20. 芭蕉先輩との約束

「えっと……ぼくに言ってます?」

「ほかに、だれがいるの?」

「でも……先輩は嫌じゃないですか?」

「なんで?」

 なんでって、彼氏さんがいるのに、ぼくの痕跡みたいなものが残ったら面倒だろうし……。


「いや、だって、ぼくをお風呂場に入れちゃうのって、いろいろと……」

「ぜんぜん、大丈夫だけれど。だから、先に入ってくれても構わないわ」

 待ってくれ。ぼくの入った湯船に芭蕉ばしょう先輩が浸かるのか? ためらわれる――というか、そんなことできるわけないだろ!

「いえ! 先輩が先に入ってください!」

 あっ……この発言は、マズイ。まるで、先輩の入ったお湯に浸りたいと思ってるみたいじゃないか。


「ぼくは、シャワーだけ借りさせていただければ……というより、気を遣わなくて大丈夫ですよ。暖房がきいているおかげで、寒くないですから」

「身体の芯が冷えてる。絶対に」

「あの……先輩。ぼくが使わせてもらったお湯に入るのとか、抵抗がないんですか?」


 あっそうか――と、先輩はようやく、事の重大さに気付いたらしい。みるみる顔が赤くなっていく。そして、キッとこちらをにらんでくる。

「……ハレンチ」

 なんでだよ! 全然乗り気じゃなかったじゃないですか、ぼくは!

鱗雲うろこぐもくん、わたしの入ったお風呂のお湯に浸かりたかったの?」

 だから! ぼくは最初から断っていましたよね!


 しかしもう、お風呂にお湯を入れてしまっているわけで……。

 ということで、先輩が入った後に湯船を抜いて、シャワーだけ借りることにした。たしかに、身体の芯まで温まりはしなかったけれど、暖房の効いた部屋にいると、相乗効果なのか、全身がぽかぽかとしてきた。


「こたつに入ったら?」

 先輩は、対面のスペースを指さす。

「カーペットの上でも温かいですよ」

「遠慮しないで」

「でも……」

「でも、なに?」

 先輩の部屋に来てからずっと気になっていたことを打ち明ける。


「彼氏さんに申し訳ないというか、なんというか……いいんですか? 知らない男を部屋に上げて?」

「大丈夫」

 と、断言する先輩。きっと、おおらかな人なのだろう。少しは安心……なのかな? ううん。

「いいから、こっちに来て」

 こたつに入ると先輩の足にあたり、急いで正座に直した。先輩もびくんと身体を震わせたみたいで、上の台が少しだけ揺れた。


「ごめんなさい!」

「びっくりした……」

 ぼくたちの間に、会話は生まれなかった。けれど、さっきまでのひしゃげていた先輩が、少しずつ元の雰囲気に戻っていくのを感じていた。

「わたしの心配をするくらいなら、鱗雲くんも自分のことを気にしたら? そっくりそのまま言葉を返すなら、違う女の人の家に上がりこんで、彼女に悪いと思わないの?」

 沈黙を破ったのは、先輩の方だった。


「彼女なんていませんよ」

「うそ」

 居住まいを直した先輩は、少し前のめりになってなじってくる。

「クリスマスの日に、指切りをしているのを見たから。あんなこと……彼女とじゃないとしない」

 あのとき、ぼくたちを外から見ていたのは、やっぱり、芭蕉先輩だったのか。


「どうせ、結婚しようね――とか、そういう約束でしょう」

「そんなわけないじゃないですか」

「じゃあ、なにを約束したの? 永遠の愛でしょう?」

 絶対に本当のことを言わせてやるという気迫を、前面に押し出している先輩。一体何がそうさせるのだろう。そんなに気になることだろうか。まったく分からない。


「今度、ぼくの実家に連れて行くっていう約束です」

 先輩は口を開けたまま固まってしまった。あれ……?

「ひとはそれを……」

「はい?」

「ひとはそれを……結婚の約束というのです」

「いいません」


 ぼくは当たり障りのない程度で、あの日のことを話した。しかし先輩は、まだ不機嫌なままだった。


「じゃあ、わたしもどこかに連れてって」

「えっと……一緒にぼくの実家に来ます?」

 来客がふたりでも問題はないだろう。


「イヤ。鱗雲くんとふたりで、旅行をしたい」

 湯船で温まった後に、暖房のついている部屋でこたつに入っているから、あんなに顔が火照ってしまっているのだろうか?


「ふたりで旅行ですか」

「だめ……?」

「だめじゃないですけど、急な提案なのでなんとも……」

「じゃっ、じゃあ! いつでもいいからっ! ふたりで旅行に行くってこと、約束して!」


 ぼくの目を見つめて、距離をつめてくる先輩。

 嫌なわけではない。あまり遠いところは、お金の面で困るけれど。それでも、先輩となら、楽しい一時を過ごせると思う。


 そのとき、先輩がぼくの目の前に小指を突きつけてきた。

「鱗雲くんは、こうやって約束をするひとなんでしょう?」

 なんだか、ほほえましくなる。子どものころ、両親が「~をしてあげる」と提案してくれたときに、「絶対だからね!」と言って、何度も指切りをしていた。

「はい、約束です」

 先輩の真珠のような爪の小指に、ぼくの小指をからませる。そして、二度、三度とお互いの手を揺すり、ほどけないことを確認しあう。


 そうして先輩は、いままで見たことのないような満面の笑みを見せた。

「ありがとう。鱗雲くんっ!」

 まだまだ外は暗いけれど、時計を見ると、もう明け方になっているらしかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る