27. 冬晴れの日に

「ええと……住所ラベルの印刷が終わりました」

「……ん、封筒のなかに案内と紀要を詰め終わった」


「あとは、封をして、ラベルを貼って……」

「……もう一度、送付先の確認をして、事務室にまとめてもっていけば、終わり」


「ですね」

「うん」


 あの日以来、はじめて顔を合わせたけれど、お互いに目を見ることができず、私語を交わすこともなく、たんたんと作業を進めていた。

 芭蕉ばしょう先輩の顔は、ずっとほんのり赤らんでいたし、それをチラっと見てしまうと、ぼくもカーッと赤面してしまう。のひとつひとつの言動が、思い出されてしまうのだ。


「それじゃあ、事務室に持っていきますね」

「……うん、ありがとう」

「先に帰っていただいても大丈夫ですよ」


 先輩はなにか言い返そうとしているらしい。立ち止まったまま、ぼくから視線をそらし、口をもごもごとさせている。


 するとようやく、なんとか聞き取れる声で、

「うん……でも、待ってる」

 と、言ってくれたので、

「じゃあ、一度戻ってきますね」

 そう返答して、完成した封筒を入れた箱を持ち、院生研究室を後にした。


     *     *     *


 事務員の方に箱を渡して、院生研究室に戻ろうとしたそのとき、ぼくの前に神凪かんなぎ先生が現れた。八須賀はちすかさんに用があるのだと言っていたけれど、「少しだけ話したいことがあって……」と、先生は廊下の隅の方へと寄った。


「来年度から四人の先生が着任することになったんだけどね、そのうち三人の先生が、鱗雲くんの研究に、新しい角度を与えてくれそうな分野を専門にしていてね。でも、新任の先生は大学院の授業を開かないことになっていて……」


 そんな取り決めがあるなんて知らなかった。でも神凪先生によると、新しい先生も大学院の運営には関わるらしい。


「そのうちのひとりが、わたしが前にいた大学の同僚で、藤棚扇ふじだなおうぎ先生っていうひとなんだけど、専門が宗教学でね」


 ぼくが研究の対象としている国のある地域――中東部アフリカでは、宗教が大きな役割を果たしている。というのも、植民地時代、この地域では神学校などが現地の人々の教育に携わっていたし、いまでも地域に教会が根付いているからだ。内戦と宗教の関係性を論じた研究も、多く発表されている。


「もうひとりが、藍染あいぞめ先生が言うには、中世哲学や神学を専門としている先生で……たしか、トマス・アクィナスを研究しているらしくてね。その方も、民族対立の火種のひとつとなった、××仮説について考える上で、新しい知見を与えてくれそうだし、そしてもうひとりの先生は、比較政治学を専門としていて、ナショナリズムについての論文も書いてる」


 だから、このお三方は、ぼくの研究と密接に結びついている分野を専門としていることになる。しかし授業は開かないので、直接学ぶことはできない――と、先生は言っているのだ。


 だけど、ぼくがアドバイスを求めにくるかもしれないから、そのときは相談に乗ってあげてほしいということを、神凪先生の方から伝えておいてくれると言ってくれた。こうした配慮には、ほんとうに感謝しかない。


 しかし、先生はひとつ懸念があるとも言った。あとひとりの先生というのが、かなり評判の悪いひとで、ハラスメント気質で、自分のことを第一に考えている方らしい。これはたしか、藍染先生も言及していたと思う。


「ちょうど会ったから、このことを伝えておこうと思ったのだけど、ごめんね、急いでいるところを」

「いえ! いろいろと教えてくださり、ありがとうございます!」

 そのとき、スマホが震動した。ポケットを手でおさえたが、ぼくのではないらしい。

「おっと、すまない。わたしのだ。それじゃ、なにか困ったことがあれば、いつでも連絡していいからね」


 そして、先生と別れてすぐ、後ろの方から「泰介、ごめんね、いまは少し……」というひそひそ声が漏れ聞こえてきたのだが――この前の「祐二」さんとは、別れてしまったのだろうか。

 という胡桃ことう先生の言葉が思いだされる。


 窓からは西陽が差して、階段の踊り場の色濃い影をくりぬいている。雪の気配はなにひとつしない冬晴れのなかからは、だれの声も聞こえてこない。強い風が渦を巻いて吹き抜けていくこともない。透き通るような凪いだ時間が、冷たく静かに流れている。


 芭蕉先輩が待っている。静謐せいひつな階段を止まることなく踏んでいく。

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