04. 神凪湖畔 教授(国際法)

 神凪湖畔かんなぎこはん先生は、学生にとどまらず同僚からも、「学生ファースト」と評価されており、また、「孤高の一匹狼」みたいな印象を持たれているらしい。

 ぼくからしてみれば、「面倒見のいい先生」という好印象しかないが、神凪先生と親しくしている胡桃ことう先生いわく、「恋多き女性」とのことで、そういうことは、あまり聞きたくなかった半面、いつもオシャレな服装をしている理由が分かった気がした。


 肩にかかった、さらさらとした明るいブラウンの髪。紅色のインナーの上に長い丈の橙色のワンピースを羽織るというオシャレテク。ベージュのガウンコートは、いまは先生の隣の椅子に畳まれて置いてある。黒色のブーツは、全体の印象をよく引き立てつつ、まとまったものにしている。

 若々しいその姿は、学生と見まがうほどだ。しかも、着ている服によって声色も少しだけ変わるときもある。「琥珀紋学院こはくもんがくいんの教員陣のオシャレ番長」だと、胡桃先生は冗談っぽく言っていた。


 しかしそんな見た目のことより、「面倒見のいい先生」ということの方が、ぼくには圧倒的な魅力で、クリスマス・イヴの今日、ぼくの用事に合わせて、一度飛んだ授業の補講を開いてくれた。

 あのときの休講をしらせるメールには、「今後、体調管理には気をつけるので、今回は大目に見て頂けると幸いです」と、丁寧な言葉で書いて下さっていた。


 神凪先生が専門としているのは「国際法」だ。その関係で、民族紛争に関する研究もしている。また、「移行期正義」と呼ばれる、紛争をはじめとする大規模な暴力が起こったあとの、「共同体コミュニティ」の立て直しのプロセスに関する研究成果もいくつかある。

 とくに、紛争後の戦争犯罪の「裁き」の問題に重点を置いている(一方の胡桃先生は、人々の間の「和解」を中心にしている)。先生の論文を読めば、国際刑事裁判所の記録などを一次史料としているのが分かる。


「では、《安保理決議872》を中心に、内戦中のルワンダへのPKO派遣の是非、及び人員の増減に関する議論が、内戦の帰趨きすうにどのような意味を持ったと先行研究では考えられてきたのか。その報告から、お願いします*1」

「こちらが作ってきた資料です」


 一対一の授業。プリントアウトしてきた手作りの資料を、先生へと差し出す。


「ありがとう。三、四、五……五枚かな?」

「はい、五枚です」

「かなりの量があるね、マジメにやってくれていて嬉しいよ。とくに……これから発表してくれるんだろうけど、ざっと見た感じ、内戦中の安保理の議事録をほとんど読んだみたいだね。偉いよ。じゃあ、報告をお願いします」


 胡桃先生も、神凪先生も、ぼくの研究に真剣に向き合ってくれている。だからこそ、それにこたえたくなる。

 修士課程に入り一年目のいまは、卒業に必要な単位の取得のために、毎日のように授業を入れなければならず、しかも、それぞれの授業で課題を出されて忙殺ぼうさつさせられている。それでも、どんどん頑張ろうと思えるのだ。


     *     *     *


 時刻通りに授業が終わり、帰り支度じたくをしていると、スマホの振動音が狭い教室内に響いた。

「悪い。わたしだ」

 ガウンのポケットからスマホを取り出した先生のほおは、みるみる赤く染まっていき、小声で「祐二ゆうじ……」とつぶやいたのが聞こえてきた。

 そして、弾んだ声で「よいお年を!」と言い残すと、先生は教室を出て行ってしまった。

 窓の外を見ると、ひらひらと粉雪が舞っていた。このまま吹雪くとイヤだな。今日は夕方からバイトだ。いつもよりゆとりを持って向かわないといけない。そんなことを思いながら、電気を消してドアを閉めた。


 そして今日も、ロベール先生とばったり会った。

「こんにちは! 今日も補講ですか?」

 白色のインナーの上に、薄めのブラウンのガウンをラフに羽織っている。クリーム色のズボンのすそが、濃いブラウンのブーツの口でだぼっとしている。シンプルながらオシャレなコーデで、神凪先生に引けを取っていない。

「はい。神凪先生の授業です」

「そうですか!」

 ロベール先生の相槌あいづちは、今日もハッピーに響く。


「湖畔さんとさっきすれ違ったんですが、なんだかウキウキしていましたね」

「そうですね……」

 彼氏のかた(たぶん)からの連絡に、るんるんとしていた神凪先生の様子が思い起こされる。

「わたしも、ウキウキしています」

 とロベール先生は言い、よりいっそう、にこやかな表情をして見せた。

「どうされたんですか?」

「来たる二十六日――八千、九百、二十六組もの漫才コンビの頂点が決まるんです」


 先生は大のお笑いファンで、むかしは「なんでやねん」という相槌をしていたこともあったらしい(正しいと思っていたらしい)。

 きっと、年末にあるという〈漫才ワングランプリ〉のことを言っているのだろう。

「わたしの大好きな《廻回転かいかいてん》が、初の決勝進出です! 絶対に観なければなりません!」

 どうやら、推しの漫才コンビが決勝の舞台に立つらしい。

 そういえば昔、こんなことを聞いた。


 一昨年、同僚のボアティング先生が、ネットニュースで〈漫才ワングランプリ〉のファイナリストの一覧を偶然見かけて、「そういえば、だれだれが出るみたいですね」とロベール先生に伝えた。

 そのとき、ロベール先生は忙しかったらしく、公式サイトにアップされている、「決勝進出者発表」の動画をまだ見ていなかった。先生は自分の目で、決勝に進む九組を知りたかったらしく、ネタバレをくらった形になった。

 それをきっかけに、しばらくボアティング先生と絶交をしていたとのことだ。

 先生は、それくらい、〈漫才ワングランプリ〉を楽しみにしている。


「いまにも泣きそうです……ラストに名前を呼ばれたときに、深く抱き合って喜んでいたふたりの姿……もう三十回は再生しましたよ」

 当日の午過ひるすぎから開かれる、決勝進出者の残り一枠を決める敗者復活戦も観るらしく、その日に仕事を入れないように、今日と明日で雑務を終わらせると意気込んでいた。

「それでは、また今度です!」

 ロベール先生は、元気に手を振ってから、階段を上がっていった。


 もう大学は冬期休暇に入っており、すぐ近くのバス停に列はなかった。ときおり車の行き来はあるけれど、山から海へと吹いて雪を斜めに走らせる風の音の方が、より痛切に響いてくる。


     *     *     *


 入り江の向こうに水平線が見える。

 砂浜に沿うように県道が走り、その途中に、市街地の方へと分岐するT字路がある。そのかたわらで「メゾン」は、静かに日本海を背負っている。

 看板にかかげられた、フランス語で「家」を意味するこの女性名詞は、アルファベットで表記されていない分、昭和の残滓ざんしのようなものを感じさせる。見かけのせいでもあるだろうけれど。

 このさびれた個人経営の玩具屋おもちゃやさんは、昨年に市街地にできたチェーン店とは違い、すっかりこの町に馴染なじみきっており、客足が途絶とだえがちだけれど、つぶれることはなかった。


 最新のゲームもメジャーなタイトルしかないし、建物を作るブロック系の玩具おもちゃも、懐かしの建造物の完成図を箱のおもてに見せている。名前も知らないお人形は、うす暗い中で見ると、ちょっとびっくりしてしまう。

 しかしこのお店の最大の特徴は、レジから見て奥の方に、カードショップにあるようなショーケースが三つあることだ。

『グローリア』という「トレーディングカードゲーム」のカードが置かれたこの一画は、このお店において、あまりにも浮いたスペースになっている。これは、オーナーの息子さんの(むかしの)趣味が反映されている。


 オーナーの息子さんの正樹まさきさんの父親、美月みづきの祖父である八ツ橋伝兵衛でんべえさんが経営しているこの玩具屋さんで、ぼくはこの夏からバイトを始めた。バイトをしているのは、ぼくと美月だけだ。

 大学院生は忙しくて、学外ではアルバイトができない。

 というのは、よく言われることだけれど、この「メゾン」はかなり融通ゆうづうがきくし最低賃金を大きく上回るバイト代をもらうことができる。学業に支障をきたすことなく、金銭面で恩恵にあずかることが可能なのだ。


 ところで、ここで働かせてもらうようになったきっかけは、美月とぼくの最初の出会いが――あるちょっとした出来事が関係している。



【注】

*1 この決議の文書番号は以下の通り。S/RES/872。



(2024/11/26 加筆修正)

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