26. 3月になったら

 琥珀紋学院こはくもんがくいん大学の人文学研究科には学期末のテストがなく、授業態度などで成績が付けられる。規定の出席日数を満たさないなどしないかぎり、単位が落ちるということはまずない。


 だから半期十五回の授業が終わるとすぐに、春休みを迎えるわけだけれど、正直、休みなんてあってないようなものだ。休みであろうと、最大の目標である修士論文の提出に向けて、研究を続けなければならない。


 しかし休暇中ともあって、「メゾン」でバイトをする日数は増えた。大学に行く時間が少なくなったからというのもあるけれど、最大の理由は、約1カ月後に開かれる研究発表会の準備で忙しい美月みづきが、店頭に立てなくなってしまったからだ。といって、いつものごとく客足は少ないので、苦労することはないのだけれど。


 大学院生になってはじめての春休み。大学が再開するのは4月1日だ。学生にとっては、たくさんの想い出を作る大切な時期になるだろうし、就職活動をしていた(している)4年生ならば、新生活に向けての準備で忙しくなることだろう。


 ぼくも来年の春からは、どこかで働いているに違いない。修論を書きながら就活をするなんて、まだ想像もできない。大学4年生のときは、進学のために努力を全振りしていたから、スーツを着ることは一度もなかった。


 今年は大変になりそうだ――と、何度目か分からないため息をつくと、暖簾のれんを押して入ってきた美月が、「少し代わろうか?」といてきてくれた。


「ありがとう。でも、大丈夫だよ」

「そう……ならいいけど、このところずっと、わたしの代わりにお仕事をしてくれているから、申し訳ないなって思って」

「美月は、いまは自分のことに集中していればいいって」


 自分本位ではいられない、他人に気を遣ってしまう――だからこそ、疲れるし傷つきやすい。美月がそういう性格だということは、知っている。


「ところでさ、美月」

「うん?」

「研究発表会は、3月1日から三日間で、美月の発表は最終日ってことでいいんだよね」

「そう。二日目までは今年度の卒業生の成果発表で、最終日が一部の在学生の中間報告の日になってる」

「そこで、提案なんだけどさ」

「うん」

「発表会が終わったら、旅行にいかない? ぼくの実家に連れていくって約束をしたからさ」


 3月あたりに少しだけ実家に顔を出そうと思っていたし、来年のいまごろは、新生活に向けてのあれこれで大忙しだろうし、それから先は――寂しいけれど、美月とは離ればなれになるだろうし、あの約束を果たすことができるとすれば、いまぐらいしかない。夏も考えたけれど、たぶんその時期は、修論の執筆が佳境に入っているだろう。


「ぼくの都合で、三日間くらいの滞在になってしまうけれど、よかったらどうかなって」

「えっと……ちょっと考えさせてくれるかな?」

「もっ、もちろん! すぐに決められることじゃないもんね。ごめんね、急に言って」

「ううん! 約束を覚えていてくれたのは嬉しいし! うん、そうだよね……ふたりの予定が合いそうなのって、いまぐらいだろうから」


 美月は、ぼくたちに残された時間について、どんな風に考えているのだろうか。彼女が作る柔和な笑みのなかからは、そうしたものを見つけることができなかった。


     *     *     *


 2週間前に納品された「研究科紀要」の発送準備のために、久しぶりに大学へきた。

 自販機の前を通りかかったとき、おにぎりと一緒に飲み物を買うのを忘れていたことに気付いた。


 ポケットから財布を取り出した、そのとき――

「美月~! こっちだよ~!」

 後ろで「美月」を呼ぶ声が聞こえて、思わず振り返ってしまった。だが、もちろん人違いで、そこにいたのは、ぼくの知らない「美月」さんだった。


 しかしその「美月」さんというのは――遠目から見ても信じられないほどの美人だと分かったし、もし近くにいたならば、目が釘付けになっていたかもしれない。


 さぞかし(いろんな意味で)人気なことだろう……などと思っていると、スマホが鳴った。芭蕉ばしょう先輩からの、《もう着いてる》という連絡だった。

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