40. 帰省 / 旅行

 パリン――

 夏季なつきが、麦茶の入っているコップを落とした。ガラスの破片が散らばる。


「だっ、大丈夫っ?」

 蝉の脱け殻のようにボーッとしていた夏季は、ハッと意識を取り戻して、近づこうとする美月みづきから後ずさりをする。

「母さん! 母さーん!」――夏季は奥の方へと叫んだ。

「美月っ、危ないって! ぼくが片付けるから。夏季もじっとしてて」

 なぜ、帰ってそうそう、散らばったガラスの後片付けをしなければならないのだろう。


「えっと、夏季……くん? ケガとかしてない?」

「えっ、あっ、そのっ……だっ、大丈夫ですっ!」


 見たかぎり、出血はしていないみたいだった。一安心だ。

 奥から急いでやってきた母さんが、後片付けを手伝ってくれて、この騒ぎはようやく収束した。長旅で疲れているのだから、勘弁してほしい。

 母さんが、夏季を叱りつけた。


 ぼくと美月は、仏壇に手を合わせた。

「最初に、お仏壇に手を合わさせてもらってもいいかな?」

 あらかじめ送っておいた荷物を開封するでも、部屋で一休みするでもなく、ここに来てすぐにそう申し出てくれたことに、ぼくも母さんも、こころを揺すぶられた。


 ぼくたちには――鱗雲家うろこぐもけには、はじめて、自ら死を選んで先祖のところへってしまった家族がいた。結衣ゆい。みんなが愛していた、かけがえのない家族だ。


 だから、結衣の魂が宿っている仏壇には深い思い入れがある。そこには、悲しみと悔しさが、ずっと生き続けている。

「ありがとう」

 母さんは、目の前の美月に、ぐっと距離を狭められた気分なのだろう。近しいひとに使うような声音こわねは、美月をまったくの他人として扱ってはダメだ、という決意のようなものが感じられた。


     *     *     *


「夏季、美月ちゃんにも謝りなさい」

 階段の一段目からこちらの様子をこそこそとうかがっていた夏季に、母さんは叱るように呼びかけた。すると、素直に台所へと入ってきて、「ごめんなさい」とぺこりと頭を下げた。すっかり悄気しょげてしまっている。


「まあ夏季も、勉強に疲れてるんだろうから」

 がんばっている夏季のために、少しだけフォローをする。

 四月から中学三年生になる夏季は、高校受験のための勉強をもうはじめているのだと聞いている。塾のない田舎町だけに、市の中心の学校に通う生徒に比べてハンデがある。ぼくも、塾には通っていなかったし、家庭教師に来てもらったこともない。


 そういえば、神凪かんなぎ先生はこんなことを言っていた。


「いろんな理由で塾に行くことができなかった学生は、たくさんいる。そういうハンデというものを、忘れてしまう教員は意外と多い。自分たちが経験したことを、ほかのひとたちも経験していると決め込んでいてね。こうした事実に敏感でないと、教育者とはいえないと思うんだけどね……あくまで、わたしの考えだけど」


 もちろん先生は、愚痴をこぼしていたのではない。教科書として指定された本のなかに、アマルティア・センの議論――ケイパビリティ論が紹介されていて、「わたしたちの身近にも、不平等はあふれている」という話題になったのだ。


 しかし夏季は、勉強で疲れていたわけではなかったらしい。

「勉強じゃなくて、その、あのっ……」

 はっきりとしない夏季だったが、ついにこんなことを口にした。


「すっごく、美人なひとだから……」

 おい。本音だったとしても言葉にするんじゃない。どう返していいか、美月が戸惑っているじゃないか。

「でもほんと、風吹ふぶきにはもったいないくらいの美人さんよね」

 母さんまで!


 美月の顔はみるみる真っ赤になっていき、テーブルに視線を落としてしまった。冬には掘炬燵ほりごたつになるテーブルは、地べたに座っているというより、腰をかけている感じがする。そして隙間から、美月が足をもじもじさせているのが見えた。


「えっ! 兄ちゃんの彼女なの?」

 おい夏季! 違うぞ!

「そうよ。今日は挨拶に来てくれたの」

 母さん!

 美月はますますうつむいていく。その美しい滝のような黒髪が顔を隠してしまっている。


 美月が、ぼくの足をつっつく。どうにかして、ということだろう。

「ほんとだ、いちゃいちゃしてる……」

 夏季は、ぼくたちの足の動きでそう察したらしい。

 これは違うんだ! 夏季!

「おふとんは、風吹の部屋に並べて置いといたけど……お父さんは疲れているんだから、少しは静かにしてね」


 二泊三日の旅行として、遠く海を見渡せる高台にある、苺農家いちごのうかのぼくの実家に来たのだが、明日はどうするかとか、なにも考えていなかった。

 まあそれは、夜に美月と決めることにして……って、まてまて。ぼくの部屋にふとんを並べたって、美月と同じところで寝ろってことなのか?

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