36. 藤棚扇 教授(中世哲学・神学)

 どうしてもうまくいかないときは、先生の研究室に行くべきなのだろうけれど、春期休暇中ということもあり、躊躇ちゅうちょしてしまう自分がいる。

 神凪かんなぎ先生は、休暇中でも、毎日のように大学で研究をしている。だから、いつでも来ていい、という先生の言葉はウソではない。


 いまぼくが悩んでいる箇所かしょは、大きく分けてふたつある。


 ひとつは、ぼくが研究の対象としている中東部アフリカの×国では、内戦後、国際刑事裁判所が設置されることになったのだが、その場所というのが国外のAというところだった。だとするならば、A(のある△国)について調べなければならないが、どれくらいの範囲にとどめるべきなのか、ということ。


 そしてもうひとつは、内戦の際にプロパガンダとして使われた××仮説を検討するには、――教についての知識が必要になるが、その聖典を読んでも、理解できないところが多々あり、先に進めないでいること。このふたつだ。


 ――教の聖典の入門書を読んでも、××仮説とうまく結びつけられず、髪をかきむしってしまう。一息こうにも、頭の中は「うまくいかない」ことでいっぱいになる。

 しかしそのとき、光明が差し込んだかのように、あのことが思い出された。


藤棚扇ふじだなおおぎ先生に相談してみようか)


 大学が提供している、学生専用の情報サイトには、もうすでに新任の先生の連絡先が掲載されている。


「お忙しいだろう、という理由で連絡をしてくれないのは、教員としては寂しいものだよ。頼られれば頼られるだけ、この仕事をしていることに〈意義〉が見出せるものだから」


 入学式のあとのオリエンテーションで、研究科長の神凪先生が、〈学生の心構え〉について言及した際に、そうおっしゃっていたのを思い出す。


 お忙しい時期だということは承知の上で、藤棚先生に連絡をすることにした。

 メールの文面を考えて打ちこむのに、一時間もかかった。自分がどういう学生であるのか、どういうことを相談させていただきたいのか、そうしたことを、ちゃんと伝わるように、丁寧に書かなければならない。


 もちろん、そんなにすぐに返信がくるわけがない――と思っていたのに、一時間も経たずしてメールが届いた。明日の午前中なら時間が取れるから、希望の時間を教えてほしいとのことだった。


     *     *     *


 春期休暇中に大学に来たのは、「研究科紀要」の発送の準備をしたとき以来だろうか。約束の時間より早くついてしまい、大学院生専用の研究室で待つことにした。ぼくの机の前は、芭蕉ばしょう先輩の席だ。どうやら、今日は来ていないらしい。


 来年度から入学する大学院生は、どのような方なのだろう。他大学から琥珀紋学院こはくもんがくいん大学に進学するということは、「ここで研究したい」という強い意志の現れだ。大学院のブランドを度外視し、周りから「Fラン」とそしられることをいとわずに、ここに来るのだから。


 そのとき、研究室のドアがノックされた。

「もしかしてきみが、鱗雲うろこぐもくんかな?」


 そのブラウンの髪は、寝癖のように切り込まれている(どこかで聞いたことのある〈ウルフヘア〉という髪型だろうか?)。しかも、髪の内側と外側で微妙に色の濃淡が違っており、カールの具合も、ふわっとしたものから、くるくるとしたものまで、一様になっておらず、一言で表わすなら「ボーイッシュ」だ。


 青一色のシャツタイプのワンピース(美月から聞いた言葉だけど、合っているか分からない。よく見てみると、腰の辺りに太い蝶々結びが見える)を着て、白の縦縞の入った淡い水色の手提げを右手に持ち、白色のブーツを履いている。


 ひょっとして、来年度からうちの研究科に進学してくる新入生の方……なのかと思ったが、クールな雰囲気のなかに、どこか親しみやすさを宿した彼女は、こう名乗った。


「初めまして。藤棚扇といって、来年度から琥珀紋学院の文学部に勤めることになったのだけど……えっと、鱗雲くんでいいんだよね?」


 なんと、目の前にいるのは、神凪先生の元同僚で、トマス・アクィナスを中心に、中世哲学や神学を専門としている研究者の、藤棚扇先生だった。

 ええと、二十代後半の方にしか見えないのですが!

 このままでは、神凪先生の、文学部の「オシャレ番長」(named by 胡桃ことう先生)の座が危ない!……とか、思っている場合ではない。


「はっ、はい! 本学人文学研究科の修士1年の鱗雲風吹うろこぐもふぶきです!」


 それを聞いて安心したのか、藤棚先生は、雰囲気を一転させて、キュートな笑顔を見せた。

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