21. ひとつ相談があるのだけれど

 欧州リーグと呼ばれるヨーロッパのサッカーリーグは、年跨ぎで1シーズンを闘うと聞いている。だから、いまはちょうど、「2023-2024年シーズン」ということになる。欧州リーグでは、選手が移籍するタイミングが年2回あるらしく、それはシーズン開幕前の夏と、シーズン中の冬であるらしい。そしてこの日も、選手の移籍情報が飛び交う期間にあった。


 年明け初めての胡桃ことう先生の授業。教室に向かうとすでに先生はいて、遅刻をしたのではないかと焦ってしまった。しかし胡桃先生いわく、「今年は修士論文作成の正念場だからね。こっちも気合いが入ってて、思ったよりはやめに来てしまったの」とのことだ。


 そしてぼくが来るまで、先生が応援しているイタリアの名門チームに、ドイツリーグの得点王が移籍するらしいという情報の真偽を確かめていたとのことだ。


「昨シーズンに活躍したツートップが移籍してから、得点力不足だったからね。本当だったら嬉しいなって。まだまだ優勝を狙える位置にいるから」

「先生って、日本のサッカーは観ないんですか?」

「むかしは、友達とスタジアムに行くこともあったんだけど、いまは専門チャンネルに頼りっぱなしだなあ」

 先生は、野球でもサッカーでも、千葉のチームを応援しているらしい。一方で、そのチームに所属している選手の名前を、ひとりも知らないくらいに、ぼくはスポーツにうとい。


 チャイムが鳴った。

 授業がはじまると、先生の態度は真剣そのものとなり、冗談も気軽なノリもなりを潜める。


「まず、課題の確認から始めましょう。課題は、修論の一部を書いてきてもらうというもので……書いてきてくれたのは、自分はなにを研究するのかという目的の部分と、鱗雲うろこぐもくんの研究が、いままで世に出された研究とはなにが違っているのか、そして、その研究の意義はなんなのかを説明するところね。わたしは、ここまで頑張ってくれるとは思っていなかったから、素直に嬉しかった。もちろん、鱗雲くんのことを信用していないとか期待していないとか、そういうことではなくて、あの短期間でここまで書くのは、並大抵のことじゃないから」


 先生の手元にある、ぼくの提出した課題をプリントアウトしたものには、びっしりとコメントが書かれている。


「先行研究の整理のポイントは、過去にこのような研究がなされていたけれど、こうした部分が十分に検討されていなかった、もしくは、まったく無視されていた、ということを提示すること。それでは、鱗雲くんの書いてきた部分を、一緒に見ていきましょうか」


 今朝印刷した自分のぶんのプリントを机の上に広げる。


「内戦後、大量の加害者が発生したことから、犯罪の種類を4つのカテゴリーに分けて、比較的に罪の軽いものは、民衆によるローカル裁判で裁くことになったというのは、移行期正義研究でも特殊な事例として注目されているけれど、この制度をめぐっては、否定的な評価が多い。それは、鱗雲くんが書いている通り」


 胡桃先生は、プリントの余白部分に、新しくなにかを書き加えている。


「ただ、《この研究者は、このように評価している》ということを単純に連ねるんじゃなくて、文章表現を変えて読みやすくした方がいいかな。でも、およそ代表的な議論はまとめられていると思う」


 胡桃先生は、評価できる部分とまだ未熟な部分を、両方とも指摘してくれる。


「だけど、肯定的な評価もないわけではない。この点にも触れてくれると、もうひとつレベルの高い『先行研究の整理』になると思う。だから、わたしのもうひとつの授業の方では、この本を読むことにしようかなって考えてるの。来年度からは、わたしの授業では、英語漬けになっちゃうかもしれない」


 そう言って、先生は苦笑した。それが悪意のあるものではないことは、もちろん分かる。英語ばかり読ませちゃってごめんねと、素直に思ってくれているようだ。


 先生は一冊のペーパーバックをぼくの前に差しだした。

 表紙は、森の中にある集会場のようなところの写真だ。手前には人々の後ろ姿がある。を誓っているのか、それとも抗弁しているのか。椅子に座りを筆記している人に向けて、を口にしている人も映されている。

 著者の名前はどこかで見たような気がする。いままで読んだ本のなかで、紹介されていたのかもしれない。


「この表紙の写真が、よく知られている民衆裁判の様子ね。こうして切り取られた写真を見ただけでも、イメージの助けになるわね。それで、この本はその民衆裁判に関する研究でも基礎的な文献のひとつなのだけれど、鱗雲くんは読んだことはある?」

「いえ、初めて見ました」

「ちょっと、中をめくってみる?」

 先生から受けとった本を開いてみる。びっしりと詰まった英文に眩暈めまいがしてしまう。


 すると胡桃先生は、この件のついでになにかを伝えるつもりだったのか、「ところでね」と前置きをして、こう話を切り出した。

「鱗雲くんに、ひとつ相談があるのだけれど……」

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