03. 青風芭蕉(人文学研究科 博士課程1年)

「お疲れ様」

「あ、お疲れ様です」


 振り返ると芭蕉ばしょう先輩がいた。クリーム色のショートアウターから、グレーのインナーのそでがでており、いつ見ても綺麗な色白の手がその先にある。

 おとなしめの水色のスカートが足首の上あたりまでおりていて、黒色のブーツは少しだけれている。


「暖房、つけておきましたよ」

「ありがと」

 うるしのように上品にきらめく、肩の上まである髪の頂上に、ほんのりと雪の足跡が残っていた。


「あっ、芭蕉先輩」

「ん?」

 自分の席に着こうとする先輩の頭から、優しく雪を払った。

 払ってから、「あっ」と思った。妹と弟が子供のころ、雪の降る日に遊んで家に帰ってくるたび、こうして雪を落としてやったときのクセが、無意識に出てしまった。


「ごっ、ごめんなさい! なんというか、その……妹と弟の世話をしてきたもので! もので? ええと……」

「言ってくれれば、自分でするのに。そういうとこ。そういうところがずるい……」

 先輩はごにょごにょとなにかを言ったあと、「今回はゆるすから」となんとか怒り(?)の矛先ほこさきをおさめてくれた。

「以後、気をつけます」


 先輩は椅子を引き、のびをひとつすると、カイロの袋をやぶいて両手でもみはじめた。

 電気ケトルでお湯をわかしている間に、今年度刊行する『琥珀紋学院大学 人文学研究科紀要 vol. 21』の作成の進捗しんちょく状況について手短に説明をした。

「ごめんね、すべて任せてしまって」

「いえ! いままで先輩に色んなことを頼りっきりだったので、これからは、ぼくにできることがあれば、なんでもやりますよ」


 大学院生の論文・書評などが掲載されている、「大学院紀要」を刊行している大学は多いが、大学院生の書いた文章を率先して読む人はまれだろう。それに、基本的に、大学外で流通されるものではないし、なにより、うちの研究科のものだというだけで、手に取らないひとがほとんどに違いない。

 それでも、大学院の予算獲得のために、なんらかの実績が必要だということもあり、毎年、院生がなにかしらのまとまった研究成果を、一冊の雑誌にして各大学に配布しているのだ。


「そういえば、彩園院さいえんいん大学から、今年から紀要の送付を断るっていう連絡がきていたわ。図書館の棚が逼迫ひっぱくしてきたからって。だから、送付先リストから外しておいた」

「ありがとうございます。助かります」


 他大学の大学院で修士課程を修了してから、うちの研究科の博士課程に進学した先輩からしてみれば、大学院から刊行する紀要のために文章を書くくらいなら、学会から刊行されるジャーナルに投稿する論文を書きたいだろうに、ページ数のことを考えて書評を寄稿してくれた。

 よって、目次にはちゃんと、先輩の名前が載っている。


   ――――――


[小論文]

・鱗雲風吹 「移行期正義における応報的正義と修復的正義に関する議論の問題点-Localizing Transitional Justiceを中心に-」


[書評]

・鱗雲風吹 「美神沙羅『分かりやすく解説 アフリカ史』箒星出版、2023年」

・青風芭蕉 「Sunrise Mooncrock. Introduction of Western Philosophy, Dandelion University Press, 2023」*1


   ――――――


「ところで、鱗雲うろこぐもくんは、クリスマスに予定は入っているの?」

「クリスマス……そういえば、もうそんな時期ですね」

「うん、だから、だれかと約束をしてたりするの?」

「いえ、バイトです。前にお話した玩具屋おもちゃやさんで。それに、バイトが終わったら、そのまま家に帰る予定です。課題もあることですし」


 ぼくは、海に近いところにある小さな個人経営の玩具屋さんで、今年の夏からバイトをはじめた。

「そっか」

 心なしか、滅多に感情をあらわにしない先輩の表情が、少しだけゆるんだ気がした。


「先輩は?」

「わたし? わたしは……」

「あっ、ごめんなさい。デリカシーがなかったですね」

 むかし、彼氏がいるって言ってたし、予定はあるのだろう。

「違うの! なにも予定なんて――」


 先輩の言葉をさえぎるように、ぼくのスマホが鳴りはじめた。


「ごめんなさい、電話です」

 院生研究室の中では通話をしてはならないという決まりがあるため、廊下に出てから電話を受けとった。

『あ、八ツ橋です。鱗雲くん、いま大丈夫だった? クリスマスのことで確認したいことがあるのだけれど――』



【注】

*1 二作とも架空の書籍である。



(2024/10/07 加筆修正)

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