38. 春の美月

 小花柄のワンピースと肩から軽く羽織っているシアーなシャツは、柔らかなイエローでシンプルにまとめあげられていて、ラベンダーのズックにブラウンのバッグが、彼女の大人っぽさを奏でている。胸のあたりまでかかっている漆のような黒髪が、背中の方へとさっとはらわれる。


 思えば、春の美月みづきを見るのは、はじめてだった。


     *     *     *


 藤棚ふじだな先生との面談を終えて、校門を抜けてバス停へと向かおうとしたところで、美月から電話がかかってきた。あのときのことが思い出されて、、すぐには応答することができなかった。


 ためらっているうちに、電話は鳴り止んでしまった。折り返さなければと、通話アプリを開いたところで、テキストメッセージが届いた。


《明日のバイトのあとに、旅行のことを話したいんだけど、いいかな?》


 美月に対しては、複雑な感情を抱えている。ぼくがしてしまったことに対する自己嫌悪だけではなく、あのあと美月から送られてきた長文のメッセージの、所々からうかがえる、彼女自身の自責の気持ち……。


 美月は悪くない。悪いのは、ぼくなんだ。そう言いたくてしかたがなかった。だけど、そう返信してしまえば、ぼくたちはもっと、傷つけ合うことになると思ったから、当たり障りのない言葉を返してしまった。そのことも、ぼくの良心を苦しめた。


 明日、久しぶりに美月と会う。どういう顔をすればいいのだろう。


 そんなことを考えているせいで、今日は、論文の執筆がうまくいかない。少し書いては、長く考えてしまう。


 それでも、まったく進んでいないということはない。いまは、先行研究をまとめているところだ。ここだけは、今日中に、半分くらいは進めておきたい。


 ×国には大きく分けて三つの民族が「共存」している。いまは、この民族の「起源」をめぐる論争を、先行研究を整理しながらまとめているところだ。


 例えば、そのうちの一つの民族が、ある別の地域から現在の×国あたりに移動し、そこで王朝を建国したという説が論拠を失ったあと、何人もの研究者から様々な新説が提案された。


 しかし、×国の内戦においては、論拠を失ったその説が「利用」されたという経緯がある。そしてそれは、××仮説と親和性があった。×国の内戦が想像を絶する被害者を生じさせたのは、こうした「誤解」の「利用」にある。


 藤棚先生には、感謝の気持ちでいっぱいだ。××仮説の理解が、かなりクリアになったから。それに、こんな嬉しいこともおっしゃって下さった。


神凪かんなぎ先生から聞いていた通りだよ、鱗雲うろこぐもくんは。マジメで、努力家で、なにより、研究にオリジナリティがある。きっといい修士論文を書くことができるよ。がんばって」


 アポイントメントを取ってくれれば、また相談に乗るよ。その言葉も嬉しかった。大学院生と「からむ」ことを面倒に思っている先生も、少なくないから。本当に、ぼくたちの「仲間」になってくださる先生なのかもしれない。


     *     *     *


 バイトの後、飲み会でいないマサさんの席を借りて、夕食をご馳走ちそうになった。そして、美月のお母さんから、旅行のことを切り出された。


 反対する理由はないとのことで、オーナーも「マサがいることだし」と、バイトを休むことを承諾してくれた。


 ただひとつだけ、懸念があるという。それは、愛する我が子のことを思うがゆえの、当然ともいえるものだった。


「でも……もし、パニックになってしまったら、鱗雲くんのご家族にお手数をおかけしてしまうかもしれないし、そこだけが心配なのよね」


 美月の顔が少しだけ曇った。これはきっと、ぼくの前では「言われたくない」ことなのだと思う。だけど、そういう心配をしたくなる気持ちは分かる。それでも、美月のことは、ぼくに任せてほしい。


「それは、大丈夫ですよ。ぼくの家族は、絶対に嫌な顔ひとつしませんから」

 そこで、ハッとしたらしい。美月のお母さんは、急いで訂正をする。

「そうよね。うん……ごめんね。そういうつもりじゃなかったの」

「いえ! もちろん分かってます!」


 ぼくの妹が、パニックの症状を抱えていたこと。それを告白すれば、少しは安心してくれるのかもしれない、なんて思ったけれど、どうしても口にできなかった。それは「言ってほしくない」ことだろうから。美月にとって、そしてきっと、妹だって。


     *     *     *


 ご家族の了承を得ることができ、具体的な日程も決まり、ぼくはその日、美月を迎えにいった。まだ、ぼくたちの間には、ぎこちなさがある。だけど、晴れ渡る青空が、心身をいくらか軽くしてくれている。


 そして、日本海が見渡せる「メゾン」の裏口で、まだ見たことのなかった、春の美月が待ってくれていた。

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