02. アリス・ロベール 教授(日本近代文学)

 授業が終わり、大学院生だけが使える「院生研究室」に戻るために階段を下りていると、はなうたを吹いて機嫌よく軽やかに、こちらへと上ってくる女性が見えた――アリス・ロベール先生だ。


 芥川龍之介を中心に日本近代文学を研究している、フランス出身の研究者だ。長く日本にいることもあり、日本語で充分にコミュニケーションを取ることができる。

 肩甲骨のあたりまである金色の髪に、知性を宿した青い瞳。この日は、ベージュ色のセーターに、黒色のスカート。茶色のコートを右腕に持って、左肩から斜めに白色のショルダーバッグをかけている。


「こんにちは」

「おお! こんにちは! 今日は授業ですか?」

 普段は、フランス語や英語で授業や会話をしているけれど、ぼくの前では日本語を使ってくれる。ぼくがフランス語や英語で会話をすることができないから、自然とそれに合わせてくれているのだ。


「はい、補講でした」

玖留実くるみさん?」

「そうです、胡桃ことう先生です」

「それはそれは。玖留実さんは今年も忙しいけど、ちゃんと授業を開くから偉いですね」


 胡桃先生が例年以上に忙しいというのは、入学したあとに知ったことだ。それなのに、ぼくの研究の指導を引き受けて下さったことには、感謝しかない。

 うちは大学院に力を入れている大学ではないだけに、教員のなかには、院生の面倒を見たくないと思っているひとも少なくない。


青風あおかぜさんも、わたしの補講でした」

「補講だったんですね。今日は大学に来るとは聞いていたんですが」

「連絡を取り合っているんですね! うんうん、仲が良いのが一番です」

「院生はふたりしかいませんから、協力していかないといけませんし」

「夏入試では、何人か試験を受けていたんですけど、果たして、来てくれるかどうか……」


 本学の学部生が、人文学研究科を受験するのは、本命の大学院に落ちたときの滑り止めが目的なのがほとんどらしい。そのため、入学してくるのは、ぼくみたいな別の大学からの受験者しかいないとのことだ。もちろん、それもまれなことなのだという。

 ふとなにかを思い出したらしい先生は、笑顔のまま「またね」と手を振って、陽気な調子で階段を軽やかに上っていった。


     *     *     *


 七号館の三階にある院生研究室のドアを開ける。


 ほぼ空っぽの本棚が「コ」の字型に並んでいる。空いている机がほとんどで、窓際まどぎわ芭蕉ばしょう先輩の席があり、その隣には小さな冷蔵庫がある。その上には電子レンジが乗っている。

 ぼくの席は先輩の向かいにある。ふたつの席の間には衝立ついたてがあり、時間割やメモ用紙を画鋲止めにしてある。椅子に座ってしまえば、先輩の顔しか見えない。


 報告したいことがあったのだけれど、いつ戻ってくるだろうか。先輩の藍色あいいろのリュックは、机の上にはない。

 窓の外に目を向けると、枯れ木が枝を交叉こうささせた先に、山と入り江の間に広がる町の景色が見える。



(2024/10/06 加筆修正)

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