05. ステファン・ボアティング 教授(日本古代史)
「授業が終わったら、少し怪談を
――と、ステファン・ボアティング先生は、暑さにへこたれているぼくに語りかけてきた。
ボアティング先生は、西アフリカのガーナ出身の研究者で、ロベール先生と同じく、基本的に英語とフランス語で授業をしているが、日本語での講義も行っている。
前に廊下でおふたりを見たときは、たしか、フランス語でやりとりをしていたと思う。
そして怪談が大好きで、暇さえあれば、怪談ライブに行ったり、専門番組を視聴したりしているという。自分で怪談を披露することもある。テレビ番組にも、怪談師として出演した過去がある。
そんなボアティング先生に依頼されて、特別講義の助手として、
用意された控え室へと向かうあいだも、先生はフレンドリーに、すれ違う学生に自ら
普段はTシャツ一枚のことが多いが、今日はビシッとスーツを着ている。
控え室にはボアティング先生とぼくのほかに、誰もいなかった。長机を繋ぎあわせて作った「大机」に、ペットボトルのお茶とかなり豪華なお弁当が置いてあった。
先生は窓辺に立つと、目の前に広がる古都の町並みを眺めはじめた。そして、うっとりとしたため息をついた。
机の上には、文選大学の夏の特別講義のプログラムを記した、緑色のチラシも重ねてある。
【歴史の中から「いま」の私たちの課題を探る】
というタイトルで行なわれる、十回の特別講義は、毎年大盛況のイベントで、大学外から応募者が殺到するらしい。
ボアティング先生は、この講義に毎年ゲスト参加しているのだという。
【第一回】『史料批判とは何か』……Stephen BOATENG(
ボアティング先生は、初回の講義を担当する。
史料批判――歴史学に足を踏み込むならば、必ず身につけなければならない「技法」だ*1。
ぼくが研究の対象としている中東部アフリカの「現代史」では、例えば、植民地政府が本国へと
しかし、そうした「史資料」は、植民地政府にとって都合のいい内容に書かれていたり、宗教的な
だから、そのような「史資料」に書かれていることを、そのまま
そこで、客観的な視点から「史資料」の性質を見極めるために
歴史を扱う特別講義ということもあり、まずは「史料批判」から教えるということになっているらしい。
「おお! これは美味しそうですね!
用意されていたお弁当は、地元の食材をふんだんに使っているものだった。
日本各地の怪談を集めるのが趣味のボアティング先生は、ご当地の食べものにも目がないとのことで、
「このお弁当を食べたら、先に教室に行って、スクリーンに資料を映しておきますね」
「それは助かります。お礼に、好きなものを取ってください」
そう言って、自分のお弁当をぼくの前に突き出してくる。
「いえ! 大丈夫です! これは、あらかじめ決められたぼくの業務ですし、お気遣いだけで嬉しいので、先生がお食べになって下さい」
「そうですか……」
先生は少し寂しげな表情をしてから、手を合わせて「いただきます」と言った。美しさを感じる
* * *
そして、スクリーンに映った資料が、ちゃんと切りかわるかどうかを確認していると、教室のなかに受講生が入りはじめた。
学生よりもご年配の方の割合が多かった。こうした大学の「外部」に窓口を開いた特別講義には、あまり学生は応募しないというイメージがある。夏期休暇より勉強を選ぶ学生は、珍しいだろうから。
前の方の席は、ご年配の方々で埋まっていく。隣の受講生と
それから十分ほど経ち、満席になった教室に、ボアティング先生が、にこやかな表情をして入室してきた。「みなさんこんにちは」と
「それでは、はじめましょう。一時間半の講義になりますが、楽しくやっていきましょうね。さて、まずは自分の自己紹介から」
講義のタイトルの次に、スクリーンに映し出されたのは、ボアティング先生の簡単なプロフィールだ。
――――――
ステファン・ボアティング(Stephen BOATENG)
琥珀紋学院大学文学部 教授
専門……日本古代史(とくに外交史)
趣味……怪談(ライフワーク)
好きな食べもの……へしこ、梅ジュース
――――――
下のふたつは必要なのだろうかと思ったけれど、先生なりのユーモアなのだろう。ちなみに、へしこと梅ジュースは、研究の関係で先生が
「そして、もうひとり紹介しましょう。こちらは、今日私の助手をしてくれる、うちの大学の大学院生の鱗雲さんです」
突然の紹介に、ぼくは慌てて頭を下げる。なにか言わなければならないと焦り、「よろしくお願いします!」と、急いで付け加えた。
「さて、今回の講義で問題にするのは、史料批判というものです。ひとつ例を出してみましょう。分かりやすくするために、あえて、歴史から離れた例を使ってみたいと思います。もしあなたに、命の恩人ともいえる友人がいるとしましょう。すると、その恩人のひとが、魔が差してしまってテストでカンニングをしてしまいます。それをあなたは目撃してしまうし、先生にもバレてしまう。後日、あなたは先生に呼び出されて、その恩人のひとが、最近なにか悩みを抱えていないかだとか、そういうプライベートなことを聞かれたとする。あなたは、どう答えるでしょう。もしかしたら、同情の余地があるということを、事実を誇張したり、嘘のエピソードを作ったりして、擁護するかもしれません。それが、良いことか悪いことかというのは、いまは置いといてください」
熱心な受講生しか集まっていないから、ボアティング先生の声と、ノートを取る音ばかりが聞こえてくる。ご年配の方々のうちの何人かは、万年筆を持っており、小さく「うん」という
「しかし本当は、内申点を上げるためにした行為だと、あなたは知っていた。だけれど、多大な恩がある以上は、本当のことを言うことができない。その恩人のひとのために、本当のことを話すのを避ける。こういう風に、なにか特別な関係が結ばれると、事実を
普段、英語とフランス語で授業をしているボアティング先生。しかし、日本語も
講義がはじまって一時間くらい経ったところで、「給水タイムです」と、ボアティング先生は用意されていたペットボトルの
「みなさんも、どうぞ。きょうは、とても暑いですからね。ありがたいことに、クーラーをつけて頂いていますが、それでも、水分は失われるものですから」
それを合図に、受講生の方々は、机の上に水筒やペットボトルを置いた。
ぼくも、持ち込んだミネラルウォーターを一口のんだ。そして、
それから、先生は講義を
【注】
*1 史料批判に関しては、以下の文献に詳しい。渡辺美季「過去の痕跡をどうとらえるのか-歴史学と史料-」東京大学教養学部歴史学部会編『-東大連続講義-歴史学の思考法』岩波書店、2020年、21-39頁。また、歴史学について包括的に論じたものとして、以下の文献が参考になる。遅塚忠躬『史学概論』東京大学出版会、2010年。及び、東京大学教養学部歴史学部会編、前掲書。
*2 植民地期以前から現代まで、ルワンダの国内問題に関与した、国内外の様々なアクターが残した
(2024/12/05 加筆修正)
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