。あの伯爵令嬢がどうなったかなんて、誰も噂していないよ」

「妹が教えてくれるのよ。私も、わざわざ聞こうとは思わないわ」


 どちらともなく、目が合う。先に微笑んだのは、ジャックだった。


「フランシェスカは、僕にしか興味ないもんね」

「なっ……他のことにも、興味はあるわ。その……羽馬の性質とか、サルエル地方の特産物とか」

「うん、ニメシス侯爵領に興味を持ってくれてありがとう。それって結局、僕のことだよね。嫁入りするために、勉強しているんだもんね」


 にこにこと微笑むジャックの前で、フランシェスカの顔は、みるみるうちに赤く染まっていく。


「学園時代から憧れていたあのフランシェスカ様が、僕の前でこんな可愛い顔をしてくれるなんて。あの頃の僕に教えたら、信じないと思うよ」

「学園時代から? どういうこと?」

「恥ずかしいから言わない。ほらフラン、紅茶が冷めるよ」


 二人の会話を聞き、傍に控える使用人達が、目配せをして微笑み合う。


 平和な、そして甘やかなやりとり。それが日常になったフランシェスカは、まろやかな光の中で、幸せに浸っていた。

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