35. 妹と美月

 ぼくの妹は、世話をされすぎることが嫌いだった。口には出さないけれど、「それはしないで」と思っているということが、傍目はためからも分かった。「しないでほしい」ことを、母さんや父さんにされることが、恥ずかしかったのだ。


 ぼくには、そのラインがなんとなく分かっていた。友達と遊ぶところに顔を出されるのは嫌だけれど、雨や雪が降るときは例外で、そういうときは顔を見せなければ、こわくなってしまう。


 修学旅行の日に、「大丈夫だよ」と家で言うのはいいけれど、集合場所で構われるのは嫌だから、遠くから見守ってほしい。ムリに決まっているけれど、「いつでも迎えにいくからね」と言わないと安心できない。


 こういう微妙な線引きがあるということが、ぼくは、なにも学ぶことなく理解することができた。なぜだかは、分からない。共感ができるわけでも、予測がうまいわけでもない。


 だから、ぼくがいなくなるというのは、妹がいなくなるということと、無関係ではなかったのだと思う。


     *     *     *


 しかしぼくは、美月みづきの気持ちを察することができなかった。同じパニックの症状を抱えているからといって、妹にしていたことを応用できるわけではない。ひとそれぞれのものなのだから。


 それなのにぼくは、美月におせっかいを焼いてしまった。ぼくがこの場に現れることは、美月にとって、してほしくないことなのに。


 先陣を切って歩いていた、おそらくこの集団をまとめているリーダーとおぼしき男性が、「どうかしましたか?」と、至極真っ当な問いかけをしてきた。


 一点透視法のように、美月のゼミ仲間たちの視線が、ぼくへと集まってきている。しかしぼくは、返す言葉がなにも見つからなかった。


 美月に用があるなんて言えない。用があることは確かなのだけれど(ここから引き連れていきたいと思っていたけれど)、それを言ってしまえば、美月のこれから先の大学生活に暗い陰が落ちてしまうかもしれない。


 だから、美月と知り合いであることを悟られないように、無難な返答をするべきなのだろう。それでも、なにも言えずにいると、相手の顔はどんどん雲っていき、ヘンなものを見るような眼をされた。こうした一悶着は、美月にしてみれば恥ずかしいことに違いない。ずっと足下に視線を落としている。


     *     *     *


「人違いでした」と言ったのか、それとも別の言葉だったのか、そんなことも覚えていない。バスと電車に乗っていたときの記憶もない。熱いシャワーを浴びながら、自分のを責めた。


 こんな日は、もうなにも手につくことはない――と思っていたのに、一通のメールに、救われてしまった。


 決して読まれることがないと思っていた「研究科紀要」に、ロベール先生が目を通してくれて、わざわざ感想を送ってきてくださったのだ。


 観音かんのん大学の大学院生の高レベルな研究に触れて、意気消沈していただけに、自分の研究に前向きな言葉を頂けたのは、嬉しい限りだった。メールを何度も読み返したあと、ぼくは修論の続きを書くことに決めた。両手でほほを叩いて、気合いを入れた。


     *     *     *


 鱗雲うろこぐもさん


 今年度の研究科紀要の鱗雲さんの小論文を読みました。興味深いことがたくさん書かれていて、とても刺激的な内容でした。胡桃ことう先生、神凪かんなぎ先生の指導と、鱗雲さんの努力が合わさって、オリジナリティあふれる研究になっていると感じました。修士論文が楽しみです。


 ひとつだけアドバイスをすると、二十世紀の思想史を念頭に置くと、もっとクリアにこの時代のことが見えてくると思います。この頃の西洋の知識人は、脱西洋を表明していました。西洋以外の地域を主役にするべきだという主張です(そして、旧来は社会の周縁に置かれていた人々にスポットライトが当たりはじめます)。


 そうした思想史の文脈から、×国を取り巻く国際関係を位置付けると、今後の鱗雲さんの研究を、より奥行きのあるものにするのではないかと考えました。


 もちろん、よく書けている小論文だと思いました。引き続き、がんばってください。自分に力になれることがあれば、サポートしますので、遠慮なく声をかけてくださいね。それではまた、大学でお会いましょう。


 アリス・ロベール

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