37. 独白

 藤棚ふじだな先生の研究室は、すっきりとしていた。なにも運びこまれていない、ということではない。

 本が整然と背表紙を並べていて、パソコンの周りには余計なものが置かれていないし、電気ポットの横には、インスタントコーヒーと紅茶とマグカップが、オシャレに配置されている。


 プレーンのクッキーが二枚入った袋と、かぐわしい匂いが立ち上る紅茶を差しだしてくれた。机の上には、白のレースのテーブルクロスの上に、本が数冊きっちりと重ねられているだけで、雑然としているところはひとつもない。

 床も電灯の明かりに輝いているし、窓もピカピカに磨き上げられている。掃除用具が部屋の片隅に、隠れるように立てかけてある。


 ボーイッシュな見た目にハスキーな声。それでもキュートな笑みを見せてくれる藤棚先生は、ぼくの研究の指導教員のおひとりである神凪かんなぎ先生と、むかし同僚だったこともあり、いまでも親しい仲なのだという。だから、ぼくのことも一通り聞いているようだった。


「移行期正義を研究しているのは、知ってる。だけど、フィールドワークに行っているのかと思ったら、言説の分析をしているというから、おもしろいと思ってね。現場に足を運ばない、机に向かっているだけの研究者というのは、昔から馬鹿にされがちだけれど、そういう外野の声は、馬耳東風ばじとうふうでいればいいよ。昨年度……の研究発表会かな? そういう質問が飛んできたって聞いたから」


 あれは「質問」というより「ヤジ」だった。だけど、正鵠せいこくている内容ではあった。そのことが、ぼくに〈ねじれた〉苦しみを与えた。言っていることは正しいし、ぼくはそれに適切に答えられていなかったかもしれない。

 だけど、その先生は、ぼくに真剣に向き合おうとしなかったし、横柄で失礼な態度を見せつけてきた。いわば、反省と反撥はんぱつが一斉に襲いかかってきたのだ。


「自分の知っている大学院生に、×国の研究をしていた子がいてね。その子はまさに、言説の分析をしてた。鱗雲くんとは違って、×国の歴史の〈語られ方〉を問題にしていたけどね。内戦後、×国は型にはまった〈語られ方〉をしてきたというようなことを、研究発表していたのを覚えてる。自分にはとてもおもしろく思えたけどね……」


 言説の分析――〈語られ方〉の問題。このような研究への風当たりが強いことは、身をもって実感してきた。だけど、似たような研究をしていた人がいて、それを「おもしろい」と思ってくれる先生がいるというのは、とても心強い。


「じゃあ、本題に入ろうか。×国の内戦の形成と経過に大きな役割を果たした、××仮説の内容について。確かにこれは、――という聖典を元にしているんだけど、自分も昨日調べ直してみた。これがどういう話かを説明するには、まず、登場人物のことを抑えておかないといけない。だから、順序を決めて教えていきたいと思うけど……」


 藤棚先生は、みっちり××仮説について教えてくれた。ぼくはそれを、ノートに書き留めながら傾聴していた。どんな質問にも答えてくれたし、すぐには返答できないところは、はぐらかしたりせずに、こういう調べ方をするといい、この文献に当たってみるといい、というようなことを、細かくアドバイスしてくれた。


 ぼくのために一時間も使ってくれた。「指導」が終わったあと、藤棚先生は、この一年の神凪先生はどんな「様子」だったかということを、それとなくいてきた。


 とても丁寧に指導してくださっていること、親身になって相談に乗ってくださること、そして、毎日大学に来ていて、ご自分の研究室を〈アジール〉とおっしゃっていること……などを伝えた

 その中で藤棚先生が一番反応を示したのは、とりわけ、最後のことだった。


「そうか。〈アジール〉と言っているのか。あれは、湖畔こはんのせいではないのにな。まあ、彼女らしいと言ってしまえば、そうだけれど……」


 ぼくに聞かせるつもりのない、完全な「独白」だった。神凪先生のことを、うっかり下の名前で呼んでいることからも、それが分かる。藤棚先生の、その断片的な「独白」から、前の大学で「なにか」があったのだと伝わってくる。


 ぼくを置いてきぼりにしていることに気付いたのか、藤棚先生は、取り繕うように紅茶を一口飲んだ。ぼくも、クッキーを小さくかじった。

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